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今城塚古墳

(史跡公園造成に向けて整備が行われている古墳)
所在地及びアクセス:

 高槻市郡家新町(ぐんけしんまち)

 JR東海道線(JR京都線)「摂津富田」駅下車。北出口を出て駅前広場を横切り数十メートル北側にある高槻市バス「JR富田駅」停留所より「南平台経由奈佐原」、「萩谷」、「萩谷総合公園」、「関西大学」行きのいずれかのバスに乗車しバス停「氷室
(ひむろ)」で下車する。バスの通る道に対し斜めに北東の方向へ向かう細い道を進むと徒歩数分で今城塚古墳に着く。「南平台経由奈佐原」行きの場合に限りバス停「福祉センター前」で下車し、傍の信号のある交差点を渡ると南側に今城塚古墳の木立が見えるので、こちらからも今城塚古墳に行くこともできる。
 他に、「日赤・公団阿武山(阿武野校前経由)」、「公団阿武山・日赤(阿武野校前経由)」、「西塚原(阿武野校前経由)」行きの何れのバスも「氷室」を通るが「JR富田駅」のバス停は上記とは異なり、JR摂津富田駅北側でJRの駅に近接した場所にある。

 上の地図でバルーン状のマーカーをクリックすると説明が出ます。

 なお、今城塚古墳の北側に前塚古墳があり、両古墳間の距離は極めて近いので同時に見学できる。

 「JR富田駅」より「南平台経由奈佐原」行き、「萩谷」行き、「萩谷総合公園」行き、「関西大学」行きのバス発車時刻は9:00〜18:00の間について、次の通りである。(2009年4月1日改訂、2009年9月現在)
平日 土曜日 日曜日・祝日
09 05 25 35(公) 40 55(関) 00 05(萩) 20 40 00 05(萩) 20 40 55(公)
10 00 10(学) 20(萩) 22 40 00 05(萩) 20 40 00 20 40 55(萩)
11 00 10(関) 20 40 56(萩) 00 12(公) 20 40 00 20 40 48(萩)
12 00 20 30(公) 40 00 01(萩) 20 25(関) 40 00 20 40 55(萩)
13 00 02(萩) 20 22(関) 40 58(萩) 00 07(萩) 20 40 00 20 30(公) 40
14 00 15(関) 20 40 45(公) 00 05(公) 20 39(萩) 40 00 05(萩) 20 40
15 00 10(萩) 20 40 58(萩) 00 05(関) 20 40 47(萩) 00 13(萩) 20 40
16 00 20 30(学) 40 45(休) 59(学) 00 20 21(萩) 40 00 20 21(萩) 40
17 00 18(萩) 20 38(関) 40 00 20 30(萩) 40 00 20 30(萩) 40
無印は「南平台経由奈佐原」行き。
(萩)は「萩谷」行き。(公)は「萩谷総合公園」行き。
(関)は学休日、学期日に関係なく運行する「関西大学」行き。(学)は学期日のみ、(休)は学休日のみ運行する「関西大学」行き。

 「JR富田駅」より「日赤・公団阿武山(阿武野校前経由)」行き、「公団阿武山・日赤(阿武野校前経由)」、「西塚原(阿武野校前経由)」行きのバス発車時刻は9:00〜18:00の間について、次の通りである。(2009年4月1日改訂、2009年9月現在)
平  日 土曜日 日曜日・祝日
09 05 25 48 15 45 15 45
10 15 45 15 45 15 45
11 15 45 15 45 15 45
12 15 45 15 45 15 45
13 15 45 15 45 15 45
14 15 45 15 45 15 45
15 15 45 15 42 15 42
16 15 43 06 30 57(塚) 06 30 58(塚)
17 00(塚) 10 30 50 55(塚) 18 38 55(塚) 58 18 42 58(塚)
無印は「日赤・公団阿武山」又は「公団阿武山・日赤」の何れかである。「循環」表示の有無は無視してよいが、経由に注意し、必ず「阿武野校前経由」に乗車すること。
(塚)は「西塚原(阿武野校前経由)」行き。


今城塚古墳の概略:
今城塚古墳全景
 今城塚古墳は淀川北岸では最大の巨大な前方後円墳(左のコピー:高槻市教育委員会発行『史跡・今城塚古墳』のパンフレットより(1997年2月撮影))であり、
国史跡に指定されている。

 今城塚古墳の呼び名は、この古墳が戦国時代に砦として使われたことに由来しているという。

 古墳の規模は全長約350m、墳丘の長さ約190m、前方部の幅148m、高さ12m、後円部の径約100mとされている。かつては墳丘や内堤にはハニワをめぐらし、二重の濠を持ち広大な墓域を誇っていたようで、左のコピーにも見られるように、かつての周濠の一部が2004年まで残っており、水で満たされていた。

 古墳が築造されたのは6世紀前半と想定されており、古墳から高さ約1.7mで日本最大級の家形埴輪や、よろい姿の武人埴輪ほか色々な埴輪が出土している。出土した埴輪については後述する。

 1997年(平成9年)11月から古墳の発掘調査が始まるが、それに伴って古墳の形状に変化が出始めたが、2004年(平成16年)から史跡公園としての整備工事が始められ、特に、2005年(平成17年)から周濠の水抜きが始まり、古墳一帯の立ち入りが禁止されてからは、古墳にかなり大きな変化が見られるようになった。

史跡公園整備工事前の今城塚古墳:
史跡石碑
 内濠と外濠を区切っている内堤に『史蹟今城塚古墳』と彫られた石柱標識(左の写真)が建てられており、『昭和十四年(1939年)三月大阪府』の銘が入っている。

 今城塚古墳が国史跡に指定されたのは昭和33年(1958年)2月であるから、この標識は国史跡に指定される前に建てられている。これは大阪府の史跡に指定されたときに建てられたものと思われる。

 史跡公園整備工事が開始されたときから、この場所には立ち入ることは出来なくなっており、現在(2009年)、この石碑が元の場所にそのままあるのかどうかもわからない。
内堤の一部
 内堤(左の写真:内堤の一部)には踏み固められた散歩道がついており、まるで木の生い茂った公園のようであるが、現在(2009年9月)、この内堤も史跡公園整備のため工事中であり、立入禁止になっている。
墳丘
 左の写真は後円部の墳丘東側を内堤から内濠越しに見たものである。この写真は2000年(平成12年)1月に撮影したもので、内濠に水が満たされている。

 現在(2009年9月)、ここには立ち入ることはできないが、外から推測する限りこの場所の史跡公園への整備は終わっているものと思われる。
内濠
 左の写真は2003年(平成15年)秋に撮影した古墳南側の内濠の一部である。この時点でも濠の水は抜かれておらず、自然が豊かな情景を見ることができた。

 この場所も現在(2009年9月)の時点で立ち入り禁止区域になっているが、整備工事中と推測される。史跡公園が完成するとこの場所の自然は破壊されてしまって、このような情景を見ることができないであろう。
外濠(1)
 左の写真は2004年(平成16年)時点での古墳東端の外濠で、水の溜まっている場所である。

 史跡公園整備のために濠の水は排水され整備工事が行われた。現在(2009年9月)、この場所の整備工事が完了しているものと推測されるが、一応、工事中ということで立入禁止になっている。
外濠(2)
 かつては、濠には魚釣り用の足場があり、季節を問わず釣り人が糸を垂れているのを見ることができた。左の写真は2004年(平成16年)夏に撮影した古墳東端の外濠での釣り風景である。

 この釣り場は2005年3月31日をもって閉鎖され魚釣り禁止になったため、以来このような光景は見られなくなった。

 魚釣り禁止は今城塚古墳を史跡公園とするための整備計画に基づいた措置である。この場所も他の場所と同様、現在(2009年9月)立入禁止である。
 宮内庁は茨木市にある「太田茶臼山古墳」を継体天皇陵に指定しているが、出土品や日本書紀などの史料の検討結果から、この今城塚古墳が真の継体天皇陵であるとするのが定説になっているようである。しかしながら、景観、荘厳さ、雰囲気などからみれば、今城塚古墳よりも、太田茶臼山古墳のほうが天皇陵としての体裁は整っている。ただ、太田茶臼山古墳は天皇陵であることを前提として整備されているから、これは当然かもしれない。

 天皇陵が史跡公園になるというのは考えにくいので、史跡公園への整備を行っているということは、今城塚古墳が真の継体天皇陵であるという定説を否定する行為をしていることになるのではなかろうか。


史跡公園造成整備と現状:

 前述したように、平成16年(2004年)から今城塚古墳を史跡公園とすべく工事が始められた。
史跡公園完成イメージ図
 左のコピー(工事場所に掲示されている説明板から)は史跡公園完成イメージ図である。

 イメージ図から想像できることは、内堤や内濠、外濠の荒れ地化したところも、この計画遂行によって良くも悪くも一変してしまうであろうということである。

 史跡公園整備工事は平成16年(2004年)から始められ、古墳北側(イメージ図の左上側)から着手された。この古墳北側内堤部分は第五次及び第六次の発掘調査が行われた場所で、多数の埴輪が発掘され、かつて祭祀が行われたとされている場所である。

(平成17年(2004年)5月)
 
整備工事後の内堤一部
 左の写真は最初に整備工事が行われた古墳北側の内堤部分で、約100mにわたり整備された場所である。写真右側が内濠、左側が外濠にあたる。内堤の両端には円筒埴輪が並べられている。

 この写真は平成17年(2005年)5月に撮影したものであり、当時は公開されていたのであるが、現在(2009年9月)は立入禁止になっている。
古墳北側の祭祀場
 上述した内堤に密接してその北側に埴輪祭祀場が設けられている(左の写真:2005年5月撮影)。整備後はここに埴輪が置かれ、かつてあったと推定されている祭祀場が平成22年(2010年)に再現されるといわれているが、計画通りになるかどうかはわからない。

 この場所も、現在(2009年9月)は立入禁止になっている。

(平成21年(2009年)9月)
古墳北寄り東側
 左の写真は古墳東側やや北寄りの場所で2009年(平成21年)9月に撮影したものである。写真手前が外濠のあった所でその奥に堤のように見えているのが内堤、写真右奥の木の茂っているのが古墳後円部である。

 見た感じでは整備工事が終わっている様に思えるが、ここも現在立入禁止区域である。この写真は障壁の金網越しに撮影したものである。
古墳東南部
 左の写真は古墳東南の場所で、写真左側奥に少し見えている木の茂った場所が古墳後円部、その手前の堤のように見えているのが内堤、更に手前に道のように写っているあたりが外濠のあったところである。

 撮影したのは平成21年(2009年)9月で、この時点では整備工事が大略終わっているように見えるが、この場所も現在立入禁止区域であり、写真は障壁の金網を通して撮影したものである。
古墳南側
 左の写真は古墳南側で、写真中央部に障壁が見える。障壁の左側が現在(平成21年(2009年)9月)工事が行われている場所である。

 工事中の箇所は何故か写真のように高さ2m以上もある板で囲われており、周囲から工事の状態を視認することは出来ない。
古墳南西隅
 かつてから古墳の西南隅の場所は畑(左の写真:平成21年(2009年)9月撮影)になっており色々な野菜類や花が植えられているが、史跡公園整備工事が始まってからも、この場所は畑のままであり現在まで変わっていない。

 左の写真で畑の奥側の森は古墳の内堤部分である。古墳と畑の境界は低い障壁が設置されているが、本来、この畑は史跡内を占拠しているのであり史跡、古墳の一部である。写真左側に見える小さなコンクリート製の柱状物は史跡の表示である。今後、工事がこの場所に及んできたときはこの畑はなくなるであろうと思われる。

 史跡公園造成整備の工事は上述のように古墳の北側からはじまり、東側へ向かって進められ後円部周辺が終わり、次いで南側にまわり、現在(平成21年(2009年)9月)、古墳の南側で行われている。


発掘調査概略:

 1997年11月から2004年2月までの間に第一次〜第七次の計7回の発掘調査が行われた。2004年6月から第八次の発掘調査が、また、第九次の発掘調査が2005年6月から開始され、続いて、第九次(その2)の発掘調査が行われた。更に、2006年12月から第十次の発掘調査が行われた
第1次〜第7次発掘調査箇所
 左のコピー(原形地図は1998年高槻市教育委員会発行の「史跡・今城塚古墳」より)は一次〜七次の七回の発掘調査場所を表す図である。

 図で○印の中の数字は発掘調査の次数を表す。例えば、
Dは第五次の発掘調査場所を、Eは第六次の発掘調査場所を、Fは第七次の発掘調査場所を表している。
第一次発掘調査現場
 第一次発掘調査の試掘溝は1997年11月上旬から12月下旬までの間、後円部の東側の内濠部分で荒れ地になっている場所(発掘調査場所図で
@の部分)に掘られた(左の写真)。
第二次発掘調査現場
 第二次発掘調査は1998年10月から12月までの間、後円部北側の内濠部分で荒れ地になっている場所(発掘調査場所図でAの部分)に調査のための試掘溝が掘られた(左の写真)、

 1999年1月9日に第二次発掘調査の現地説明会が行われた。このときの見学者数は約700人だったという。
第三次発掘調査現場
 1999年10月から第三次発掘調査が後円部南側の内濠部分で荒れ地になっている所を中心として、外濠部分から後円部まで広範囲に行われた(発掘調査場所図でBのところ)。

 第三次発掘調査の現地説明会は2000年1月23日雨天の中で行われた(左の写真)。
第四次発掘調査現場(1) 第四次発掘調査現場(2)
 第四次発掘調査が2000年9月から始められ、かつて外濠のあった荒れ地から前方部のかなり奥の方まで、発掘調査場所図でCで表されている場所に調査溝が掘られた(左の二枚の写真)。

 第四次発掘調査の現地説明会は2000年12月に行われた。

 第一次〜第四次の詳細な発掘調査結果については、本HPに記載していない。高槻市教育委員会から報告されている第一次〜第四次発掘調査結果の概要は次の通りである。

古墳の規模に関すること:
1) 内濠の幅は約17〜19m、深さは地表面から約2〜4mであり、水をたたえて墳丘を一巡していた。
2) かつての外濠の幅は約19〜20m、深さは0.6〜0.8mで水のない空濠であったと思われる。

古墳造築に関すること:
1) 古墳造築に際し、ほぼ平坦な地が選ばれ、そこに生えている樹木などを伐採、野焼きした後、盛り土して造られたと考えられる。

古墳からの出土品などに関すること:
1) 石棺に使われた3種類の凝灰岩(二上山産、阿蘇産及び播磨産)が周濠や墳丘から発見された。それらの内、阿蘇産のものが大王級の古墳から見つかったのは初めてで、継体天皇陵説を補強する証拠になる。石室内には少なくとも三つの棺が納められていた可能性があり、7〜8人居たとされる継体天皇の妃が別々の棺で合、追葬されたのではないかと考えられる。
2) 墳丘上の大量の土を使い内濠が埋められている。また、瀬戸焼の天目茶碗が内濠跡から発掘された。これらから、大がかりな工事が行える相当の有力者がここに築城したと考えられる。「第二次発掘調査」の写真で最下層の黒い土は長年月を経て堆積した泥土層であり、上層部で色の薄い土と濃い土が縞状に混じり合っている層はもともと墳丘の土であったもので、築城した際、内濠を埋めるのに使われた土であるという。
3) 外濠の深さ40cmの場所から、直径1.07cm、重さ約6gの鉛製の球形の鉄砲玉が出土した。これは撃たれる前の玉と考えられている。

古墳を利用して築城した人物に関すること:
1) 戦国時代に三好長慶がこの古墳を利用して出城を築いたといわれていたが、調査の結果、築城に際し大規模な工事を行える人物であること、鉄砲隊を組織していた武将であることなどから、織田信長が三好長慶を攻めた永禄11年(1568年)の摂津侵攻に際し、信長がここに築城し陣地とした、と考える方が妥当である。
2) 継体天皇陵を破壊したのは、織田信長である可能性が大きい。



第五次〜第十次発掘調査結果
の詳細は下記の各次の発掘調査のページに記載している。

 第五次発掘調査は平成13年(2001年)6月〜10月に行われ、かつて外濠であった荒れ地から内堤部にかけて調査溝が掘られた(発掘調査場所図でDの部分)。第五次発掘調査の現地説明会は平成13年(2001年)9月23日に行われた。この状況及び結果については「今城塚古墳発掘調査(第五次)」のページに記載した。
第六次発掘調査現場
 第六次発掘調査が平成14年(2002年)5月〜12月に行われた。調査対象は内濠で墳丘に接した荒れ地になっている部分と内堤で第五次発掘調査が行われた場所に接した部分(発掘調査場所図で
Eの部分)である。

 第六次発掘調査の現地説明会は平成14年(2002年)11月30日に行われた。左の写真はこの現地説明会の情景である

 現地説明会の状況及び結果については「今城塚古墳発掘調査(第六次)」のページに記載した。
第7次及び第8次発掘個所
 第七次の発掘調査が平成15年(2003年)8月〜平成16年(2004年)2月に行われた。調査対象場所は後円部と前方部が接しているくびれ部分(北側、南側共に)、後円部の墳頂部、及び後円部東南端の内濠に近接した部分である。

 第七次及び第八次(後述)の発掘調査場所を表したのが左図である。第八次の発掘場所に記している番号はトレンチ番号である。
第七次発掘調査説明会情景
 第七次発掘調査の現地説明会は平成16年(2004年)2月15日に行われた。左の写真は現地説明会の一情景である。

 説明会の状況と結果については「今城塚古墳発掘調査(第七次)」のページに記載した。
第八次発掘調査現地説明会
 第八次の発掘調査が平成16年(2004年)6月24日から開始された。発掘調査場所は後円部墳頂部、後円部東南側及び墳頂部からくびれ部に及んだ部分(発掘調査場所図参照)であり、一部、第七次の発掘調査場所に重なっている。

 第八次発掘調査の現地説明会は平成17年(2005年)2月20日に行われた。左の写真は現地説明会の一情景である。

 説明会の状況と結果については「今城塚古墳発掘調査(第八次)」のページに記載した。
第九次発掘調査地
 第九次の発掘調査は平成17年(2005年)6月27日から開始された。発掘調査場所は前方部西南側の内濠に近接した部分であり、左の図で第九次発掘調査区域として表している。第九次発掘調査の現地説明会は平成17年(2005年)8月28日に行われた。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第九次)」のページに記載した。

 第九次発掘調査に続き、第九次(その2)の発掘調査が行われた。発掘調査場所は内堤西南隅で、外濠に密接した部分、内濠の近く及び内濠西南隅で内堤に接した部分であり、左の図で第九次(その2)発掘調査区域で表している。
第九次(その2)発掘調査説明会
 第九次(その2)発掘調査結果の現地説明会が平成17年(2005年)12月10日に行われた。左の写真は現地説明会の情景である。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第九次(その2))」のページに記載した。
第十次発掘調査区域
 第十次発掘調査は平成18年(2006年)12月1日から開始された。第十次の発掘調査場所は左の図(図には、第九次及び第九次(その2)の調査区域も示している)に示す通り、古墳後円部の墳頂から北側にかけての場所である。

第十次発掘調査現地説明会
 現地説明会は平成19年(2007年)3月4日に行わた。左の写真は現地説明会の一情景で、写真中央付近から下の方に写っている石組みは、今回の発掘現場のほぼ全景である。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第十次)」のページに記載した。
第十次発掘調査現場
 左の写真は第十次の発掘調査現場を北西側から見たものである。この石組みは特徴的であるが、詳細については「今城塚古墳発掘調査(第十次)」のページに記載している。


発掘調査により出土した主な埴輪:

 第五次及び第六次の発掘調査により、埴輪祭祀場から多くの埴輪が出土した。それらの内、主なものを以下に示す。なお、これらの埴輪は史跡公園整備工事により整備された埴輪祭祀場に平成17年(2005年)8月28日に展示されたものである。
高床の家
 左の写真の家形埴輪は平成13年度の第五次発掘調査において発掘されたもので、その高さは1.7mあり、家形埴輪としては最大級のものといわれている。
柵
雄牛 雄鳥
巫女 巫女 巫女

 これらの埴輪は全て出土した破片をつなぎ合わせ復元したもので、複製品ではないという。

2009年9月15日最終更新
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