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今城塚古墳

(史跡公園になった淀川北岸で最大規模の古墳)
所在地及びアクセス:

 高槻市郡家新町(ぐんけしんまち)

 JR東海道線(JR京都線)「摂津富田」駅下車。北出口を出て駅前広場を横切り数十メートル北側にある高槻市バス「JR富田駅」停留所より「南平台経由奈佐原」行きのバスに乗車し、バス停「今城塚古墳前
」で下車する。道路を隔て南側に今城塚古墳が見える。

 上の地図でバルーン状のマーカーをクリックすると説明が出ます。

 なお、今城塚古墳の北側に前塚古墳があり、両古墳間の距離は極めて近いので同時に見学できる。

 「南平台経由奈佐原」行きバスの「JR富田駅」発車時刻は9:00〜18:00の間について、次の通りである。(2011年4月1日改訂、2011年9月現在)
平日 土曜日 日曜・祝日
09 05 25 40 00 20 40 00 20 40
10 00 20 40 00 20 40 00 20 40
11 00 20 40 00 20 40 00 20 40
12 00 20 40 00 20 40 00 20 40
13 00 20 40 00 20 40 00 20 40
14 00 20 40 00 20 40 00 20 40
15 00 20 40 00 20 40 00 20 40
16 00 20 40 00 20 40 00 20 40
17 00 20 40 00 20 40 00 20 40
他に、「関西大学」、「萩谷」、「萩谷総合公園」行きのバス便もある。この場合は「氷室」で下車する。バス停から今城塚古墳公園まで徒歩数分〜10分。

今城塚古墳の概略:
今城塚古墳(1992年2月)
 今城塚古墳は淀川北岸では最大の巨大な前方後円墳(左のコピー:高槻市教育委員会発行『史跡・今城塚古墳』のパンフレットより(1997年2月撮影))であり、国史跡に指定されている。

 今城塚古墳の呼び名は、この古墳が戦国時代に砦として使われたことに由来しているという。

 古墳の規模は全長約350m、墳丘の長さ約190m、前方部の幅148m、高さ12m、後円部の径約100mとされている。かつては墳丘や内堤にはハニワをめぐらし、二重の濠を持ち広大な墓域を誇っていたようで、左のコピーにも見られるように、かつての周濠の一部が2004年まで残っており、水で満たされていた。

 古墳が築造されたのは6世紀前半と想定されており、古墳から高さ約1.7mで日本最大級の家形埴輪や、よろい姿の武人埴輪ほか色々な埴輪が出土している。

 平成9年(1997年)11月から古墳の発掘調査が始まるが、それに伴って古墳の形状に変化が出始めたが、平成16年(2004年)から史跡公園としての整備工事が始められ、特に、平成17年(2005年)から周濠の水抜きが始まり、古墳一帯の立ち入りが禁止されてからは、古墳にかなり大きな変化が見られるようになった。
古墳公園になった今城塚古墳:

 平成16年(2004年)から始められた史跡公園としての整備工事は平成23年(2011年)に完了し、同年4月1日に一般に公開された。同時に古墳の直ぐ近くに建設された「今城塚古代歴史館」もオープンした。
今城塚古墳模式図
 左のコピーは「今城塚古墳公園」の模式図である。

 古墳公園に整備される前と比べ、濠を囲む堤や内濠、外濠等はもともとの姿からはかなり大きく変わっているが、墳丘自体は大きく手を加えられてはいないようである。

 古墳公園には墳丘も含め自由に立ち入ることができ、数カ所の公園内への入口が設けられている。
外濠と外堤跡
 左の写真は古墳の東端、上述の模式図では左斜め下の部分である。左の写真で中央部分はかつての古墳外濠に当たる。外濠の左側から下部にかけて外濠を囲む形で木の植えられている場所は古墳の外堤に該当する場所である。また、左の写真で右端に一部見えている小高い部分は内堤(内濠を囲む堤)である。

 写真の外濠の場所は公園になる前のかつての古墳では水が湛えられていて、釣りの好きな人にとって恰好の釣り場になっていた。これについては詳細後述する。
内濠跡(1)
 左の写真は墳丘後円部南側から見た内濠と内堤(内濠を囲む堤)である。写真手前は墳丘後円部であり、奥側に見える堤は内堤である。写真中央部で内堤と墳丘の間に見える芝生が植えられている所はかつて内濠だった場所である。
内濠跡(2)
 左の写真は内濠で水の湛えられている場所である。かつての古墳内濠は公園化により、上述したように芝生が張られた所と左の写真のように水が湛えられている所の二つの部分が作られている。この写真は上述の模式図で内濠と表示された青色の所で右側の部分である。
古墳南造出
 左の写真は古墳後円部の南端から西側を見たもので、中央より右側が墳丘、左側が内濠跡の芝生地である。内濠跡芝生地の奥側に水が湛えられた内濠が見える。

 写真中央部にあるのが造出(つくりだし)と呼ばれている部分で、古墳の南側に位置しているので「南造出」になる。

 造出とは古墳墳丘の後円部と前方部の間にあるくびれた部分に設けられた四角い突出部のことで、かつてここで供物を捧げるなどの儀式を行っていた場所とされている。
北造出
 左の写真は古墳墳丘の北側で、写真左側が墳丘、右側が内濠跡の芝生地である。中央部分に木が植わっている突出部が見えるが、これが「北造出」である。

 北造出の盛り土は内濠側へ滑り落ちていたが、内濠から儀式に使われ、北造出に置かれていた壺など須恵器が発見されている。

 写真からわかるように、古墳の公園化に際して墳丘の裾部分には法面の緩い石垣が築かれ、墳丘の崩落を防ぐ対策が講じられている。公園として保存上とった措置であろうが古墳自体の景観としては少し違和感がある。
墳丘南西隅部分
 左の写真は墳丘前方部西南隅部分である。墳丘は伏見地震の地滑りでかなり変形したようであるが、この西南隅部分(上述の古墳模式図の「築造当時の姿を残す場所」)は当初の姿を残しているとされている。

 これは、発掘調査によって明らかにされたもので、テラス外縁をめぐる円筒埴輪列が発掘された場所である。詳細は「今城塚発掘調査(第九次)」のページを参照してください。
後円部の墳頂部
 左の写真は墳丘後円部の墳頂部である。発掘調査の結果、後円部には種々の工夫がなされていたことがわかった。

 墳丘盛り土に浸透した雨水を素早く排水できるように石を組んだ排水溝がいくつも見つかっている。詳細は「今城塚発掘調査(第七次)」及び「今城塚発掘調査(第八次)」のページを参照して下さい。

 後円部には石室が埋められているが、重い石室を支えた人工地盤とも言える石組みが発掘調査で確認されている。詳細は「今城塚発掘調査(第十次)」のページを参照して下さい。
内堤の断面(1)
 内濠と外濠の間にある内堤(内濠を囲む堤)の上面の幅は約18m、その高さは西側で約5m、東側で約2.5mである。左の写真は内堤東北部分の断面であり、現物が公開展示されている。写真左側が外濠側で右側は内濠側である。

 内堤は盛り土で造られ、下の方には黒灰色系、上側には黄灰色系の盛り土が用いられている。左の写真でもわかるように外濠に近い方は黒灰色系の盛り土が少なく内濠に近い方は黒灰色系の盛り土が多い。
内堤の断面(2)
 発掘調査により、内堤の内濠に近接した場所で内堤最下部から円い小石を敷き詰めた石敷遺構(左の写真)が見出されている。

 この石敷遺構の大きさは、展示の説明によれば東西9m、南北5mで、今城塚造成に際し地鎮祭を行った跡と考えられているようである。
内堤の円筒埴輪列(1)
 古墳には円筒埴輪が数多く用いられており、古墳を列状に幾重にも取り巻いている。

 左の写真は内堤上に置かれた円筒埴輪列である。写真左側に見えているのが墳丘前方部で、それに接して水を湛えた内濠が見え、右側が内堤である。

 円筒埴輪列は聖域と俗界を分ける境界、聖域を表す垣根であり、結界と呼ばれている。結界は心理的障壁であり、邪悪なものの立ち入りを封じる目的で設けられている。
内堤上の円筒埴輪列(2)
 左の写真は内堤西北部のコーナー部分の円筒埴輪列であり、コーナー部の円筒埴輪は器台に壺を乗せた形の朝顔形埴輪が立てられていたのを再現したものである。

 円筒形埴輪列は内堤上に限らず、発掘調査の結果から、墳丘部のテラスや墳頂部外縁にも巡らされていたのが認められ、その総数は約6千本と推定されている。

 古墳の北側で内堤から外濠に向かって突き出した長さ65m、幅10mの場所がある。ここはかつての埴輪祭の場所、埴輪祭祀場(既述の「今城塚古墳公園の模式図」参照)であり、人、動物など200個以上の埴輪が置かれていたという。この埴輪祭祀場は大王の死にかかわって実施された儀式の様子を再現するために設けられたとされており、今城塚古墳に特徴的であるという。埴輪祭祀場は古墳完成後に付けられたといわれている。直下の写真はかっての古代王権の儀礼をそのままに再現された埴輪祭祀場を遠望したものである。
埴輪祭祀場遠望
 埴輪祭祀場は直上の写真に記入したように4つの部分(区)に分けて考えられるという。
埴輪祭祀場1区(1)
 左の写真は埴輪祭祀場1区である。1区は埴輪祭祀場の東端に位置しており、祭殿風の家の埴輪が置かれている。1区の東の端及び2区との境界には柵の埴輪が配置されている。埴輪祭祀場に関して書かれている説明によれば、1区は大王が安置されている空間を暗示しているという。
埴輪祭祀場1区(2)
 埴輪祭祀場1区を内堤側から西北に向かって見たのが左の写真である。柵の埴輪が中央奥に見えるが、これが2区との境界になる。写真左端下に一部見えているのは内堤との境界になる円筒埴輪である。

 写真右奥には祭殿風の家の埴輪が、円筒埴輪に接してその北側に器台と蓋
(きぬがさ)の埴輪が配置されている。
埴輪祭祀場2区
 左の写真は埴輪祭祀場2区である。内堤寄りの場所には太刀の埴輪が置かれており、その北側には祭殿風の家、巫女や小さい家などが配置されている。
埴輪祭祀場3区(1)
 左の写真は埴輪祭祀場3区である。この区は配置されている埴輪の数が最も多く非常に賑やかで埴輪祭祀場の中心的な場である。
埴輪祭祀場3区(2)
 埴輪祭祀場3区を西側から東側に向かって見たのが左の写真である。写真右側が内堤側で太刀の列が見える。その左側、祭祀場中央部には巫女が二列に並び、更に左側には日本最大の祭殿風の家が配置されている。写真手前左側には盾が見える。
埴輪祭祀場4区
 左の写真は埴輪祭祀場4区である。4区は埴輪祭祀場の西端に位置しており、牛、馬、武人などの埴輪が見られる。埴輪祭祀場に関して書かれている説明によれば、これらの埴輪が門を守るかのように配置されているという。
祭祀場の埴輪(1)
 埴輪祭祀場4区を西側から東側に向かって見たのが左の写真である。写真で右側が内堤になるが、内堤に近い部分に白鳥の埴輪が、その北側に牛・馬の埴輪が置かれ、内堤から最も離れた所に鷹飼い人、武人が並べられている。

 この埴輪祭祀場からは発掘調査により多くの埴輪が発掘されているが、ここに配置されているものは全て複製品である。なお、発掘された埴輪は古墳の直ぐ傍にある「今城塚古代歴史館」で公開展示されている。

 埴輪祭祀場の発掘状態に関しては、「今城塚発掘調査(第五次)」及び「今城塚発掘調査(第六次)」のページを参照して下さい。

 上述したとおり今城塚古墳は「今城塚古墳公園」として整備され、内濠、外濠、外堤、内堤部分は整備前に比べ大きく変化してしまった。一方、墳丘は裾の部分が変わったが、墳丘自体は大きな変化はなく、かつての様相、景観はそれなりに残されているようである。


史跡公園整備工事前の今城塚古墳:
内堤の一部
 かつての内堤(左の写真:内堤の一部)には踏み固められた散歩道がついており、まるで木の生い茂った公園のようであった。
墳丘
 左の写真は後円部の墳丘東側を内堤から内濠越しに見たものである。この写真は平成12年(2000年)1月に撮影したもので、内濠には水が満たされていた。
内濠
 左の写真は平成15年(2003年)秋に撮影した古墳南側の内濠の一部である。この時点でも濠の水は抜かれておらず、自然が豊かな情景を見ることができた。史跡公園が完成した今ではこの場所の自然は破壊されてしまって、このような情景を見ることができなくなった。
外濠(1)
 左の写真は平成16年(2004年)時点での古墳東端の外濠で、水が満たされていた。
外濠(2)
 かつては、濠には魚釣り用の足場があり、季節を問わず釣り人が糸を垂れているのを見ることができた。左の写真は平成16年(2004年)夏に撮影した古墳東端の外濠での釣り風景である。

 この釣り場は平成17年(2005年)3月31日をもって閉鎖され魚釣り禁止になった。魚釣り禁止は今城塚古墳を史跡公園とするための整備計画に基づいた措置であった。

 宮内庁は茨木市にある「太田茶臼山古墳」を継体天皇陵に指定しているが、出土品や日本書紀などの史料の検討結果から、この今城塚古墳が真の継体天皇陵であるとするのが定説になっているようである。しかしながら、景観、荘厳さ、雰囲気などからみれば、今城塚古墳よりも、太田茶臼山古墳のほうが天皇陵としての体裁は整っている。ただ、太田茶臼山古墳は天皇陵であることを前提として整備されているから、これは当然かもしれない。

 天皇陵が史跡公園になるというのは考えにくいので、史跡公園にしたということは、今城塚古墳が真の継体天皇陵であるという定説を否定することになるのではなかろうか。


発掘調査概略:

 平成9年(1997年)11月から平成16年(2004年)2月までの間に第一次〜第七次の計7回の発掘調査が行われた。平成16年(2004年)6月から第八次の発掘調査が、また、第九次の発掘調査が平成17年(2005年)6月から開始され、続いて、第九次(その2)の発掘調査が行われた。更に、平成18年(2006年)12月から第十次の発掘調査が行われた。
第1次〜第7次発掘調査箇所
 左のコピー(原形地図は1998年高槻市教育委員会発行の「史跡・今城塚古墳」より)は一次〜七次の七回の発掘調査場所を表す図である。

 図で○印の中の数字は発掘調査の次数を表す。例えば、
Dは第五次の発掘調査場所を、Eは第六次の発掘調査場所を、Fは第七次の発掘調査場所を表している。
第一次発掘調査現場
 第一次発掘調査の試掘溝は平成9年(1997年)11月上旬から12月下旬までの間、後円部の東側の内濠部分で荒れ地になっている場所(発掘調査場所図で
@の部分)に掘られた(左の写真)。
第二次発掘調査現場
 第二次発掘調査は平成10年(1998年)10月から12月までの間、後円部北側の内濠部分で荒れ地になっている場所(発掘調査場所図でAの部分)に調査のための試掘溝が掘られた(左の写真)。

 平成11年(1999年)1月9日に第二次発掘調査の現地説明会が行われた。このときの見学者数は約700人だったという。
第三次発掘調査現場
 平成11年(1999年)10月から第三次発掘調査が後円部南側の内濠部分で荒れ地になっている所を中心として、外濠部分から後円部まで広範囲に行われた(発掘調査場所図でBのところ)。

 第三次発掘調査の現地説明会は平成12年(2000年)1月23日雨天の中で行われた(左の写真)。
第四次発掘調査現場(1) 第四次発掘調査現場(2)
 第四次発掘調査が平成12年(2000年)9月から始められ、かつて外濠のあった荒れ地から前方部のかなり奥の方まで、発掘調査場所図でCで表されている場所に調査溝が掘られた(左の二枚の写真)。

 第四次発掘調査の現地説明会は平成12年(2000年)12月に行われた。

 第一次〜第四次の詳細な発掘調査結果については、本HPに記載していない。高槻市教育委員会から報告されている第一次〜第四次発掘調査結果の概要は次の通りである。

古墳の規模に関すること:
1) 内濠の幅は約17〜19m、深さは地表面から約2〜4mであり、水をたたえて墳丘を一巡していた。
2) かつての外濠の幅は約19〜20m、深さは0.6〜0.8mで水のない空濠であったと思われる。

古墳造築に関すること:
1) 古墳造築に際し、ほぼ平坦な地が選ばれ、そこに生えている樹木などを伐採、野焼きした後、盛り土して造られたと考えられる。

古墳からの出土品などに関すること:
1) 石棺に使われた3種類の凝灰岩(二上山産、阿蘇産及び播磨産)が周濠や墳丘から発見された。それらの内、阿蘇産のものが大王級の古墳から見つかったのは初めてで、継体天皇陵説を補強する証拠になる。石室内には少なくとも三つの棺が納められていた可能性があり、7〜8人居たとされる継体天皇の妃が別々の棺で合、追葬されたのではないかと考えられる。
2) 墳丘上の大量の土を使い内濠が埋められている。また、瀬戸焼の天目茶碗が内濠跡から発掘された。これらから、大がかりな工事が行える相当の有力者がここに築城したと考えられる。「第二次発掘調査」の写真で最下層の黒い土は長年月を経て堆積した泥土層であり、上層部で色の薄い土と濃い土が縞状に混じり合っている層はもともと墳丘の土であったもので、築城した際、内濠を埋めるのに使われた土であるという。
3) 外濠の深さ40cmの場所から、直径1.07cm、重さ約6gの鉛製の球形の鉄砲玉が出土した。これは撃たれる前の玉と考えられている。

古墳を利用して築城した人物に関すること:
1) 戦国時代に三好長慶がこの古墳を利用して出城を築いたといわれていたが、調査の結果、築城に際し大規模な工事を行える人物であること、鉄砲隊を組織していた武将であることなどから、織田信長が三好長慶を攻めた永禄11年(1568年)の摂津侵攻に際し、信長がここに築城し陣地とした、と考える方が妥当である。
2) 継体天皇陵を破壊したのは、織田信長である可能性が大きい。



第五次〜第十次発掘調査結果
の詳細は下記の各次の発掘調査のページに記載している。

 第五次発掘調査は平成13年(2001年)6月〜10月に行われ、かつて外濠であった荒れ地から内堤部にかけて調査溝が掘られた(発掘調査場所図でDの部分)。第五次発掘調査の現地説明会は平成13年(2001年)9月23日に行われた。この状況及び結果については「今城塚古墳発掘調査(第五次)」のページに記載した。
第六次発掘調査現場
 第六次発掘調査が平成14年(2002年)5月〜12月に行われた。調査対象は内濠で墳丘に接した荒れ地になっている部分と内堤で第五次発掘調査が行われた場所に接した部分(発掘調査場所図で
Eの部分)である。

 第六次発掘調査の現地説明会は平成14年(2002年)11月30日に行われた。左の写真はこの現地説明会の情景である

 現地説明会の状況及び結果については「今城塚古墳発掘調査(第六次)」のページに記載した。
第7次及び第8次発掘個所
 第七次の発掘調査が平成15年(2003年)8月〜平成16年(2004年)2月に行われた。調査対象場所は後円部と前方部が接しているくびれ部分(北側、南側共に)、後円部の墳頂部、及び後円部東南端の内濠に近接した部分である。

 第七次及び第八次(後述)の発掘調査場所を表したのが左図である。第八次の発掘場所に記している番号はトレンチ番号である。
第七次発掘調査説明会情景
 第七次発掘調査の現地説明会は平成16年(2004年)2月15日に行われた。左の写真は現地説明会の一情景である。

 説明会の状況と結果については「今城塚古墳発掘調査(第七次)」のページに記載した。
第八次発掘調査現地説明会
 第八次の発掘調査が平成16年(2004年)6月24日から開始された。発掘調査場所は後円部墳頂部、後円部東南側及び墳頂部からくびれ部に及んだ部分(発掘調査場所図参照)であり、一部、第七次の発掘調査場所に重なっている。

 第八次発掘調査の現地説明会は平成17年(2005年)2月20日に行われた。左の写真は現地説明会の一情景である。

 説明会の状況と結果については「今城塚古墳発掘調査(第八次)」のページに記載した。
第九次発掘調査地
 第九次の発掘調査は平成17年(2005年)6月27日から開始された。発掘調査場所は前方部西南側の内濠に近接した部分であり、左の図で第九次発掘調査区域として表している。第九次発掘調査の現地説明会は平成17年(2005年)8月28日に行われた。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第九次)」のページに記載した。

 第九次発掘調査に続き、第九次(その2)の発掘調査が行われた。発掘調査場所は内堤西南隅で、外濠に密接した部分、内濠の近く及び内濠西南隅で内堤に接した部分であり、左の図で第九次(その2)発掘調査区域で表している。
第九次(その2)発掘調査説明会
 第九次(その2)発掘調査結果の現地説明会が平成17年(2005年)12月10日に行われた。左の写真は現地説明会の情景である。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第九次(その2))」のページに記載した。
第十次発掘調査区域
 第十次発掘調査は平成18年(2006年)12月1日から開始された。第十次の発掘調査場所は左の図(図には、第九次及び第九次(その2)の調査区域も示している)に示す通り、古墳後円部の墳頂から北側にかけての場所である。

第十次発掘調査現地説明会
 現地説明会は平成19年(2007年)3月4日に行わた。左の写真は現地説明会の一情景で、写真中央付近から下の方に写っている石組みは、今回の発掘現場のほぼ全景である。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第十次)」のページに記載した。
第十次発掘調査現場
 左の写真は第十次の発掘調査現場を北西側から見たものである。この石組みは特徴的であるが、詳細については「今城塚古墳発掘調査(第十次)」のページに記載している。


発掘調査により出土した主な埴輪:

 第五次及び第六次の発掘調査により、埴輪祭祀場から多くの埴輪が出土した。それらの内、主なものを以下に示す。なお、これらの埴輪は史跡公園整備工事により整備された埴輪祭祀場に平成17年(2005年)8月28日に展示されたものである。
高床の家
 左の写真の家形埴輪は平成13年度の第五次発掘調査において発掘されたもので、その高さは1.7mあり、家形埴輪としては最大級のものといわれている。
柵
雄牛 雄鳥
巫女 巫女 巫女

 これらの埴輪は全て出土した破片をつなぎ合わせ復元したもので、複製品ではないという。

最終更新:2011年6月29日
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