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今城塚古墳

(発掘調査で新しい事実が見出されている古墳)
所在地及びアクセス:

 高槻市郡家新町(ぐんけしんまち)
今城塚古墳所在地図
 JR東海道線(JR京都線)「摂津富田」駅下車。北出口を出て駅前広場を横切り数十メートル北側にある高槻市バス「JR富田駅」停留所より「南平台経由奈佐原」行き、「萩谷」行き、「萩谷総合公園」行き、「関西大学」行きのいずれかのバスに乗車しバス停「氷室
(ひむろ)」で下車する。バスの通る道に対し斜めに北東の方向へ向かう細い道を進むと徒歩数分で今城塚古墳に着く。「南平台経由奈佐原」行きの場合に限りバス停「福祉センター前」で下車し、傍の信号のある交差点を渡ると南側に今城塚古墳の木立が見えるので、こちらからも今城塚古墳に行くこともできる。
 他に、「日赤・公団阿武山(阿武野校前経由)」行き、「公団阿武山・日赤(阿武野校前経由)」行き、「西塚原(阿武野校前経由)」行き、何れのバスも「氷室」を通るが「JR富田駅」のバス停は上記とは異なり、JR摂津富田駅北側でJRの駅に近接した場所にある。この系統のバスの便数は多くはない。

 今城塚古墳の北側に前塚古墳がある(地図参照、前塚古墳の説明は別ページ参照)。両古墳は距離的に極めて近いので同時に見学できる。

 「JR富田駅」より「南平台経由奈佐原」行き、「萩谷」行き、「萩谷総合公園」行き、「関西大学」行きのバス発車時刻は9:00〜18:00の間について、次の通りである。(2007年3月現在)
平日 土曜日 日曜日・祝日
09 05 25 35(公) 40 55(関) 00 05(萩) 20 40 00 05(萩) 20 40 55(公)
10 00 10(学) 20(萩) 22 40 00 05(萩) 20 40 00 20 40 55(萩)
11 00 10(関) 20 40 56(萩) 00 12(公) 20 40 00 20 40 48(萩)
12 00 20 34(公) 40 00 01(萩) 20 25(関) 40 00 20 40 55(萩)
13 00 02(萩) 20 22(関) 40 58(萩) 00 07(萩) 20 40 00 20 30(公) 40
14 00 15(関) 20 40 45(公) 00 05(公) 20 39(萩) 40 00 05(萩) 20 40
15 00 10(萩) 20 40 58(萩) 00 05(関) 20 40 47(萩) 00 13(萩) 20 40
16 00 20 30(学) 40 45(休) 59(学) 00 20 21(萩) 40 00 20 21(萩) 40
17 00 18(萩) 20 38(関) 40 00 20 30(萩) 40 00 20 30(萩) 40
無印は「南平台経由奈佐原」行き。
(萩)は「萩谷」行き。(公)は「萩谷総合公園」行き。
(関)は学休日、学期日に関係なく運行する「関西大学」行き。(学)は学期日のみ運行する「関西大学」行き。

 「JR富田駅」より「日赤・公団阿武山(阿武野校前経由)」行き、「公団阿武山・日赤(阿武野校前経由)」、「西塚原(阿武野校前経由)」行きのバス発車時刻は9:00〜18:00の間について、次の通りである。(2007年3月現在)
平日 土曜日 日曜日・祝日
09 05 25 50 20 50 20 50
10 20 50 18 50 20 50
11 20 50 20 50 20 50
12 20 50 20 50 20 50
13 20 50 18 50 20 50
14 20 50 20 50 20 50
15 20 50 18 42 18 42
16 20 45 55(塚) 06 30 42(塚) 54 06 30 54 55(塚)
17 10 30 50 55(塚) 18 55(塚) 58 18 42 55(塚)
無印は「日赤・公団阿武山」又は「公団阿武山・日赤」の何れかである。「循環」表示の有無は無視してよいが、経由に注意し、必ず「阿武野校前経由」に乗車すること。
(塚)は「西塚原(阿武野校前経由)」行き。


見所など:
今城塚古墳空中写真
 今城塚古墳は淀川北岸では最大の巨大な前方後円墳(左のコピー:高槻市教育委員会発行『史跡・今城塚古墳』のパンフレットより)であり、国史跡に指定されている。

 今城塚古墳の呼び名は、この古墳が戦国時代に砦として使われたことに由来しているという。

 古墳の規模は全長約350m、墳丘の長さ約190m、前方部の幅148m、高さ12m、後円部の径約100mとされている。

 かつては墳丘や内堤にはハニワをめぐらし、二重の濠を持ち広大な墓域を誇っていたようである。2005年の段階で外濠(A)と内濠(B)には水が溜まり濠としての体裁を保っていたが、後述するように史跡公園として整備されるようになり、2007年には濠から水が排出された。
出土した家形埴輪
 古墳が築造されたのは6世紀前半と想定されており、古墳から高さ約1.7mで日本最大級の家形埴輪(左の写真:高槻市立埋蔵文化財調査センター内展示品を撮影、現在は見学できる場所に展示されていない)や、よろい姿の武人埴輪ほか色々な埴輪が出土しているようである。
神殿風家形埴輪
 平成13年度の第五次発掘調査において、高さ1.7mの神殿風家形埴輪(左の写真:2005年8月28日に今城塚古墳で撮影)が出土している。これは、家形埴輪としては最大級のものといわれている。
古墳標識石柱
 内濠と外濠を区切っている内堤に『史蹟今城塚古墳』と彫られた石柱標識(左の写真)が建てられており、『昭和十四年(1939年)三月大阪府』の銘が入っている。

 今城塚古墳が国史跡に指定されたのは昭和33年(1958年)2月であるから、この標識は国史跡に指定される前に建てられている。これは大阪府の史跡に指定されたときに建てられたものと思われる。

 現在(2007年)史跡公園整備のため、この場所に立ちることはできない。
内堤の一部
 内堤(左の写真は内堤の一部)には踏み固められた散歩道がついており、まるで木の生い茂った公園のようであるが、現在(2007年)、この内堤の部分は史跡公園整備のため工事中であり、立入禁止になっている。
外濠跡の畑
 外濠の一部は左の写真に見られるようにになっており、色々な野菜などが植えられている。この場所は当然史跡内であり、このような畑として利用することが認められているのであろうか。また、今回の史跡公園整備に際してどのように処置されるのであろうか。
外濠跡の運動場
 更に、外濠の一部は運動場として利用できるように整地されている(左の写真)。数年前にはこの場所が運動場として利用されていた時期があったが、最近は全く利用されなくなっており、写真に見られるように荒れ地のような状態になっている。この場所も上記と同様、史跡公園の整備に関しどう処理されるのであろうか。

 写真右側で森のように見えるのは内堤である。
外周濠
 上述のように周濠の一部は残されている。左の写真は2005年時点の外濠で、水の溜まっている場所である。現在(2007年)は史跡公園整備のために排水され、この場所は工事中ということで立入禁止になっている。
釣り人
 かつては、濠には魚釣り用の足場があり、季節を問わず釣り人が糸を垂れているのを見ることができた(左の写真:2004年夏)。

 この釣り場は2005年3月31日をもって閉鎖され魚釣り禁止になったため、以来このような光景は見られなくなった。

 魚釣り禁止は今城塚古墳を史跡公園とするための整備計画に基づいた措置で、上述したように、現在(2007年)水が排出されて工事中の状態になっている。

 宮内庁は茨木市にある「太田茶臼山古墳」を継体天皇陵に指定しているが、出土品や日本書紀などの史料の検討結果から、この今城塚古墳が真の継体天皇陵であるとするのが定説になっているようである。

 しかしながら、景観、荘厳さ、雰囲気などからみれば、今城塚古墳よりも、太田茶臼山古墳のほうが天皇陵としての体裁は整っている。ただ、太田茶臼山古墳は天皇陵であることを前提として整備されているから、これは当然かもしれない。

 今城塚古墳は高槻市の「歴史の散歩路」にとり上げられている。

 (参考:高槻市教育委員会作成の解説掲示板及び高槻市教育委員会発行の「史跡・今城塚古墳」)


史跡公園造成に向けての整備:

 平成16年(2004年)から今城塚古墳を史跡公園とすべく工事が始められた。
史跡公園完成イメージ
 左のコピー(工事場所に掲示されている説明板から)は史跡公園完成イメージ図である。

 上述の魚釣り禁止もこの計画の一環であり、内堤や内濠、外濠の荒れ地もこの計画遂行によって一変するのではないかと思われる。

 史跡公園整備工事は平成16年から始められ、古墳北側から着手された。この古墳北側内堤部分は第五次及び第六次の発掘調査が行われた場所で、多数の埴輪が発掘され、かつて祭祀が行われた個所とされているところである。 
内堤北側
 左の写真はこの内堤部分で、約100mにわたり整備復元された場所である。写真右側が内濠、左側が外濠にあたる。

 この写真でもわかるように、内堤の両端には円筒埴輪が並べられている。
内堤北側の円筒埴輪列
 左の写真はこの円筒埴輪列を撮影したものである。写真で円筒埴輪列の右側が内堤である。
埴輪祭祀場
 復元整備された内堤に密接して北側に埴輪祭祀場が設けられている(左の写真:2005年夏撮影)。ここに埴輪が置かれ、かつてあったと推定されている祭祀場が出現するのは平成22年(2010年)とされている。
排水した内濠
 史跡公園整備に関する平成17年度工事の一環として2005年6月から古墳東側内濠の排水工事が始められた。左は排水が完了している内濠を墳丘から見た写真(2005年7月撮影)である。

 既述の通り、現在(2007年)、史跡公園整備のための工事が進行中で墳丘は勿論、濠跡も立入禁止区域になっている。


発掘調査概略:

 1997年11月から2004年2月までの間に第一次〜第七次の計7回の発掘調査が行われた。2004年6月から第八次の発掘調査が、また、第九次の発掘調査が2005年6月から開始され、続いて、第九次(その2)の発掘調査が行われた。更に、2006年12月から第十次の発掘調査が行われた
第1次〜第7次発掘調査箇所
 左のコピー(原形地図は1998年高槻市教育委員会発行の「史跡・今城塚古墳」より)は一次〜七次の七回の発掘調査場所を表す図である。

 図で○印の中の数字は発掘調査の次数を表す。例えば、
Dは第五次の発掘調査場所を、Eは第六次の発掘調査場所を、Fは第七次の発掘調査場所を表している。
第一次発掘調査現場
 第一次発掘調査の試掘溝は1997年11月上旬から12月下旬までの間、後円部の東側の内濠部分で荒れ地になっている場所(発掘調査場所図で
@の部分)に掘られた(左の写真)。
第二次発掘調査現場
 第二次発掘調査は1998年10月から12月までの間、後円部北側の内濠部分で荒れ地になっている場所(発掘調査場所図でAの部分)に調査のための試掘溝が掘られた(左の写真)、

 1999年1月9日に第二次発掘調査の現地説明会が行われた。このときの見学者数は約700人だったという。
第三次発掘調査現場
 1999年10月から第三次発掘調査が後円部南側の内濠部分で荒れ地になっている所を中心として、外濠部分から後円部まで広範囲に行われた(発掘調査場所図でBのところ)。

 第三次発掘調査の現地説明会は2000年1月23日雨天の中で行われた(左の写真)。
第四次発掘調査現場(1) 第四次発掘調査現場(2)
 第四次発掘調査が2000年9月から始められ、かつて外濠のあった荒れ地から前方部のかなり奥の方まで、発掘調査場所図でCで表されている場所に調査溝が掘られた(左の二枚の写真)。

 第四次発掘調査の現地説明会は2000年12月に行われた。

 第一次〜第四次の詳細な発掘調査結果については、本HPに記載していない。高槻市教育委員会から報告されている第一次〜第四次発掘調査結果の概要は次の通りである。

古墳の規模に関すること:
1) 内濠の幅は約17〜19m、深さは地表面から約2〜4mであり、水をたたえて墳丘を一巡していた。
2) かつての外濠の幅は約19〜20m、深さは0.6〜0.8mで水のない空濠であったと思われる。

古墳造築に関すること:
1) 古墳造築に際し、ほぼ平坦な地が選ばれ、そこに生えている樹木などを伐採、野焼きした後、盛り土して造られたと考えられる。

古墳からの出土品などに関すること:
1) 石棺に使われた3種類の凝灰岩(二上山産、阿蘇産及び播磨産)が周濠や墳丘から発見された。それらの内、阿蘇産のものが大王級の古墳から見つかったのは初めてで、継体天皇陵説を補強する証拠になる。石室内には少なくとも三つの棺が納められていた可能性があり、7〜8人居たとされる継体天皇の妃が別々の棺で合、追葬されたのではないかと考えられる。
2) 墳丘上の大量の土を使い内濠が埋められている。また、瀬戸焼の天目茶碗が内濠跡から発掘された。これらから、大がかりな工事が行える相当の有力者がここに築城したと考えられる。「第二次発掘調査」の写真で最下層の黒い土は長年月を経て堆積した泥土層であり、上層部で色の薄い土と濃い土が縞状に混じり合っている層はもともと墳丘の土であったもので、築城した際、内濠を埋めるのに使われた土であるという。
3) 外濠の深さ40cmの場所から、直径1.07cm、重さ約6gの鉛製の球形の鉄砲玉が出土した。これは撃たれる前の玉と考えられている。

古墳を利用して築城した人物に関すること:
1) 戦国時代に三好長慶がこの古墳を利用して出城を築いたといわれていたが、調査の結果、築城に際し大規模な工事を行える人物であること、鉄砲隊を組織していた武将であることなどから、織田信長が三好長慶を攻めた永禄11年(1568年)の摂津侵攻に際し、信長がここに築城し陣地とした、と考える方が妥当である。
2) 継体天皇陵を破壊したのは、織田信長である可能性が大きい。



第五次〜第十次発掘調査結果
の詳細は下記の各次の発掘調査のページに記載している。

 第五次発掘調査は2001年6月〜10月に行われ、かつて外濠であった荒れ地から内堤部にかけて調査溝が掘られた(発掘調査場所図でDの部分)。第五次発掘調査の現地説明会は2001年9月23日に行われた。この状況及び結果については「今城塚古墳発掘調査(第五次)」のページに記載した。
第六次発掘調査現場
 第六次発掘調査が2002年5月〜12月に行われた。調査対象は内濠で墳丘に接した荒れ地になっている部分と内堤で第五次発掘調査が行われた場所に接した部分(発掘調査場所図で
Eの部分)である。

 第六次発掘調査の現地説明会は2002年11月30日に行われた。左の写真はこの現地説明会の情景である

 現地説明会の状況及び結果については「今城塚古墳発掘調査(第六次)」のページに記載した。
第7次及び第8次発掘個所
 第七次の発掘調査が2003年8月〜2004年2月に行われた。調査対象場所は後円部と前方部が接しているくびれ部分(北側、南側共に)、後円部の墳頂部、及び後円部東南端の内濠に近接した部分である。

 第七次及び第八次(後述)の発掘調査場所を表したのが左図である。第八次の発掘場所に記している番号はトレンチ番号である。
第七次発掘調査説明会情景
 第七次発掘調査の現地説明会は2004年2月15日に行われた。左の写真は現地説明会の一情景である。

 説明会の状況と結果については「今城塚古墳発掘調査(第七次)」のページに記載した。
第八次発掘調査現地説明会
 第八次の発掘調査が2004年6月24日から開始された。発掘調査場所は後円部墳頂部、後円部東南側及び墳頂部からくびれ部に及んだ部分(発掘調査場所図参照)であり、一部、第七次の発掘調査場所に重なっている。

 第八次発掘調査の現地説明会は2005年2月20日に行われた。左の写真は現地説明会の一情景である。

 説明会の状況と結果については「今城塚古墳発掘調査(第八次)」のページに記載した。
第九次発掘調査地
 第九次の発掘調査は2005年6月27日から開始された。発掘調査場所は前方部西南側の内濠に近接した部分であり、左の図で第九次発掘調査区域として表している。第九次発掘調査の現地説明会は2005年8月28日に行われた。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第九次)」のページに記載した。

 第九次発掘調査に続き、第九次(その2)の発掘調査が行われた。発掘調査場所は内堤西南隅で、外濠に密接した部分、内濠の近く及び内濠西南隅で内堤に接した部分であり、左の図で第九次(その2)発掘調査区域で表している。
第九次(その2)発掘調査説明会
 第九次(その2)発掘調査結果の現地説明会が2005年12月10日に行われた。左の写真は現地説明会の情景である。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第九次(その2))」のページに記載した。
第十次発掘調査区域
 第十次発掘調査は2006年12月1日から開始された。第十次の発掘調査場所は左の図(図には、第九次及び第九次(その2)の調査区域も示している)に示す通り、古墳後円部の墳頂から北側にかけての場所である。

第十次発掘調査現地説明会
 現地説明会は2007年3月4日に行わた。左の写真は現地説明会の一情景で、写真中央付近から下の方に写っている石組みは、今回の発掘現場のほぼ全景である。

 説明会の結果については「今城塚古墳発掘調査(第十次)」のページに記載した。
第十次発掘調査現場
 左の写真は第十次の発掘調査現場を北西側から見たものである。この石組みは特徴的であるが、詳細については「今城塚古墳発掘調査(第十次)」のページに記載している。


発掘調査により出土した主な埴輪:

 第五次及び第六次の発掘調査により、埴輪祭祀場から多くの埴輪が出土した。それらの内、主なものを以下に示す。なお、これらの埴輪は史跡公園整備工事により整備された埴輪祭祀場に2005年8月28日に展示されたものである。
高床の家
 左の写真の家形埴輪は平成13年度の第五次発掘調査において発掘されたもので、その高さは1.7mあり、家形埴輪としては最大級のものといわれている。
柵
雄牛 雄鳥
巫女 巫女 巫女

 これらの埴輪は全て出土した破片をつなぎ合わせ復元したもので、複製品ではないという。

2007年3月26日最終更新
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