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今城塚古墳発掘調査
(平成18年度、第十次)

今城塚古墳の所在地及びアクセス:

 今城塚古墳」のページを参照してください。

発掘調査が行われた場所など:
第10次発掘調査地(1)
 左及び直下のコピー(原形地図は1998年高槻市教育委員会発行「史跡・今城塚古墳」より)は今城塚古墳の第十次発掘調査地の図であり、左の図は古墳全体の中で今回該当の発掘調査個所を表したものである。
 なお、第7次以前の発掘調査場所については第七次発掘調査のページを、第八次の発掘調査場所は第八次発掘調査のページを、第九次の発掘調査場所は第九次発掘調査のページを、また、第九次(その2)の発掘調査場所は第九次(その2)発掘調査のページを、それぞれ参照して下さい。
第10次発掘調査地(2)
 左のコピーは古墳後円部を拡大したもので、第十次発掘調査個所を赤色で示している。

 第十次の発掘調査は左のコピーに示す通り、古墳後円部の墳頂から北側にかけての個所である。

第十次発掘調査期間と現地説明会:

 第十次発掘調査は2006年12月1日から開始され、現地説明会は2007年3月4日午前9時半より行わた。
説明会見学者の列
 左の写真は現地説明会に訪れた見学者の列である。当日は全国から約5200人の見学者が訪れたという。

 左の写真に見られるように、見学者は内濠跡に列を作っており、列の右奥側が発掘現場の墳丘である。
現地説明会の風景
 左の写真は説明会の一情景である。前回までは発掘現場は2個所以上にわたっていたが、今回の発掘現場は事実上一個所であったので、見学参加者の数が多かったにも拘わらず、説明会が円滑に、かつ能率的に行われたようである。

発掘調査の結果:

 直下の図(現地説明会の会場に展示されていた図を基に作成)は今回の調査から発見されたこと、また、以前の発掘調査も入れて推定されることなどを含め、古墳後円部を南北を軸としての断面を表したものである。
古墳の断面図
 今回(第十次)の発掘調査で特に話題になったことは石室の基礎の大規模な石組み(石室基盤工)が発見されたことである。直上の図で『今回発見された石組み』で表されているV字型の個所である。
東側から見た石室基盤工(1)
 左の写真は石室の基礎として築かれた石組(石室基盤工)の発掘状況を東側から見たものである。この遺構の大きさは東西約18m、南北約11mあり、石が敷き詰められている。

 写真で左側が後円部墳頂側である。写真に見られる石組みがV字型になっているのがわかり、写真中央付近に見られる石組みがV字型の底になっている。
東側から見た石室基盤工(2)
 左の写真は石室基盤工をやや北寄りの東側から見たものである。写真左側の部分が遺構のV字型の底にあたる。写真手前の部分の石組みが遺構の外縁部になるが、この部分が石垣のように直線的に石が積まれているのがわかる。内側には一辺20〜40cmの川原石や板石が敷き詰められている。

 敷き詰められた石の大部分は花崗岩類や砂岩・頁岩などが堆積してできた堆積岩で今城塚古墳の数キロ北にある摂津峡やその付近から運ばれてきたものと推測されている。

 この発掘された石組みは文禄5年(1596年)の伏見地震により、墳丘が崩れ落ちたのに伴い、石室の下に水平な状態に作られていた石組みの基礎(石室基盤工)も地滑りにより滑落して、現在見られるような遺構になったものと考えられている。
北東側から見た石室基盤工
 左の写真は石室基盤工を北東側から見たものである。写真で石組み遺構の外縁部は石垣のように直線的に石が積まれているのがわかるが、写真で右寄り手前の部分(遺構の北東隅部分)の石組みが崩れているのを見ることができる。
崩落崖
 左の写真は崩落崖とされている場所である。写真上部は墳頂部になるので、この場所が崩落崖であるというのは我々素人目にも何となく理解できるが・・・。
円礫敷
 左の写真で中央部横に石垣状に積まれた石が見えるが、これは石組み遺構の外縁部である。写真で外縁部の手前(遺構の北側になる)にこぶし大の石(円礫)が纏まって発掘されている。この円礫は淡路島の洲本付近の海岸で産出されたものという。
北西側から見た石組み遺構
 左の写真は石室基盤工を北西側から見たものである。石組み遺構がV字型になっているのがよくわかる。写真で右側が墳頂部のある崖側である。V字型の落ち込みは滑落部の崖側の方が大きい。これは典型的な地震による地滑りの状況を表しているという。

 左の写真で左側に石垣状に積まれた遺構外縁部の石組みを見ることができる。
石室基盤工の北西隅部
 石組み遺構の北西隅部を見たのが左の写真である。写真でもわかるように北西の隅は一辺約50cmの座布団状の石が使用されており、これが大きく落ち込んでいるのが見られる。
割れた板石
 石室基礎工の西南隅に近い場所に左の写真にみられるように割れた板石が発掘されている。この板石はその割れ方からみて、かなりの重量物が乗っていたために割れたのであろうと考えられている。この重量物とは石室を意味しているのであろうか・・・。
墳頂部から見た石室基盤工
 今回発掘された石組み(石室基盤工)を墳頂部から見たのが左の写真であり、ほぼ全景が見渡せる。

 上述したように現在の墳頂部北側付近にあった石室基盤工が地震による地滑りで崩落し、今回発掘されたような遺構になったものと考えられている。この石室基盤工は、かなりの重量のある横穴式石室を支え、重さを分散させるように考案された石組みであったと見られている。

 墳丘は2段が残存しているが、現在の墳頂部付近が石室基盤工の底面に相当する高さであると考えられることから、横穴式石室は最上部の3段目の盛り土内に置かれていたものと推定されている。
発掘されたガラス玉他
 遺構の石組みや崩落した土中から金銅製品、鉄製品やガラスの小玉などの副葬品が発見されている。左の写真は発掘された副葬品の一部である。

 また、崩落土中で三種の凝灰岩、即ち、阿蘇ピンク石、竜山石及び二上山白石(直下の写真)が発掘された。これらは石棺に使われていた石の一部と考えられている。
発掘された阿蘇ピンク石 発掘された竜山石 発掘された二上山白石
 これらの副葬品や石棺の一部と見られる石の欠片はバラバラの地点から発掘されていることから、文禄5年(1596年)の地震による崩落以前に盗掘に遭い、石室が破壊されていたものと考えられている。

発掘調査でわかったことは:
1) かつて古墳が造成された時は盛り土で三段築成になっており、三段目の後円部盛り土の中、後円部中央付近に横穴式石室が造られていたと考えられる。
2) 重量のある横穴式石室を支え、その重みを分散させるため、盛り土の中に強固な石組みを埋めた基盤が造られていた。
3) 古墳が崩壊する伏見地震より以前に盗掘され、石室が破壊されていたようである。

2007年3月26日新規収載
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