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所在地及びアクセス: 茨木市太田3丁目10 |
阪急京都線「茨木市」駅下車。駅北側の近鉄バス乗り場から「花園・東和苑」行きのバスに乗車する。「太田」で下車し、交差点を渡り東の方向(バスの進行方向に向かって右方向)へ緩い坂を上り、約300m進むと道路の北側(左手)に古墳が見える。バス乗車時間は約15分間。 又は、JR京都線(東海道線)「摂津富田」駅下車。駅北側に近接している高槻市営バス「JR富田駅」乗り場から「宮田公民館経由」のバス(行き先は日赤・公団阿武山、大阪薬大前、上の池滞留所、西塚原などあるが、何れでも可)に乗車し、「土室南(はむろみなみ)」で下車する。20〜30m南に進み交差点を西の方向に曲り(右折)、約400m歩くと道路の北側に古墳が見える。バス乗車時間は約10分間。 上記2ルートの内、総合的にみて、阪急茨木市駅より近鉄バスを利用するのがよい。 |
「花園・東和苑」行き近鉄バスの「阪急茨木市駅」発車時刻(9:00〜18:00の間について)は次の通り(2008年7月21日改正、2009年6月現在)。 |
時 | 平日 | 土曜日 | 日曜日・祝日 |
09 | 11 25 40 55 | 11 26 41 56 | 11 31 56 |
10 | 11 26 41 56 | 11 31 52 | 11 31 52 |
11 | 12 32 52 | 12 32 52 | 12 32 52 |
12 | 12 32 52 | 12 32 52 | 12 32 52 |
13 | 12 32 52 | 12 32 52 | 12 32 52 |
14 | 12 32 52 | 12 32 52 | 12 32 52 |
15 | 12 32 52 | 12 32 52 | 12 32 52 |
16 | 12 32 52 | 12 32 52 | 12 32 52 |
17 | 12 28 42 57 | 12 32 57 | 12 32 52 |
高槻市営バスの「JR富田駅」発車時刻(9:00〜18:00の間について)は次の通り(2009年4月1日改正、2009年6月現在)。 |
時 | 平日 | 土曜日 | 日曜日・祝日 |
09 | 00* 15 33* 35 | 00 20* 30 | 00 25* 30 |
10 | 01 10 22* 30 | 00 25* 30 | 00 25* 30 |
11 | 00 25* 30 42 | 00 25* 30 | 00 25* 30 |
12 | 00 25* 30 42 | 00 25* 30 | 00 25* 30 |
13 | 00 25* 30 | 00 25* 30 | 00 25* 30 |
14 | 00 25* 30 | 00 25* 30 | 00 25* 30 |
15 | 00 25* 30 55* | 00 25* 30 54 | 00 25* 30 54 |
16 | 00 25* 30 57 | 15* 18 42 54 | 15* 18 42 54 |
17 | 20 25* 40 | 08 25* 28 48 | 08 25* 30 54 |
行き先は「大阪薬大前」、「公団阿武山・日赤」、「日赤・公団阿武山」、「上の池滞留所」、「西塚原」(上表*印の便)の何れでもよいが、必ず「宮田公民館」経由に乗車すること。上記の時刻表のバス便は全て「宮田公民館」経由。 |
見所など: |
近鉄バスの太田停留所傍の信号のある交差点を渡り東の方に進むと道(西国街道)は緩い上り坂になっている。この坂は「雲見坂」(左の写真)と呼ばれている。左の写真は「雲見坂」を東側から西の方に向かって撮影したものである。従って、坂は下り坂に写っており、バス停傍の交差点は写真奥側になる。 かつて、太田城を築いたとされる太田太郎頼基がこの坂の上に立って雲の動きを見、天候や戦術を考えたといわれていることから、この坂は「雲見坂」と呼ばれるようになったという。 |
「雲見坂」を上って西国街道を東に進むと左手に古墳が見える。 太田茶臼山古墳は一重の周濠をめぐらしたかなり大きな前方後円墳(左のコピー:茨木市教育委員会名のパンフレット「継体天皇陵のはにわ」より)であり、その規模は全長226m、前方部の幅は147mで長さ117m、高さは約20m、後円部の径138m、高さは約19mとされている。 造営された時期は、昭和61年(1986年)に周濠から出土した埴輪の特徴などから見て、5世紀前半から中頃にかけての古墳時代中期であろうと考えられている |
この古墳は天皇陵とされている(下記のように大きな疑問はあるにしても)だけあって、濠の周囲はフェンスで囲われており、容易に立ち入ることが出来ない。 |
左の写真は西国街道に面した陵域入口である。 陵域に近接して一般の住宅が建っているが、天皇陵に指定されている古墳としての景観は失われていない。 陵域入口から古墳前方部に面した周濠の手前に建てられている鳥居の前までは数10m離れているが、通常、陵域入口から奥は立入禁止になっているようである。 |
左の写真は古墳前方部の正面を望む位置に建てられている「鳥居」の前であり、この周りは特にきれいに整備されている。 「鳥居」はやや小ぶりに見えるが、それよりも、その色が真っ白で少々奇異に感じる。近くに寄って確認することは出来ないが、木を白く塗ったものではないように見え、材質が木ではないように思える。この「鳥居」は最近(2008年10月以降)建て替えられ、新しくなった。 鳥居の向こう側に見える墳丘には樹木が生い茂って一大森を形成している。 |
左の写真は直上の写真と同じ場所、「鳥居」の前で2008年9月に撮影したものである。現在の鳥居と比較してみると、以前のものは大きいようで、鳥居の材質も木でできているのがわかる。現在の鳥居よりも、以前の鳥居の方が風格があったように感じられる。 |
鳥居の傍右側にこの陵の名称が書かれた石柱(左の写真)が建てられている。石柱には『繼體天皇三島藍野陵』と旧体の漢字で彫られているが、これが継体天皇陵の正式名称であろう。 |
2001年末頃までは左の写真でも見られるとおり、墳丘上の樹木は「周濠」に覆い被さるまで茂り、墳丘が完全に樹木で覆われていた状態で、周濠は異常な渇水期にならない限り満々と水がたたえられていた。左の写真で中央部は周濠でその右側の樹木が茂っているのが墳丘である。 |
2002年初頭頃から、墳丘の裾で周濠に接している部分の樹木の伐採が始まり、墳丘裾部分が露出している状態になった。墳丘の樹木の伐採が始められた頃から周濠の水の排出が始まり、時期によっては濠の底が露出するほどになった。これは、墳丘裾部分の工事のための水の排出と思われる。 左の写真は2002年10月時点の「周濠」と「墳丘」である。周濠を見ると写真右手にわずかに水の溜まっているのが見えるが、左の方は水が全くなくなり濠底のヘドロが露出しているのがわかる。 |
2003年度に古墳墳丘の崩壊を防ぐための護岸工事が行われる予定で、その方法の検討のため、2002年10月から墳丘裾部分の発掘が始められた。 左の写真は墳丘裾部分の発掘調査の一状況である。 |
予定通り2003年から古墳の崩壊を防ぐための護岸工事が開始され、2004年3月にはこの工事が完了した。 左の写真は護岸工事が完了した状態であり、写真左側が周濠(干上がっている)で、右側が墳丘である。 |
護岸工事が完了した後、周濠に水が入れられ濠は復元された。左の写真は2005年7月時点の「周濠」と「墳丘」であるが、墳丘裾部分は2001年以前の様相とはかなり異なってしまい、近代的な工事が入った造成状況を伺うことができる。 |
左の写真は2009年4月時点の「周濠」と「墳丘」である。護岸工事が終わってから約5年が経過しているが、墳丘裾部分は2001年以前の様相には程遠い状況にある。 |
太田茶臼山古墳を継体天皇陵とするには大きな疑問があるとされている。1986年に行われた濠の外堤の調査時に発掘された埴輪などの出土品から、この古墳は5世紀前半から中頃にかけて造られたと考えられているが、継体天皇は日本書紀によれば西暦531年(6世紀)に没しているとされているので、両者の間には100年近くのズレがあることになる。 2002年10月からの発掘調査の結果は2002年11月22日に報道関係者に公開された。この調査で5世紀中頃に造られた埴輪が、埋葬された当時の状態で墳丘本体上に確認されたという。このことは、この古墳の被葬者は継体天皇でないことを裏付ける有力な証拠になるとされる。 |
2001年当時の茨木市教育委員会作成の解説掲示板(直下の写真)のタイトルは『(現)継体天皇陵』になっており、若干の遠慮が見られる。ただ、この掲示板には古墳が継体天皇陵であることを前提としての説明が書かれていた。 |
解説掲示板は2003年11月に見たときにはは直下の写真のようなタイトルに変わっており、しかも、その内容も継体天皇陵であることを暗に否定するような表現に変わっていた。このように説明文は以前と比べ、明らかに変化しているが、この変化は上述の2002年10〜11月の調査結果に基づいているものと思われる。2008年11月現在の掲示板は直下の写真のものと同一である。 |
現在、天皇陵とされているものの多くは確証がなく、かなり不確実なものが多いといわれているので、この継体天皇陵だけの問題ではないかもしれない。 高槻市にある「今城塚古墳」が真の継体天皇陵であるとするのが定説になっているが、史跡公園として整備中であり、宮内庁としてはこの太田茶臼山古墳を継体天皇陵の指定から外すことは現状では考慮していないという。なお、過去、天皇陵の指定が変更された例は極めて希であり、一例あるのみといわれている。 |
なお、太田茶臼山古墳は土地の豪族の墓と考えられているが、明確ではないようである。 |
大きな古墳、特に天皇陵の近くには古墳の被葬者の従者や近親者を葬った小さい古墳、陪冢(ばいちょう)の見られることがしばしばある。この太田茶臼山古墳も数基の陪冢が保存されている。 左の写真は太田茶臼山古墳の北東側にある小さな古墳で、陪冢とされている。写真でわかるように、この陪冢は住宅地の中にあり、道路はこの小さな古墳を迂回してつけられている。 |
また、太田茶臼山古墳の東側で藍野病院の北側の公園の中にある小さな古墳(左の写真)も陪冢とされている。 |
上記の陪冢の西側で直線距離にして約300m離れた場所の住宅街の中にある公園の一角に太田茶臼山古墳の陪冢とされている小さな古墳が二基(左の写真はその内の一基)近接してみられる。 更に、別ページに記載の「二子山古墳」も太田茶臼山古墳の陪冢といわれている。 |
(参考:茨木市教育委員会名の解説掲示板及び茨木市教育委員会作成のパンフレット「継体天皇陵のハニワ」) |
2009年6月15日最終更新 |
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