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醍醐寺(上醍醐)

醍醐寺について

 醍醐寺は醍醐山上と山麓に分かれている。山上にある寺を一般に「上醍醐寺」、山麓にある寺を「醍醐寺」(「下醍醐寺」ということもあるようである)と称することが多いが、山上と山麓、両方あわせて「醍醐寺」というのが正しいらしい。

所在地及びアクセス

 京都市伏見区醍醐醍醐山

 京都地下鉄東西線「醍醐」駅下車、京都市営地下鉄東西線「醍醐」駅下車。駅の上が商店の入ったビル(パセオダイゴロー)になっており、この2階から東側に延びている通路を利用すると便利である。途中、醍醐寺への道案内の表示が何ヶ所かあるので、それに従って進むとわかり易い。醍醐寺境内を通り上醍醐寺まで参道を登る。地下鉄「醍醐」駅から上醍醐寺まで徒歩約1時間10分。
 上醍醐寺は京都のユネスコ登録世界遺産中、最大の難所である。滋賀県側から車で782号線(醍醐大津線)を通り横嶺峠に出て、そこから尾根伝いに歩けば比較的楽に上醍醐寺に着くことができるが、余程の老人か身体障害者以外はこのルートを利用したくない。

 上の地図でバルーン状のマーカーをクリックすると説明が出ます。

醍醐寺の縁起
 
上醍醐寺朱印
 弘法大師の孫弟子であり修験道中興の祖とされている聖宝理源大師が都の東南の方向に五色の雲のたなびいている山を見て、霊地にすべく登ったところ、横尾明神(醍醐山の神)の化身である老人が現れたという。老人はそこに湧き出ている水を飲み、『ああ醍醐味なるかな』と言ったと伝えられており、これが醍醐寺の名の由来になったとされている。

 醍醐水を感得した理源大師は貞観16年(874年)に山頂に草庵を造り、准胝・如意輪両観音像を刻み安置したと伝えられている。これが醍醐寺の創始であり、2年後には准胝堂、如意輪堂が完成したという。

 上記の通り、醍醐寺は上醍醐が創始である。

 延喜7年(907年)には醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂が建立され、以後、醍醐、朱雀、村上の三天皇の帰依により、発展繁栄したようである。919年には現在の金堂の前身である釈迦堂が、更に、天暦5年(951年)には五重塔が建てられ、山麓の醍醐寺も大伽藍の完成を見たと伝えられている。最盛期には山上山麓合わせて五百余りの堂宇が建ち並んでいたという。

 その後、応仁の乱で多くの堂を焼失したが、豊臣秀吉の援助により復興することができたといわれており、建物の多くは秀吉の設計によるとされている。慶長3年(1598年)に秀吉の有名な「醍醐の花見」が催されたのを機に、ほぼ現在の規模の伽藍になったようである。

上醍醐寺准胝堂の火災

 上醍醐寺の本堂に当たる准胝堂が2008年8月24日未明に全焼した。この火災は落雷が原因とされているようである。

 火災後、上醍醐寺は閉鎖され、上醍醐寺への登山口になっている醍醐寺の女人堂より奥に立ち入ることは出来ない状況にあったが、平成21年(2009年)1月7日より上醍醐への入山が可能になった。但し、引き続き工事が継続されている箇所があり、一部立入り禁止になっている場所もある。なお、横嶺峠を経由する山道からの入山は閉鎖されている。

 火災以前、准胝堂で行っていた上醍醐寺の納経は火災後、女人堂で行われていたが、上醍醐への入山が可能になった現段階でも、納経は引き続き女人堂で行われている。女人堂には焼失した本尊の分身が安置されている。

 その他、上醍醐寺への参拝等に関する詳細は醍醐寺寺務所(Tel:075-571-0002)に問い合わせて下さい。

 以下の記述は准胝堂の火災以前に記述したものである。

上醍醐への参道と上醍醐寺の周辺環境
醍醐の花見の場所入口
 (下)醍醐寺の最も奥にある「女人堂」をすぎると山道になり、登り勾配が続く。

 左の写真は女人堂から15分ほど参道を登ったところにある場所で、秀吉が慶長3年(1598年)に有名な『醍醐の花見』を催した場所の入口に当たる所とされているが、何故か奥への立入は禁止されている。

 醍醐の花見は山麓で行われていたものと思っていたが、このような高い場所で催していたのに驚いた。高いところから見下ろすほうが一望できてよかったのかもしれない。
参道
 「参道」は自然石の石段、木の丸太を敷いた所など、色々であるが道幅は思ったより広い(左の写真)。ただ、上りは正直言ってかなり厳しく、何人かの人が参道途中で引き返すのを目撃した。

 途中、半分ほど登ったところに「不動の滝」がある。ここは、一寸した休憩所になっているが、休憩所の小屋は殆ど廃屋状態になっている。


 上醍醐寺は修験道の中興の祖といわれた聖宝理源大師が開山しただけあって、修験道の中心地としての雰囲気は十分である。現在でも一万人以上の修験者(山伏)が所属しているという。

 同じ世界文化遺産の寺院であっても「金閣寺」や「清水寺」などとは環境、雰囲気で大きく異なっている。ここには修学旅行の生徒が訪れることもなく、安易な気分の観光客も姿を見せない。また、車の通行もなく、周辺環境としてはまさに山奥の寺そのものであるが、境内の石段などは立派で、寺そのものは山寺という雰囲気からは若干遠い。

見所など
清滝宮拝殿
 上醍醐の諸伽藍の入り口に位置し、上醍醐に到着したとき、参道左上側に見える建物が「清瀧宮拝殿」である(左及び直下の写真)。

 「清滝宮拝殿」は寛治2年(1088年)に創建されたようであるが、応永17年(1410年)に焼失したとされている。その後、永享6年(1434年)に再建されたのが、現存の拝殿であるといわれている。
清滝宮拝殿(2)
 「清瀧宮拝殿」は崖の斜面の一部を削り取った場所に建造されており、写真右手(北側になる)斜面の上に、清滝宮本殿が建っている。左手(南側)は下方に向かって崖であり、拝殿は懸け造り(舞台造り)になっている。

 「清滝宮拝殿」国宝に指定されている。

 「拝殿」は質素で古風な邸宅風の感じのする建物であり、同じ国宝でも下醍醐の金堂や、五重塔のような華やかさはなく、落ち着いた雰囲気を保っている。
醍醐水
 理源大師が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれている「醍醐水」(左の写真)は清瀧宮拝殿前の広場の片隅にある。

 泉源は建物内にあり、直接見ることは出来ないが、汲み上げたといわれる水が建物の外に用意されており、味わうことが出来る。

 ただ、醍醐水といっても生水である。そのまま飲んでも衛生上問題がないのだろうか。気になるところである。
准胝堂
 「清瀧宮拝殿」の傍の石段を登ると、上醍醐寺の本堂である「准胝堂(じゅんていどう)(左の写真)の前に出る。

 上述したように、平成20年(2008年)8月24日に、この「准胝堂」と中に安置されていた本尊の准胝観音像は焼失した。

 火災前の「准胝堂」は醍醐寺で最初に建立された建物といわれているが、勿論当時のものは存在せず、現存の建物は昭和14年(1939年)の火災で焼失した後、昭和43年(1968年)に再建されたものであるという。

 焼失した本尊の「准胝観音像」は理源大師が刻んだ仏像といわれているが、江戸時代に作られたものという説もある。おそらく後者が正しいと思われる。本尊は秘仏であったが、年に一回開扉されていたようである。

 准胝堂の前を東の方向に向かって緩やかな坂を上がると、「薬師堂」(直下二枚の写真)の建っているのが見える。
薬師堂(1)
 「薬師堂」の創立は延喜7年(907年)とされているが、現存のものは保安2年(1121年)に再建されたものといわれている。堂は山の斜面を開いて建てたためか、敷地は非常に狭い。

 「薬師堂」は上醍醐で現存する建造物の中では最古のものとされており、国宝に指定されている。
薬師堂(2)
 「薬師堂」内には本尊の「薬師如来座像」及び「両脇侍像」が祀られていたが防火等保管上の問題から、2000年秋に(下)醍醐寺の霊宝館に移された。

 「薬師如来座像」及び「両脇侍像」の三体の仏像は榧材の一木造りで、延喜7年(907年)に理源大師が弟子の会理僧都に造らせたものと伝えられており、国宝に指定されている

 薬師堂は信仰を集めていることで有名である。私が参拝したとき(1999年12月)も、堂前の石段を上がった所で初老の夫婦が平伏し、我が息子の不遇を一生懸命訴え号泣している姿を見たが、これが実に印象的であった。本尊が移されてしまった現在、将来にわたって今までの信仰が集められるのだろうか。
五大堂
 薬師堂の前を東側に進と「五大堂」が建っている(左の写真)。五大堂は延喜7年(907年)に醍醐天皇の願いにより敵国降伏のために創立されたといわれているが、何回か焼失、再建を繰り返しているようである。現存する堂は昭和7年(1932年)の火災により焼失した後、昭和15年(1940年)に再建したものであるという。

 堂前には理源大師像が安置されており、堂内には
重要文化財に指定されている「木造五大明王像(不動明王、後三世夜叉明王、軍茶利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)」が祀られ、盗難や災害よけの信仰があるとされている。
如意輪堂
 五大堂の東南側、醍醐山頂に上醍醐最大の建物である「開山堂」と「如意輪堂」(左の写真)が建っている。

 「開山堂」は延喜年間、「如意輪堂」は貞観18年(876年)の創立と伝えられているが、何回か火災により焼失、現存する両堂は共に慶長11年(1606年)に再建されたものといわれている。
「開山堂」、「如意輪堂」は何れも重要文化財に指定されている。

 「開山堂」内陣には、中央に
重要文化財に指定されている「木造理源大師像」が、左には弘法大師像、右には醍醐寺一世座主観賢僧正像が安置されている。

 「如意輪堂」は理源大師が、如意輪観世音菩薩を祀ったとされている由緒のある堂である。堂内には二臂如意輪観世音像が安置されているというが、これは理源大師が刻んだ仏像ではないと思われる。

 如意輪堂再建当時は非常に美麗な建物としてもてはやされたというが、開山堂と共に桃山時代の建築の雄大さ、美しさを見ることができる。

最終更新:2009年3月3日
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