ホーム > 京都の世界文化遺産一覧 > (下)醍醐寺 サイトマップ

醍醐寺(下醍醐)

醍醐寺について

 醍醐寺は醍醐山上と山麓に分かれている。山上にある寺を一般に「上醍醐寺」、山麓にある寺を「醍醐寺」(「下醍醐寺」ということもあるようである)と称するようであるが、山上と山麓、両方あわせて「醍醐寺」というのが正しいらしい。

所在地及びアクセス

 京都市伏見区醍醐東大路町22

 京都市営地下鉄東西線「醍醐」駅下車。駅の上が商店の入ったビル(パセオダイゴロー)になっており、この2階から東側に延びている通路を利用すると便利である。途中、醍醐寺への道案内の表示が何ヶ所かあるので、それに従って進むとわかり易い。「醍醐」駅から醍醐寺まで徒歩約15分。

醍醐寺(下醍醐)の堂宇等の配置図
醍醐寺の諸堂配置図(1)
 左の図は醍醐寺境内の入り口にあたる総門から東に向かって西大門(仁王門)までの間の諸堂配置図である。
醍醐寺の諸堂配置図(2)
 左の図は醍醐寺の西大門(仁王門)から東側、上醍醐寺の登山口にあたる成身院(女人堂)までの伽藍、諸堂配置図である。

醍醐寺の縁起
醍醐寺朱印
 弘法大師の孫弟子であり修験道中興の祖とされている聖宝理源大師が、都の東南の方向に五色の雲がたなびいている山を見て、霊地にすべく登ったところ、横尾明神(醍醐山の神)の化身である老人が現れたという。老人はそこに湧き出ている水を飲み、『ああ醍醐味なるかな』と言ったと伝えられており、これが醍醐寺の名の由来になったとされている。

 醍醐水を感得した理源大師は貞観16年(874年)に山頂に草庵を造り、准胝及び如意輪両観音像を刻み安置したと伝えられている。これが醍醐寺の創始であり、2年後に准胝堂、如意輪堂が完成したという。

 上記の通り、醍醐寺は上醍醐に始まる。

 延喜7年(907年)には醍醐天皇の勅願寺となり、以後、朱雀、村上の各天皇の帰依により、繁栄発展したようである。

 919年には現在の金堂の前身である釈迦堂が、更に、天暦5年(951年)には五重塔が建てられ、山麓の醍醐寺も大伽藍の完成を見たと伝えられている。最盛期には山上山麓合わせて五百余りの堂宇が建ち並んでいたという。

 その後、応仁の乱で多くの堂を焼失したが、豊臣秀吉の援助により復興することができたといわれており、慶長3年(1598年)に秀吉の有名な『醍醐の花見』が催されたのを機に、ほぼ現在の規模になったようである。
醍醐寺三宝院朱印

見所など
総門
 左の写真は上醍醐寺も含め醍醐寺の境内入口となる「総門」である。

 「総門」は風格はあるものの寺の規模から見て小ぶりな感じのする門である。
唐門
 「総門」をくぐると、直ぐ左手に永久3年(1115年)に創建されたといわれている「三宝院」がある。「三宝院」には通常の入口に当たる表門の他に、表門に近接して「唐門」(左の写真)がある。

 唐門は朝廷からの使者を迎える時にこの扉を開けたとされている門で、中央部の扉には桐、扉の両側には12個の花弁を有する菊の花を配している。この門は慶長4年(1599年)に建造され、以後、2回移築されているという。「唐門」は国宝に指定されている。

 この「唐門」は平成22年7月に往時の姿に修復された。

 三宝院の大玄関を入り右に曲がり順路に従って進むと、「葵之間」、「秋草之間」、「勅使之間」(何れも重要文化財)があり、「表書院」(国宝)に出る。
三宝院庭園
 「表書院」の広縁から「三宝院庭園」を見ることが出来る(左のコピー:三宝院の案内パンフレットより)。

 「三宝院庭園」は慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が『醍醐の花見』に来たときに、自ら設計し、庭奉行竹田梅松軒に命じ造らせたものとされている。

 「三寶院庭園」は国特別名勝・国特別史跡に指定されている。

 三宝院の勅使之間、秋草之間、表書院の「襖絵、障壁画」は重要文化財に指定されており、表書院などの建造物と同様、見学することが出来る。ただ、襖絵・障壁画全てが必ずしもオリジナルではないようで、複製したものもあるとのことである。
総門近くの桜
 秀吉が『醍醐の花見』を催したということから、醍醐寺の桜は有名で、桜の花の季節には多くの観光客が訪れる。左の写真及び直下二枚の写真は何れも醍醐寺の境内で咲いている桜である。

 左の写真は「総門」近くの桜で左手奥に屋根の見えている建物が「西大門(仁王門)」である。
唐門傍の桜
 左の写真は三宝院「唐門」傍の桜である。

 「総門」から「西大門(仁王門)」の間の参道には多くの桜の木が植えられ桜並木を作っているが、写真の桜はこの桜並木の内で最も目を引く桜の木の一つである。

 奥に見えている建物は「西大門(仁王門)」である。
霊宝館傍の桜
 左の桜は「霊宝館」の傍の桜である。「霊宝館」の傍らにはこの他に何本かの大きな桜の木が植えられている。

 その他、「三宝院」の前から南側に向かって桜並木があり、季節に盛大に花をつける。

 花見は普通、下から見上げるが、秀吉の『醍醐の花見』は山の中腹からも見下ろしたという。現在とは見る位置が違うのである。それに、約400年も前の秀吉の時代の桜の木が現在もそのまま残っているとは思えない。秀吉の『醍醐の花見』の再現はそもそも無理なのであろう。

 
桜の季節の総門
 左の写真は桜の花見時の「総門」付近の情景である。この季節の観光客は非常に多く、特に休日は混雑する。
西大門(仁王門)
 「総門」から東の方に向かって直進すると「西大門(仁王門)」(左の写真)に着く。写真は西側から見た門である。「金堂」、「五重塔」などの伽藍へはこの門をくぐらなければならない。

 「西大門」は通称「仁王門」といわれている。慶長10年(1605年)に再建されたもので、門に安置されている仁王像は仏師勢増・仁増の作とされている。

 伽藍の拝観は有料であり、この「西大門(仁王門)」で拝観料を支払う。
仁王門東側の参道
 「仁王門」をくぐると、秋には紅葉に彩られる参道(左の写真)が続いており、参道を東側に進むと「金堂」が見える。
金堂(1)
 左の写真は「金堂」を正面(南側)から見たものである。

 創建されたのは延長4年(926年)に創建されたようで、当時は釈迦堂と言われ、その後、何回か焼失したが、秀吉の醍醐の花見に間に合わせるように新築が計画されたが間に合わず、紀州湯浅の護国寺の本堂を移築し、慶長5年(1600年)に完成したのがこの「金堂」である。
金堂(2)
 左の写真は西南側から見た「金堂」である。

 現在の「金堂」は平安末期(12世紀後半)に建造されたものを移築したと言われているが、移築の際に大改造が加えられているようで、屋根などは桃山時代風になっている。

 「金堂」は国宝に指定されている。
金堂内正面
 金堂内には本尊の「薬師如来」、脇侍の「日光・月光菩薩」が安置されている(左の写真)。

 「薬師如来」及び「日光・月光菩薩」は鎌倉時代の作とされ、重要文化財に指定されている。
清瀧宮本殿
 「金堂」の南側の参道を隔てて更に南側に「清瀧宮拝殿」及び「清瀧宮本殿」は建てられている。左の写真は「清瀧宮本殿」である。

 「清瀧宮」は醍醐寺の鎮守社で、永長2年(1097年)に最初に上醍醐に建立された分身をここに移して祀ったとされている。現在の社殿は永正14年(1517年)に再建されたものである。

 この「清瀧宮本殿」は重要文化財に指定されている。
不動堂
 「金堂」の東側に「不動堂」が建てられている(左の写真)。堂内には不動明王を中心に五体の明王像が安置されている。堂前は広場になっており、護摩道場として種々な祈願が行われている。
祖師堂
 「不動堂」の東南側、参道の北側に「祖師堂」が見える(左の写真)。堂内には弘法大師、空海と空海の孫弟子で醍醐寺を開いた理源大師、聖宝が祀られている。
五重塔(1)
 「金堂」の前の道路を隔てて東南側に、「五重塔」が建っている(左の写真)。

 「五重塔」は醍醐天皇の冥福を祈るため、一周忌に当たる承平元年(931年)に計画、承平6年(936年)に着工し、天暦5年(951年)に完成したといわれている。

 この「五重塔」の高さは38mで屋根の上にある相輪は約13mあり、相輪は塔全体の高さの約3分の1あって安定感を感じさせる。

 「五重塔」は創建期の伽藍の内、火災を免れた唯一の建造物で、京都に現存する最古の建築であるとされている。ただ、建設当時から十数回の修理が行われているようである。

 「五重塔」及び塔の初重内部の壁画の「両界曼陀羅」、「真言八祖像」は国宝に指定されている。この壁画は平等院鳳凰堂の壁扉画(別ページ「平等院」参照)と共に制作年代の明らかな壁画として価値の高いものとされている。なお、塔内部は通常拝観できないが、祭礼の時には公開されるとのことである。
五重塔(2)
 左の写真は直上の写真と同じく西側から見た桜の咲いている季節の「五重塔」である。
参道途中にある門
 「五重塔」の北側の参道を東の方向に進むと左の写真の「門」に着く。かつてこの門に上醍醐入口の表示があったが、現在は何の表示もない。更に東の方向に進むにはこの門をくぐっても良いが、門に近接して門の北側を迂回する通路があり、門をくぐらなくても、東の方向に進むことが出来る。
観音堂
 更に東の方向に参道を進むと北側に「観音堂」が見える(左の写真)。ここに、西国三十三所の本尊の他、多くの仏像が安置されている。

 西国三十三所をはじめ、醍醐寺が関連している諸巡礼の朱印はこの「観音堂」で受けることが出来る。西国三十三所の朱印は上醍醐寺の本堂「准胝堂」が再建されるまで、この「観音堂」で受けられるが、「准胝堂」で朱印が受けられるようになる時期については不明という。
弁天堂と紅葉
 「観音堂」の東側に池があり、池の畔に朱塗りの小堂「弁天堂」が建てられている(左の写真)。写真に見られるように「弁天堂」の周辺を含め、池の付近は秋になると紅葉に彩られる。紅葉の季節には多数のカメラマンを目にすることが出来る。
紅葉(1)
 左の写真も「弁天堂」付近の紅葉風景で、写真左端に「弁天堂」が見える。
紅葉(2)
 左は「弁天堂」の近くから池の対岸の方(西の方角)に向かって撮影した紅葉風景の写真である。

 池の畔を左に見て更に参道を東に向かって進むと上醍醐寺に通じる道がついているが、ここに(下)醍醐寺の出口がある。この出口を通過すると、逆方向に向かっての(下)醍醐寺の伽藍諸堂に戻ることは出来ない。

 出口を出て東の方向に進むと左手に成身院(女人堂)がみえ、ここからが上醍醐寺への登山路になる。

 醍醐寺(下醍醐、上醍醐)には、このサイト及び上醍醐のサイトに記載した建造物や仏像を含め、百数十件の国宝・重要文化財が所蔵されているといわれている。
霊宝館(一部)
 「三宝院」の前を南の方向に向かって一寸進んだ左手に「霊宝館」(左の写真はその一部)がある。


 この「霊宝館」には、仏像、絵画、書跡など多くの文化財が保存展示されている。著名な文化財も展示されているので、醍醐寺に参拝した際、開館していれば是非とも見学、拝観しておきたい。

 「霊宝館」に安置されている「薬師如来及び両脇侍像」は平安時代の作とされ、醍醐寺創建以来の歴史を持つ仏像で、見事な造りである。この仏像は「上醍醐寺」の「薬師堂」の本尊として安置されていたが、霊宝館の新築に伴いここに移された。また、展示されている書跡では「絵因果経」が著名で、奈良時代の制作とされ経文の書体は力強く、描かれている絵と共に非常に印象に残る。

 上記の「薬師如来及び両脇侍像」、「絵因果経」は共に国宝に指定されている。
  **************************************************

 
上醍醐寺の本堂に当たる准胝堂が2008年8月24日未明に全焼した。この火災は落雷が原因とされているようである。

 火災後、上醍醐寺は閉鎖され、上醍醐寺への登山口になっている醍醐寺の成身院(女人堂)より奥に立ち入ることは出来ない状況にあったが、平成21年(2009年)1月7日より上醍醐への入山が可能になった。但し、一部立入り禁止になっている場所もある。

 その他、上醍醐寺への参拝等に関する詳細は醍醐寺寺務所(Tel:075-571-0002)に問い合わせて下さい。

最終更新:2014年4月3日
京都の世界文化遺産一覧のページへ戻る このページの先頭へ戻る
醍醐寺(上醍醐)のページ