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所在地及びアクセス: 京都市伏見区醍醐醍醐山 |
上の地図でバルーン状のマーカーをクリックすると説明が出ます。 |
上醍醐寺の本堂に当たる准胝堂が2008年8月24日未明に全焼した。この火災は落雷が原因とされているようである。 火災後、上醍醐寺は閉鎖され、上醍醐寺への登山口になっている醍醐寺の女人堂より奥に立ち入ることは出来ない状況にあったが、平成21年(2009年)1月7日より上醍醐への入山が可能になり、参拝が可能になった。但し、引き続き工事が継続されている箇所があり、一部立入り禁止になっている場所もある。なお、横嶺峠を経由する山道からの入山は閉鎖されている。 火災以前、准胝堂で行っていた西国札所の納経は火災後、醍醐寺(下醍醐)の女人堂で行われている。上醍醐への入山が可能になった現段階でも、納経は女人堂で行われている。女人堂には焼失した本尊の分身が安置されている。 その他、詳細は醍醐寺寺務所(Tel:075-571-0002)に問い合わせて下さい。 |
宗派:真言宗醍醐派総本山 本尊:坐像准胝観世音菩薩 開基:聖宝理源大師 縁起: |
![]() 弘法大師の孫弟子、理源大師が都の東南の方に五色の雲がたなびいている山を見て、霊地とすべく登ったところ、醍醐山の神、横尾明神の化身である老人が現れた。老人はそこに湧き出ている水を飲み、『ああ醍醐味なるかな』と言ったという。これが醍醐寺の名の由来になった伝えられている。 醍醐水を感得した理源大師は貞観16年(874年)に山頂に草庵を造り、柏の木に准胝、如意輪の両観音像を刻み安置したといわれており、これが上醍醐寺の創始とされている。 二年後には准胝堂、如意輪堂が造られ、更に延喜7年(907年)には醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂が建立されたと伝えられている。 「(下)醍醐寺」と「上醍醐寺」の両寺をあわせて「醍醐寺」といい、世界文化遺産に登録されている。 |
見所など: |
上述したとおり、上醍醐寺への入山は可能になったが、一部立入り禁止区域がある。 |
![]() 参道は(下)醍醐寺の最も奥にある「女人堂」(左の写真)からはじまる。かつては、女性が入れるのはここまでで、女性はここから上醍醐寺に向かって参拝したという。 女人堂の前には手水場があり、五体の仏像が安置されている。その傍に「御千度石」と刻まれた小さな石碑が建っている。この石碑と女人堂の間を千回往復すると、山上まで上り上醍醐寺に参拝したのと同じ功徳があるといわれていた。 ここを千回往復するよりも、山上まで上る方が距離としては短いように思われる。昔、上醍醐が女人禁制だった頃、どれだけの女性がここを千回往復したのだろうか。 |
![]() 女人堂から15分ほど参道を上ったところに、秀吉が慶長3年(1598年)に有名な「醍醐の花見」を催したとされている場所がある。左の写真は醍醐の花見が行われたとされている場所への入口に当たる所であるが、何故かここから奥への立ち入りは禁止されている。 醍醐の花見は山麓で行われたものと思っていたが、とんでもなく高いところで催されていたのにいささか驚いた。高いところから見下ろすほうが一望できてよかったのかもしれない。 |
![]() 参道途中に、梵字の書かれている木の切片が置かれているのを見た(左の写真:1999年12月)。まさに山寺に向かう参道という感じである。ただ、この木片は2000年11月末の時点では誰かが持ち帰ったのか、又は捨てられたのか分からないが、見ることができなかった。 上述したように、上醍醐寺は西国三十三ヶ所霊場の中で、最難所の一つであり、参道は自然石の石段、木の丸太で作られた階段のような場所など、雑多であるが、道幅は思ったより広い。勾配の大きい場所が所々にあり、登りは正直言ってかなり厳しい。 参道途中で人に会うと、互いに挨拶を交わすことが多い。初めて参道を登る人は降りてきた人に『後どのくらいありますか』というようなことを聞く。返答を聞いて参道の途中で引き返す人もいるようである。 |
![]() 参道を上がり、上醍醐寺に到着した際、参道左上側に最初に見える建物が「清滝宮拝殿」であり(左及び直下の写真)、この拝殿は上醍醐の諸伽藍の入口に位置している。 「清滝宮拝殿」は寛治2年(1088年)に創建されたようであるが、応永17年(1410年)に焼失したとされている。その後、永享6年(1434年)に再建されたのが、現存の拝殿であるといわれている。 |
![]() 「清滝宮拝殿」は崖の斜面を削り取った場所に建てられており、拝殿正面に向かって右側斜面上に清滝宮本殿が建てられている。拝殿正面に向かって左側は崖になっており、拝殿は懸け造り(舞台造り)になっている。 拝殿は質素で古風な邸宅風の建物であり、同じ国宝でも下醍醐の五重塔や金堂のような華やかさを感じない。 「清滝宮拝殿」は国宝に指定されている。 |
![]() 「清滝宮拝殿」前の広場の片隅に、横尾明神の化身である老人が醍醐味と賞賛し、理源大師が感得した「醍醐水」がある(左の写真)。「醍醐水」は今も湧き出しているというが、建物に囲まれ、泉源を直接見ることは出来ない。 建物の表には汲み上げたとされる醍醐水が用意されていて味わうことが出来るが、生水であるので衛生上問題がないのだろうか、と気になる。この水を味わってみたが、参道を登ってきた人にとっては、特に暑い季節はどんな水でも醍醐味であろう。 |
![]() 「醍醐水」前の広場にある石段を上がると「准胝堂」と呼ばれている本堂(左の写真)の前に出る。 上述したとおり、平成20年(2008年)8月24日に、この「准胝堂」と安置されていた本尊の准胝観音像は焼失した。 安置されていた准胝観音像は理源大師が刻んだ像であると伝えられているようであるが、一方、江戸時代の作であるとも言われている。ただ、理源大師の刻んだという准胝観音像が存在していたとは思い難い。存在していれば少なくとも文化財の指定があってもおかしくはないと思われる。 火災前の「准胝堂」は昭和43年に再建されたものであるとされている。 「准胝堂」の前を東の方向に向かって坂を上がると、上醍醐寺では最古の建物とされている「薬師堂」が建っている(直下二枚の写真)。薬師堂は山の斜面を削って建てられており、敷地は非常に狭い。 |
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「薬師堂」の創立は延喜7年(907年)と伝えられているが、現存の建物は保安2年(1121年)に再建されたものという。 「薬師堂」は国宝に指定されている。 |
![]() 「薬師堂」には本尊の「薬師如来坐像」及び「両脇侍像」が祀られていたが、火災等保管上の問題から、2000年の秋に(下)醍醐寺の霊宝館に移された。「薬師如来坐像」、「両脇侍像」は理源大師が延喜7年(907年)に弟子に造らせたものといわれており、国宝に指定されている。 この「薬師堂」は信仰を集めていることで有名である。私が参拝したとき(1999年12月)も、堂前の石段を上がったところで初老の夫婦が平伏し、我が子の不遇を一生懸命訴え号泣している姿を見たが、実に印象的であった。ただ、本尊が移されたしまった現在、将来にわたって今までの信仰が集められるかどうか・・・。 |
![]() 薬師堂の前を東に進と「五大堂」(左の写真)が建っている。 五大堂は醍醐天皇の勅願により敵国降伏祈願のために延喜7年(907年)に創立、その後、何回かの火災に遭いその度に再建を繰り返したといわれ、現存の堂は昭和15年(1940年)に再建されたものという。 堂前に安置されているのは理源大師像であり、堂内には重要文化財に指定されている木造五大明王像(不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が祀られており、自由に拝観できる。 |
![]() 五大堂の東南側、醍醐山頂には上醍醐寺最大の建造物である「開山堂」(左の写真)と「如意輪堂」が建っている。 「開山堂」は延喜年間、「如意輪堂」は貞観18年(876年)の創立といわれているが、何回かの火災で焼失、現存する「開山堂」は「如意輪堂」と共に慶長11年(1606年)に再建されたものという。 「開山堂」、「如意輪堂」共に重要文化財に指定されている。 「開山堂」内陣中央には重要文化財に指定されている「木造理源大師像」が、左に弘法大師像、右には醍醐寺一世座主観賢僧正像が安置されている。 |
御詠歌:逆縁ももらさで救う願(がん)なれば准胝堂はたのもしきかな |
最終更新:2009年3月3日 |
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