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延暦寺・西塔地区

延暦寺について

 比叡山延暦寺は天台宗の総本山であり、比叡山頂から東側斜面にかけて、三塔十六谷三千坊と言われるほどの大寺である。三塔とは「東塔(とうどう)」、「西塔(さいとう)」、「横川(よかわ)」の各エリアを指している。

延暦寺・西塔地区へのアクセス
延暦寺西塔エリア地図
 JR湖西線「比叡山坂本」駅下車。
 駅から比叡山・東塔地区までは「延暦寺・東塔地区のページ、アクセスの項」参照。
 東塔地区にある「延暦寺バスセンター」から「横川
(よかわ)」行きの比叡山内シャトルバスに乗車し「西塔(さいとう)」で下車する。乗車時間約3分。比叡山内シャトルバス「横川」行きは「延暦寺バスセンター」発10:06から16:36まで30分毎に運行されているが、運行期間は3月20日〜11月30日及び1月1日〜1月3日であり、冬期(1月1日〜1月3日を除く)は運休している。
 東塔地区から徒歩による場合は、東塔地区「戒壇院」横の道を北側に進み、奥比叡ドライブウエイの上に架かっている陸橋を渡り、「山王院」横、「浄土院」前を通り西塔地区「椿堂」の上にでる。所要時間約20分。

延暦寺の縁起、歴史
朱印
 近江国分寺で得度し奈良東大寺の戒壇院で具足戒を受けた最澄上人が、理想の布教地を比叡山に求め、延暦7年(788年)に山上に庵を結び、自ら刻んだ薬師如来像を本尊として安置し、「一乗止観院」と称したのが延暦寺の創始であると伝えられている。

 桓武天皇の平安遷都に伴い、御所の鬼門の方向にある最澄上人の草堂が国家を鎮護するための官寺に選ばれ、最澄上人は天皇のための侍僧の一人に加えられたという。

 最澄上人は延暦23年(804年)に唐に渡り、翌年に帰国する。帰国後、天台宗を開き「一乗止観院」を「根本中堂」に改称したとされている。この頃から、高野山を開いた空海との間に確執が生じ始めたようである。

 現在の寺名「延暦寺」に改名されたのは、最澄上人没後の弘仁14年(823年)であるとされている。その後、他山の僧兵との争い等で、しばしば多くの堂を焼失したが、その度に復興されてきたようである。

 最澄上人のあと、比叡山から数多くの名僧、高僧を輩出しており、法然、親鸞、道元、日蓮など著名な僧もすべてここで修行したといわれている。
最澄上人と対立していた空海のもとからは高名な僧が殆ど輩出していないのと比べ対照的である。

 元亀2年(1571年)には織田信長の軍勢によって比叡山全山すべて焼き払われた。建物で残ったのは西塔にある瑠璃堂のみといわれており、僧侶、それに坂本の町から逃げてきた一般の人合わせて二千人以上の人々が焼殺、惨殺されたという。その後、秀吉、家康によって寺は復興された。しかし、その傷跡は実に大きかったようで、信長に対する恨みは、1994年の法要で表面的には一応解消したことになっているが、今でも比叡山は神秘的で怖いというイメージは残っているようで、このイメージは将来にわたっても消え去ることはないであろうといわれている。

椿堂
椿堂
 西塔地区に入って最初の堂は「椿堂」(左の写真)である。参道の下にあり、寂しく、不気味な感じのする小さい堂である。

 1998年11月上旬に参拝したときには、この「椿堂」で常坐修行が行われていた。常坐修行は90日間を一期として一日も休むことなく坐禅して坐り続ける修行という。
このような堂での修行は寂しさと不気味さを伴う過酷なものであろう。

 かつて、聖徳太子が比叡山に登ったときに、使った椿の木の杖をここにさして置いたところ、芽を出し大きく育ったところから、この堂を椿堂と名付けられたとされている。堂の左手に椿の木が植えられているが、これは聖徳太子の杖から芽を出した木ではないだろう。

にない堂
にない堂(1)
 椿堂の上の参道を北の方に進むと、渡り廊下でつながった二つの堂がある(左の写真)。

 両堂とも写真手前が正面になるが、向かって左の堂は「常行堂」、向かって右の堂は「法華堂」である。両堂を合わせて通称「にない堂」と呼ばれている。

 「にない堂」の呼び名は弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだという伝説に基づいているといわれている。
にない堂(2)
 左の写真は「常行堂」の前から見た「にない堂」で、向こう側の堂が「法華堂」である。

 直下の写真は「法華堂」の裏から見た「にない堂」で渡り廊下をはさんで向こう側が「常行堂」である。

 「法華堂」の本尊は普賢菩薩、「常行堂」の本尊は阿弥陀如来である。

 「法華堂」「常行堂」ともに重要文化財に指定されている。
にない堂(3)
 「にない堂」では『四種三昧行』という修行が行われるという。四種三昧は常坐、常行、半行半坐、非行非坐からなるといわれ、常坐は90日間、食事とトイレを除き一日も休むことなく坐禅し続ける行であり、常行は90日間、本尊阿弥陀如来の周りを歩き続ける行とされている。何れにしても『四種三昧行』は過酷な修行である。

 「にない堂」全体が赤色に塗られており、派手な感じがする。一見しただけでは上述のような過酷な修行が行われる堂とはには見えない。

釈迦堂
釈迦堂(1)
 「にない堂」の渡り廊下の下をくぐり少し進むと、石段下に西塔地区の中心の堂である「釈迦堂」(左及び直下の写真)が見える。

 この堂は貞和3年(1347年)に建てられた園城寺の弥勒堂を、織田信長の比叡山焼き討ちの後、豊臣秀吉の命で文禄4年(1596年)に、ここに移築したものであるとされている。

 「釈迦堂」は天台様式の典型な堂々とした風格のある建物で、延暦寺に現存する建物では最古のものらしい。
釈迦堂(2)
 1998年9月近畿地方を襲った台風により、西塔地区はかなりの被害を被り、釈迦堂裏側の杉の大木が堂の上に倒れ、屋根二ヶ所が大きく損傷した。

 その後、釈迦堂屋根の修復工事が行われ、完全に復旧された。

 「釈迦堂」及び鎌倉時代に造られたという本尊の秘仏「木像釈迦如来立像」は共に重要文化財に指定されている。

瑠璃堂
瑠璃堂
 「釈迦堂」の左横の山道を通り、ドライブウエイに出、それを横断して北の方角に進むと「瑠璃堂」(左のコピー:JRの比叡山観光パンフレットより)がある。

 「瑠璃堂」の名前の由来は、薬師瑠璃光如来が堂内に安置されていることに基づくようである。

 「瑠璃堂」は信長の比叡山焼き討ちを免れた唯一の堂宇であるといわれており、重要文化財に指定されている。

親鸞聖人修行の地
親鸞聖人修行の地
 「にない堂」の手前、「にない堂」に向かって参道の左側に「親鸞聖人ご修行の地」の石碑の建った場所がある(左の写真)。

 詳細はわからないが、かつて、親鸞はこの場所で修行したのであろう。

居士林

 釈迦堂の前を右側に進むと「居士林」がある。ここは一般の人が写経、座禅などの修行を行う場所である。

その他コメント

 西塔地区は東塔地区ほどに観光地化されておらず、観光客も静かに拝観見学している。西塔地区は鬱蒼と生い茂った杉林の中にあり、周辺環境自体が観光地化を阻んでいるようにも思われる。「にない堂」から聞こえてくる修行僧の念仏を唱える声が環境によく調和し、非常に厳粛な気分にさせられる。
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Yukiyoshi Morimoto