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賀茂別雷神社(上賀茂神社)

上賀茂神社へのアクセス

 JR「京都」駅から京都市バス[9]系統(堀川通・西賀茂車庫行)に乗車し、「上賀茂御薗橋」で下車、御薗橋を渡る。バス停から徒歩約5分。
 阪急京都線「河原町」駅から京都市バス[46]系統(千本通・上賀茂神社行)又は[特37]系統(三条京阪行、三条京阪から北大路駅前・西賀茂車庫行となる)に乗車し、「上賀茂神社前」で下車し、徒歩すぐ。又は、京都市バス[37]系統(三条京阪行、三条京阪から北大路駅前・西賀茂車庫行となる)に乗車し、「上賀茂御薗橋」で下車、御薗橋を渡る。バス停から徒歩約5分。
 京阪「三条」駅から京都市バス[特37]系統(北大路駅前・西賀茂車庫行)に乗車し、「上賀茂神社前」で下車、徒歩すぐ。又は京都市バス[37]系統(北大路駅前・西賀茂車庫行)に乗車し、「上賀茂御薗橋」で下車、御薗橋を渡る。バス停から徒歩約5分。
朱印
上賀茂神社の由緒

 上賀茂神社(上社)の祭神は別雷神(わけいかづちのかみ)で、下鴨神社(下社)に祀られている玉依媛命の子にあたる。

 その昔、雷神が神社の北北西の方向にある神山に降臨され、天武天皇6年(678年)に、本殿に鎮座されたと伝えられている。従って、社殿の造営も天武天皇6年とされている。
雷神が降臨したのは神代の昔らしいが、この話は第二次世界大戦前や大戦中の神話そのものという感は拭えない。尤も、神社は神を祀っているのであるから、現在でも神話が生きていても不思議なことではないのかもしれない。

 上賀茂神社は昔から皇室との関係が深かったようで、天平17年(745年)に天皇の病気治癒祈願が行われたのが関係の始まりとされている。以後、国家の重大時には必ず、奉幣・祈願が行われたという。大同2年(807年)には伊勢神宮に次ぐ地位が与えられたといわれている。
二の鳥居
 神社は中世になって一時衰退したらしいが、徳川幕府の庇護、信心により隆盛し、第二次大戦の終戦までは官幣大社の首位に位置していたという。

 「上賀茂神社」の正式名称は「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」であるが、一般には通称名である「上賀茂神社」のほうがよく知られている。


 鳥居

 上賀茂神社前バス停の近くに神社の巨大な「一の鳥居」が立っており、ここから北に向かって境内が拡がっている。主な社殿は奥の「二の鳥居」(写真)の北側に建っている。
細殿と立砂
立砂と細殿

 二番目の鳥居をくぐると、正面に、白砂で作られたきれいな円錐形の「立砂」(盛砂)とその奥の建物「細殿(拝殿)」が目につく(左の写真)。

 「立砂」は、ご神体である神山(後述)を形どったもので、神様が降りられる依代(よりしろ)を表しているといわれている。

 鬼門などにまく清めのお砂の起源はここにあるらしい。また、
料亭などに見られる盛り塩の起源もここにあるのではなかろうか。
楼門
 「細殿(拝殿)」重要文化財に指定されている。

楼門

 「本殿、権殿」の前に朱塗りも鮮やかな「楼門」が建てられている(左の写真)。それにしても他の地味な社殿に比べて「楼門」と「回廊」は朱塗りが派手であり、目立っている。

 「楼門」は他の多くの社殿と同様、寛永5年(1828年)に再建されたとされている。

 写真で楼門の手前に見えている朱塗りの橋は、境内を流れる「奈良(楢)の小川」の支流である小さな谷川「御物忌川(みものいみがわ)」にかかっている
「玉橋」であり、重要文化財に指定されている。この「玉橋」を渡ることは禁止されている。

  「楼門」重要文化財に指定されている。
楼門の奥
本殿、権殿

 「本殿及び権殿」の入口となる「楼門」をくぐり、石段を上がると参拝所になっている(左の写真)。参拝の場所から奥の「本殿」と「権殿」は辛うじて僅かに見ることができる。

 正面右奥側に「本殿」、左奥側に「権殿」が建てられており、現存の建物は文久3年(1863年)に建て替えられたものといわれている。


 「本殿」、「権殿」共に国宝に指定されている。
神山
ご神体「神山」
   
 神社の祭神は別雷神であるが、ご神体は本殿の北北西約2kmの所にあり、雷神が降臨されたといわれている「神山(こうやま)」(左の写真:上賀茂神社発行のパンフレットより)である。

 「神山」は賀茂信仰の原点でもあり、立入禁止になっているようである。社殿は「神山」の遙拝所という位置付けであるという。
舞殿
舞殿、土屋

 「細殿」の東側に「舞殿」が建っている(左の写真)。「舞殿」は、かつて勅使御拝の殿舎として使われていたといわれ、現在の建物は文久3年(1863年)に建て替えられたものとされている。

 「舞殿」の下を流れているのが「奈良(楢)の小川」(後述)であり、澄んだきれいな水が流れている。
土屋
 「舞殿」に近接して右手に「土屋」が建てられている(左の写真)。「土屋」は神主以下社司の著到殿として用いられていたらしいが、今は祓所として使用されているようである。現在の建物は寛永5年(1628年)に造り替えられたものといわれている。

 「舞殿」、「土屋」共に重要文化財に指定されている。

その他の主な社殿
北神饌所
 左の写真は奈良の小川の東側に建てられている「北神饌所」である。「北神饌所」はかつて、政庁として使用されていたようであり、重要文化財に指定されている。

 その他、二の鳥居の近くにある
「楽屋」、一の鳥居と二の鳥居の間にある「外幣殿」など目につく社殿であり、これらは何れも重要文化財に指定されている。上記以外にも、上賀茂神社には多くの建築物はあるが、その殆どは重要文化財であり、楼門などと同様、寛永5年(1628年)前後に造り替えられたものであるといわれている。
奈良の小川
奈良(楢)の小川

 境内の中を北から南に、「舞殿」の下をくぐって流れている小川が「奈良(楢)の小川」である(左の写真)。

  小倉百人一首に入っている藤原家隆の歌、『風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける』は、祈願者の一切の罪が祓い清められるという上賀茂神社の祭祀、夏越祓の情景を詠んだものとされている。

上賀茂神社と葵祭

 上賀茂神社の代表的な祭りとして、毎年5月15日に下鴨神社と合同で行う葵祭(賀茂祭)がある。

 欽明天皇5年(545年)、賀茂大神の祟りを鎮めるための祭祀を行ったところ、それまでとは違って天下泰平、五穀豊穣になり、庶民は大いに喜んだという。これが葵祭りの起源であり、以後、毎年定期的に行われるようになったとされている。

 神前に葵を供え、社殿に葵を飾るため葵祭りと言われている。平安時代には祭りといえば葵祭りのことを意味したといわれているくらいで、源氏物語や枕草子にも登場する。
社家町
社家町

 「奈良(楢)の小川」が神社の境内を抜けると東の方角に流れを変え明神川となる。

 神社の境内を出て、東南側に明神川に沿って重厚な土塀の続いている独特の街並みが見られる(写真)。これが
「社家町」といわれているところで、京都市上賀茂伝統的建造物群保存地区として国から指定されている。

 社家とは神官の家柄をいうらしいが、現在でも神官が住んでいるのだろうか。ただ、
かつての社家とはこんなものだったのだろうと思わせる雰囲気は感じられる。

「格式のある神社二十二社参拝」のページへのリンク

 「格式のある神社二十二社参拝」のページにも「上賀茂神社」についての記載があります。ここをクリックして下さい。
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Yukiyoshi Morimoto