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白井河原合戦跡

所在地及びアクセス:

 茨木市耳原3丁目及び茨木市中河原町付近一帯
白井河原合戦跡所在地図
 JR東海道線(JR京都線)「茨木」駅下車。駅北側の阪急バス1番のりばから[86]、[87]「茨木サニータウン」行き、[84]「大岩」行き、[81]「忍頂寺」行き(忍頂寺で乗り換えて銭原、余野、又は上音羽行きになる)の何れかのバスに乗車し「中河原」で下車する。バス停傍の勝尾寺川に沿ってつけられている道を東〜東南の方向に向かって進むと幣久良橋
(へくらばし)に行き着く。この付近一帯が「白井河原合戦跡」である。

 バス停「中河原」を通る阪急バスの「JR茨木」発時刻は9:00〜17:00の間について次の通りである(2004年2月現在)。
平日 土曜日 日曜・祝日
09 05# 11 26 41 52\ 56 04# 11 26 41 52\ 56 11 26 37\ 41 56
10 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
11 11 26 36* 41 52\ 56 11 26 34* 41 52\ 56 11 26 34* 41 52\ 56
12 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
13 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
14 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
15 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
16 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
無印:「茨木サニータウン」行き、#印:「忍頂寺」行き、\印:「忍頂寺」で乗り換え「余野」行き、*印:「大岩」行き。

 阪急京都線「茨木市」駅前からも上記同様の行き先のバスが出ている。バス停「中河原」を通る阪急バスの「阪急茨木」発時刻は9:00〜17:00の間について次の通りである(2004年2月現在)。
平日 土曜日 日曜・祝日
09 01 16 43\ 16 42\ 02 28\ 32
10 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
11 02 27* 32 43\ 01 24* 31 42\ 01 24* 31 42\
12 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
13 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
14 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
15 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
16 02 31 42\ 01 31 42\ 57 01 31 42\
無印:「茨木サニータウン」行き、\印:「忍頂寺」で乗り換え「余野」行き、*印:「大岩」行き。

見所など:
幣久良橋と茨木川(1)
 茨木川を挟んで幣久良橋(へくらばし)付近一帯を「白井河原」というが、世に言う「白井河原の合戦」のあった場所である。

 左の写真は茨木川に架かる幣久良橋を南側からみたものである。西国街道はこの橋の上を通っている。
幣久良橋と茨木川(2)  左の写真も白井河原の情景であり、茨木川と幣久良橋を橋の北側から見たものである。直上の写真は冬の風景であるが、左の写真は夏の風景である。

 当時、摂津の国では伊丹、茨木両氏と池田氏が対立しており、この勢力争いは、茨木方を支持する高槻城主の和田伊賀守惟政と主君池田勝正を追い出した荒木摂津守村重、中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立に発展したという。

 歴史によれば、両勢力は元亀2年(1571年)にこの白井河原で戦いを交えることになる。これが『白井河原の合戦』である。

 この時、和田、茨木勢500に対し、池田勢は2500であったという。和田、茨木勢は戦列が整っておらず、明らかに、多勢に無勢である。和田惟政は、援軍の到着を待って攻撃してはという部下の進言を聞き入れず、息子の惟長の率いる後続援軍の到着を待たずに、無謀にも200余騎で突撃したとされている。

 結果、和田惟政は中川瀬兵衛に討ちとられ、主君を失った和田、茨木勢は全て討ち死にしたという。
茨木川の河原
 幣久良橋の橋上から茨木川の上流の方角に向かって撮影したものが左の写真である。

 白井河原の合戦により、この付近一帯、白井河原は一面血に染まったといわれている。
勿論、今では昔の面影など全く見られず、合戦があったとは思えない街並みになっている。
小石仏群
 幣久良橋の東詰で道路から一寸下がった場所に小石仏が20体ほど祀られている(左の写真)。

 何故、ここに小石仏群が祀られているのか不明であるが、白井河原の合戦で命を落とした武士達の鎮魂のためと考えられないであろうか。事実とは違うかもしれないが、このように考えたいのである。

 (参考:茨木市教育委員会名の解説掲示板)

2004年2月29日更新
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Yukiyoshi Morimoto