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能因塚(能因法師墳)

所在地及びアクセス:

 高槻市古曽部(こそべ)町3丁目
能因塚所在地図
 JR東海道線(JR京都線)「高槻」駅下車。
 徒歩で見学する場合は次の通り:
 駅の北側に出て陸橋を下り、西武高槻ショッピングセンターの前を北の方向に進む。上宮天満宮に上がる石段前の「天神町1」交差点を右折し、車の通行量の多い府道を道なりに東の方向に約800m進み、「別所」交差点を左折し北の方向に進む。約300m進むと次の信号のある交差点に着くので、そこを左折し西の方向に進む。約250m進むと「能因法師墳(能因塚)」の小さい標柱があるので、そこから右手の極めて細い坂道を下ると奥に「能因法師墳(能因塚)」が見える。
 バスを利用する場合は次の通り:
 高槻駅の南側に出て高架を下り、松坂屋傍の高槻市営バス停留所「JR高槻駅南」6番のりばから「上成合」、「上成合経由川久保」行きのいずれかのバスに乗車し、「別所」で下車する。バス停の直ぐ西側に信号のある交差点があるのでそれを渡り、西の方向にへ約250m進むと「能因法師墳(能因塚)」の小さい標柱があるので、そこから右手の極めて細い坂道を下ると奥に「能因法師墳(能因塚)」が見える。

 なお、近くに能因法師に関連した史跡「不老水」、「文塚」、「花の井」(全て別ページに収載)があるので、これらを同日に見学することができる。

 高槻市営バス「上成合」行き及び「上成合経由川久保」行きの「JR高槻駅南」発車時刻は8:00〜18:00の間について次の通り(2004年8月1日改正、2004年11月現在)。
平日 土曜日 日曜・祝日
08 00 05 15 25 35 50 00 12 24 37 50 04 24 44
09 05* 21 36 51 06* 21 36 51 06 26 46
10 06 21 36 51 06 26 46 06* 26 46
11 06 26 46 06 26 46 08 26 46
12 06 26* 46 06* 26 46 06 26* 46
13 06 26 46 06 26 46 06 26 46
14 06 26 46 06 26 46 06 26 46
15 05* 25 45 06* 26 46 05 25 45 55*
16 05* 25 45 05 25* 40 55 05 25 35* 45
17 05 20 35* 50 10 25* 40 55 02 25 35* 45
  無印は「上成合」行き、*印は「川久保(上成合経由)」行き。なお、バスは阪急京都線「高槻市」駅前のバス停「阪急高槻駅」を経由するので、そこから乗車することもできる。

見所など:

 「能因塚(能因法師墳)」は三十六歌仙の一人で、平安時代中期の著名な歌人、能因法師が葬られていると伝えられている墓である。
能因法師道
 上記アクセスの項に書いた道筋ではないが、「能因法師墳道」と書かれている小さな石柱の建っている場所がある(左の写真)。

 写真でわかるように、この場所から民家と生垣の間に幅数十センチほどの細い道がついており(写真)、ここを通りぬけると比較的広い道に出るが、これを横切り極めて細い坂道を真っ直ぐに進むと能因塚に行き着くことができる。もともとこの能因法師墳道を通って「能因塚」へ行くのが正しいルートだったのかもしれない。
能因塚への道
 上記の「能因法師墳道」を通り抜けると左の写真の場所に出る。写真中央に見える狭い道が「能因塚」への道であり、ここを奥に進むと「能因塚」に着く。アクセスの項に記載した「極めて細い坂道」はこの写真中央に見える道であり、注意して見ないと見落とす結果になり「能因塚」に行き着くことができない。

 とにかくこの道はわかりにくい。この細い道の入り口近くまで到達しながら、能因塚を発見できずにいる人を何人か見たことがある。
能因塚全景
 上述の「極めて細い坂道」を奥に進むと「能因塚」(左の写真)が見える。

 写真からもわかるように、「能因塚」に行くには右手の駐車場に密接した細い畦道を通らなければならない。駐車場のある場所は1998年初めまでは田圃であった。塚の東側は民家に接しており、周囲は開発が進み自然が少なくなりつつある。

 ここに能因法師の墓が造られたのは、彼が晩年この地を拠点として歌作活動をしていたことによると考えられている。

 能因法師は、何故、この地に住むようになったのかは定かではないが、その昔、この地に住んでいた「伊勢姫」の歌人としての作風に心をひかれたのではないか、という説が強い。
能因塚正面近景
 左の写真は能因法師墳の正面である。右側に見える縦長の石碑は、かつての高槻藩主永井直清によって慶安3年(1650年)に建てられ、碑文は林羅山によって書かれたもので、能因法師の業績が記されているという。

 石碑の奥側に瑞垣に囲まれて法師墳の墳丘があるが、敷地面積に比べ墳丘の高さが高いのが特徴的である。
石碑
 それにしても、能因法師の業績が記されているという石碑の下部はかなり風化が進行しており、また、碑文は全体的に殆ど判読できない程度になってしまっている(左の写真)。

 この石碑の史跡としての価値がどの程度のものなのかよくわからない。仮に、史跡としての価値が高い場合であるとしても自然の成り行きに任せるのも悪くはないが、適切な保存方法を考えてもよさそうな気もする。

 能因法師の歌の中で有名なもの、当地に関したものとしては、以下のものをあげることができるであろう。

 『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』
 『山里を春の夕暮れきてみれば入相(いりあい)の鐘に花ぞ散りける』(能因法師集)
 『わが宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりける』(後拾遺集)

 能因法師関連の史跡として、「文塚」、「花の井」、「不老水」、「伊勢寺」があります。それぞれ該当のページがありますので、参照して下さい。

 (参考:高槻市教育委員会名の解説掲示板)
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Yukiyoshi Morimoto