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教宗寺及び橋詰地蔵尊
所在地及びアクセス:

 高槻市芥川町4
教宗寺所在地図
 JR東海道本線(JR京都線)「高槻」駅下車。大阪寄りの西口から北の方向に出て直進し、最初の信号を左折し(西の方向)、商店街を通り抜ける。右手に郵便局のある交差点を左折し(南の方向)、数十メートル進むと道が西の方向へほぼ直角に曲がる地点左側に「芥川一里塚」がある。この前を更に西側に約250m進むと道路から右手やや奥まったところに「教宗寺」がある。
 「高槻」駅西側を出て北西の方向に進むと「芥川一里塚」までの近道があるが、道が入りくんでおり、ややわかりにくい。

見所など:
山門
 「神恵山教宗寺」は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、本尊は阿弥陀如来である。

 左の写真は教宗寺の「山門」である。

 田淵久兵衛教宗が親鸞上人の弟子となって了専と名のり、弘安10年(1287年)に自宅を寺院に改めたのが教宗寺の創始と伝えられている。
境内(本堂)
 その後、寺は大破したため、元禄5年(1692年)に再建されたといわれているが、現存している堂宇は元禄5年当時ものであるかどうかはわからない。

 左の写真で中央奥にある建物は「本堂」である。本堂以外に大きい堂宇はなく、寺の規模は特に大きいものではない。
松の古木
 この寺の周辺は「芥川宿」のあったところで、享保19年(1734年)に描かれた芥川宿絵図にも教宗寺が書かれているようで、その景観は現在と変わるところはなく、今も二百数十年前の姿をそのまま残しているという。

 「山門」をくぐって一寸奥に進んだ右手に松の古木(左の写真)がある。地面に接している部分は殆ど樹皮だけになっているが、生育しており、古寺の境内にある松として十分な貫禄を持っている。
 
石槽
 境内の一角、本堂の手前に花崗岩の自然石をくり抜いて作った長さ約2m、幅約1m、深さ約35cmの「石槽」(左の写真)が置かれている。

 石槽には石棺と石風呂の二つの場合があるが、この石槽には底に小さい水抜き孔があることから、石風呂と考えられている。

 一般に石槽は山の上にある寺社に見られるといわれており、このように街道沿いの寺にあることで、注目されているようである。

 この
「石槽」大阪府有形文化財に指定されている。

 教宗寺はかつては、往来の激しかった西国街道の芥川宿の中にあったので、参拝者も多かったことと思われるが、今は、普段は訪れる人も少なく、ひっそりと落ち着いた佇まいをみせている。
橋詰地蔵尊(西詰)
 教宗寺から西国街道を西に約300m進むと芥川橋に着く。芥川橋の橋詰めには「地蔵尊」が三ヶ所祀られている。

 左の写真はその内の一つ、橋の東側にある「橋詰地蔵尊」である。写真右側に見える石碑には『享和元年』(1801年)の年号と『神峰山寺毘沙門天通』が彫られており、江戸時代にはこの傍を通って神峰山寺にお詣りしたのであろう。今では考え難い道程である。

橋詰地蔵尊(東側やや離れたところ)
 左の写真は芥川橋東詰から数十メートル東側にある「橋詰地蔵尊」である。

 それにしても何故、近接して三ヶ所も地蔵尊が祀られているのだろうか。

 今では、教宗寺から芥川橋にかけてこの付近は家が建て込んだ街並みになっており、江戸時代でもこの近くまで旅籠があったと思われるが、かつてその昔は、芥川橋の付近は非常に寂しい物騒な場所だったらしい。

 西暦1000年頃の作品とされている「伊勢物語」には芥川のことが書かれている。それによれば、芥川には鬼が住んでおり、娘を食べてしまうというのである。

 これは伝説としても、かつて、この付近には夜になると追い剥ぎや強盗の類が頻繁に出没したのであろう。殺された人も多かったに違いない。これら多くの被害者を弔うために、地蔵尊が祀られるようになったのではなかろうか。
橋詰地蔵尊の祠の中
 左の写真は芥川橋東詰から数十メートル東側にある「橋詰地蔵尊」の祠の中に祀られている石仏である。

 中央の石仏は子供を抱いた母親であるが、子供を抱いた石仏は珍しい。
我が子を鬼(悪人)から守る母親の姿を表したものであろうが、これも伊勢物語の芥川伝説と無関係ではないと思われる。

 石仏は古いものではないようであるが、今でも芥川の伝説が脈々と伝えられているのであろうか。

 (参考:高槻市教育委員会名の解説掲示板、教宗寺及び大阪府教育委員会名の解説掲示板)

2004年1月18日更新
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Yukiyoshi Morimoto