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安満遺跡
(あまいせき)


所在地及びアクセス:

 
高槻市八丁畷町12-1

 JR東海道本線(JR京都線)「高槻」駅下車。駅南側に出て高架を降り、線路に沿って約300m東北方向に歩いた後、弁天駐車場前を東に進む。約400mで左手に跨線橋のある広い通りに出るので、北の方向(左折)に進んだ後、JRの線路に沿って東の方向へ約400m進むと安満遺跡に着く。

 他のアクセス法: 阪急京都線「高槻市」駅下車。北側に出て、阪急の高架に沿って医大付属病院を左手に見て約300m進むと広い通りに出るので、交差点を渡り、直ぐ北の方向に進む。跨線橋に上がらず約450m歩くとJRの線路に行き着くので、線路に沿って東の方向に約400m進むと安満遺跡に着く。

 安満遺跡はその規模が大きいので上記の方法で着いた場所の周辺一帯が遺跡である。
安満遺跡所在地図
 安満遺跡全体の規模、大きさを左の地図に示す。

 安満遺跡は左の地図上に赤い線の囲いで示されているように、北はJR東海道線、南は阪急京都線、東は檜尾川、西は大阪医大の東側にある道路に囲まれた場所で、東西約1.5km、南北約0.5kmの広がりがある。

発見の経緯等:

 安満遺跡は昭和3年(1928年)に京都大学農学部付属農場を建設する際の工事中に発見されたといわれている。

 昭和41年(1966年)頃から宅地開発が始まり、昭和43年(1968年)に農場北側で宅地開発に伴う発掘調査が行われ、その結果、弥生式の石器や土器が発掘され、弥生文明がこの地に拓けていたことがわかった。この地が弥生文化を知る上で重要な遺跡であるということで、以後注目されることとなった。

 発掘調査により、ここは三島地方で最初に米作をした土地であり、弥生時代から鎌倉時代まで約1400年間続いた集落があったとされている。

見所など:

 直下の写真は「安満遺跡」として指定されており、現在、運動場、公園になっている場所を北西側からの遠望である。写真手前は水田であるが、この場所は弥生時代の居住域であったと考えられている。
安満遺跡(1)

遺跡公園 遺跡内には運動場に近接してその西側に公園(左の写真)が造られているが、保存状態は良いとは思えない。遺跡の表示解説板がなければ、運動場のある公園であり、遺跡であることが感じとれない。

 遺跡の保存方法としては、公園とするのも一方法であるかもしれないが、少なくともかつての集落跡がイメージ出来るような形で保存できなかったのであろうか。

発掘調査(平成21年2月22日現地説明):

 安満遺跡の保存と公開を目的として、京都大学付属農場内の遺跡状況知るため、平成20年11月26日から農場内の発掘調査が開始された。この発掘調査は2ヶ年の計画で行われるとのことである。

 今回の発掘調査の現地説明会が平成21年2月22日に行われた。
発掘箇所図
 左の図(発掘調査の場所概略図)は昭和43年の調査で発見された環濠及び今回の農場内の発掘調査箇所の概略図であり、現地説明会の資料を基に作成した。従って、既に発見されている環濠の位置や今回の発掘場所等は正確に再現されていないかもしれないが概略的には図のとおりである。

 今回の発掘箇所は農場内建物の北側で左図@及びAの赤色で示した箇所である。@は試掘抗(トレンチ)1を、Aは試掘抗(トレンチ)2を表す。

 発掘調査を行うに先立ち、農場構内について地中レーダー探索を実施し、溝又は落ち込みの遺構と推定される箇所を推定しているようである。その箇所は農場の建物を取り巻くように分布しているという。左図ではそれら遺構と推定されている箇所の記入を省略しているが、今回の発掘調査の試掘抗付近についてのみ記載している。図中*印を付けたオレンジ色で示す箇所が溝又は落ち込みと推定されている箇所である。
試掘抗@全景
 左の写真は試掘抗(トレンチ)1の全景である。試掘抗1は「発掘調査の場所概略図」で@の赤色で示した箇所であり、その長さは約27mである。写真手前は試掘抗の南側(南西側)であり写真奥は北側(北東側)にあたる。

 試掘抗1の南側は「発掘調査の場所概略図」でも記載しているように、溝1に接しているが、左の写真で排水ポンプが置かれている位置付近から手前側が溝1にあたる部分である(後述)。この溝1は昭和43年の調査で発見された内側の環濠(「発掘調査の場所概略図」参照)に続いているものと考えられている。

 左の写真で排水ポンプのある場所の右側には出土した木製品や土器片を見ることができる。出土品に関しての詳細は後述する。

地層
 左の写真は試掘抗1の断面である。この写真は溝1に接している部分の断面であるが、それ以外の場所も基本的にはほぼ同様な断面を見ることができる。

 上層は厚さ約60cm程度の表土と厚さ約30cm程度の遺物包含層からなり、この遺物包含層から弥生時代の遺物が発見されている。下層は厚さ約50cm程度の礫層からなっており、試掘抗1ではこの礫層の下に゙溝1、溝2、溝3が認められている。
試掘抗1の溝1の部分
 左の写真は試掘抗1の南端で溝1が認められている部分である。溝1の幅は約3mとされている。この部分から多数の木片や土器片、石器類が出土したようで後述する2点の壺の破片も出土し、これは復元されている。また、写真でもわかるように溝1の上層部分には多数の柱穴が認められている。
溝1の上層部分に見られる柱穴
 左の写真は試掘抗1の南側の溝1上層部分に見られる柱穴である。これは直上の写真で見れられる柱穴をアングルを変えて撮影したものである。柱穴は約30個確認できたという。
溝1部分見られる出土品
 試掘抗1の溝1の部分から多数の土器片や木製品が出土したことは後述するが、左の写真はその出土状態である。
試掘抗1の北側の溝3
 試掘抗1の北端に近い場所に溝3が認められる。左の写真で試掘抗が一段と深くなって水のたまっている箇所が溝3である。

 既述の溝1と溝3には写真でもわかるように肩が認められ溝の存在が明確であるが、溝2は肩が明確ではないため、溝というよりも自然流路と考えられているようである。
試掘抗2全景
 左の写真は試掘抗(トレンチ)2の全景である。試掘抗2は「発掘調査の場所概略図」でAの赤色で示した箇所であり、その長さは約9mである。写真手前は試掘抗の南側(南西側)であり写真奥は北側(北東側)にあたる。

 写真奥側(北側)で排水ポンプの置かれている箇所が溝であり、この溝は試掘抗1の溝3の延長部と考えられている。

 左の写真で手前側の箇所には幾つか柱穴が見られるが、試掘抗2にも10個余りの柱穴が検出されたという。
試掘抗2からの出土土器片
 左の写真は試掘抗2の溝1で出土した壺、甕など土器の一部である。

 今回の発掘調査で土器、木製品等が出土したことは既述したが、現地説明会で展示紹介されていた主な出土品については以下の通りである。
発掘された土器片の一部
 左の写真は弥生前期の土器片で、試掘抗の溝から発掘されたものである。

 その他、遺物包含層から弥生中期の土器も出土しているようである。
出土復元した土器
 左の写真の2個の壺は試掘抗1の溝1から発掘された破片を復元したした壺で弥生時代前期のものであるという。写真でもわかるように殆ど完全に復元されている。
出土石器の玉鋸
 遺物包含層から種々の石器類も出土しているようで、左の写真は四国阿波産の紅簾片岩で作られた玉鋸である。
出土石器の石包丁
 左の写真は近江高島の石で作られた石包丁である。

 出土した石器類にこの地から距離的にかなり遠い土地のものが含まれることから、広い地域との交流をうかがい知れるという。
出土品漆塗りの櫛の一部
 出土品の中で特に注目されているものは漆塗りの櫛である。この櫛は試掘抗1の溝1から出土したようである。左の写真はこの櫛の一部で現地説明会で展示されていたものである。

 左の写真で櫛の歯にあたる部分のみをアングルを変えて撮影したものを図中黄色の背景写真で示した。
漆塗りの櫛のパネル
 説明会場には左の写真のような櫛の写真パネルが展示されており、こちらのパネルの方が展示されていた現物よりも出土した櫛の全体像に近づいた形状を見ることができた。

 櫛は木製又は竹製の歯を束ね黒漆で固め、赤漆で装飾した結歯式と呼ばれるものといわれている。左の写真左端に復元図(案)が示されており、その長さは約9.5cmという。

 これと同様な櫛は伊勢、大和の大集落で僅かに見つかっている程度で数少ない珍しいものらしい。何れも弥生前期に作られたもので、今まで見出されているものに形が類似しているので、それらと同じ場所で作られたものかもしれないという。

 発掘調査、出土品などからこの安満遺跡が近畿地方でも重要な集落であったことが確認できたとされている。

以上2009年3月23日更新

発掘調査(平成27年6月27日・28日現地説明):
発掘調査現場個所
 安満遺跡の整備の一環として、平成26年9月から左の図に赤紫色で囲んだ区域の発掘調査を行っているようで、その結果の説明会が平成27年6月27・28日の両日にわたって行われた。

 図に示したとおり、説明会で公開された区域は調査対象区域の一部で、概略的には赤色の線で囲んだ場所である。
古代の水田
 左の写真は調査地の1区で見つかった小区画の水田である。1区の殆どの部分は水田であり、今から約2,500年前の弥生時代時代前期のものと考えられている。現地説明によれば、幅約20〜30cmで、高さ約5cmの畦で区切られ、水田1枚の面積は10〜65uで、57枚が確認されているという。水田域で畦の部分と水田の部分は色の違いによって区別できるようである。

 1区の水田は調査地3区にある大畦まで及んであり、更にその西側には別の水田域が広がっていたと考えられている。結果、弥生前期の水田域は東西約90m、南北約100mであったと推定されている。
大畦
 左の写真は3区にある大畦を北側から見たものである。上述の通り、1区の水田が大畦の東側(写真左側)まで広がっていたとされている。
古代人の足あと
 この水田は弥生時代前期末に洪水により砂礫に覆われたため、放棄されたらしい。砂礫を歩いた際に踏み込んだ足あとが多数見つかっており、左の写真はその足あとと判断されているものである。

 2,000年以上経過すれば、その間当然幾度かの洪水もあったろうし、激しい風雪にも遭っているに違いない。そんな厳しい自然条件に曝されながらも足跡が残り、これが現認されるというのは驚異と言うか、不思議である。
水田の地層と砂礫層
 既述したように弥生時代前期末に洪水により水田が砂礫で覆われたといわれているが、左の写真で見られるように、水田層の上に砂礫層が厚く堆積しているのがよく分かる。
方形周溝墓
 弥生時代前期末の洪水により水田に砂礫が厚く堆積した場所は、水田としての使用を放棄し、ここに墓地を作った。墓地にはいくつかのタイプがあるようである。

 左の写真でAは1区で発掘された方形周溝墓といわれる墓で、名前の通りほぼ正方形に近い形で周囲は溝で囲まれている。この方形周溝墓は弥生時代後期のものとされている。
方形周溝墓と井戸
 左の写真は3区で発掘された墓でAとBが方形周溝墓とされ、弥生時代中期のものらしい。Cは井戸といわれている。
木棺墓
 調査区3区で既述の方形周溝墓の他に木棺墓が見つかっている(左の写真)。
土器棺墓
 その他墓として土器棺墓が発掘されている。左の写真は3区で見つかっている土器棺墓で弥生時代末のものらしい。

 この3区で見つかった土器棺墓からは直下の写真左側の土器棺が出土した。また、直下の写真右側の土器棺は2区にあった弥生時代中期後半の土器棺墓から出土したものである。
土器棺(1) 土器棺(2)
溝
 調査区2区には弥生時代中期以降に作られたが何本か見られる(左の写真)。これは南側に新たな水田を作るための工事があったものと考えられている。
壺
 左の写真は方形周溝墓から出土した壺で、弥生時代中期の土器である。
甕
 左の写真も弥生時代中期の土器で、方形周溝墓から出土した甕である。
鍬
 左の写真は出土品の一つで、である。右側のものは未完成品である。

 以上、今回の調査区で弥生時代前期(約2500年前)の水田、前期から後期にかけての墓、中期以降の灌漑施設などを検出している。この水田跡は近畿で最古級のものであり、既に安満遺跡には居住域や墓地が存在していたことも発見されている(本サイト2009年3月23日更新の項参照)。今回、水田や用水路、墓地など発掘されたことで、この地に近畿最古の農村風景がよみがえったといわれている。

最終更新日:2015年8月2日

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