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芥川一里塚
所在地及びアクセス:

 高槻市芥川町3
芥川一里塚所在地図
 JR東海道本線(JR京都線)「高槻」駅下車。大阪寄りの西口から北の方向に出る。地上に出て北の方向に直進し、最初の信号を左折(西の方向)して、商店街を通り抜ける。右手に郵便局のある交差点を左折し(南の方向)、数十メートル進むと道が西の方向へほぼ直角に曲がるが、その曲がり角に「芥川一里塚」がある。
 「高槻」駅西口を出て北西の方向に進む道があるが、道が入りくんでおり道程が若干わかりにくい。上述の商店街を通り抜ける方が距離は長くなるがわかり易い。

見所など:
芥川一里塚(1)
 一里塚は豊臣秀吉が街道の距離の目印とするために、一里(約4km)毎に作らせたのが始まりとされ、江戸時代に整備され一般的になったようである。一里塚には祠を建て榎の木を植えるのが普通であったとされている。

 西国街道にはいくつかの一里塚が残っているが、宿場町「芥川宿」の東のはずれにあったとされているのがこの「芥川一里塚」(左の写真)である。左の写真でわかるように、「芥川一里塚」にも小さな祠があり、祠の後ろには榎の木が植えられており、一里塚の体裁が整えられている。

 かって「芥川一里塚」は街道を挟んで東側と西側の両方にあったといわれているが、現在残っている塚は東側のもので、その西北の場所にあったとされている塚は現存していない。
芥川一里塚(2)  左の写真は祠の南側から見た「一里塚」である。写真左端に見える道路は西国街道である。

 この塚から西側、西国街道沿いに宿場町「芥川宿」が拡がっていたといわれている。
西国街道の古い家並み
 芥川宿の発祥は12世紀頃からといわれており、17世紀初めには徳川幕府により宿場町としての体裁を備え、参勤交代のための本陣、旅籠などが置かれたようである。19世紀前半(天保年間)には旅籠が33軒、家数も253軒あったという。

 現在の西国街道筋には古い家並みが若干残っており(左の写真:提灯商の家)、かつての街道の面影を僅かに偲ぶことが出来るが、芥川宿当時の旅籠などは全く残っていない。

 街道の道程を表すのに、何故、祠を作ろようになったのか。祠の意味は何かよくわからない。石碑で道程を表すほうが合理的に思えるが・・・。

 「芥川一里塚」大阪府史跡に指定されている。

 (参考:大阪府教育委員会、高槻市教育委員会名の解説掲示板)

2004年1月18日更新
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Yukiyoshi Morimoto