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西国番外
華頂山 元慶寺

(かちょうざん がんけいじ)
所在地及びアクセス:
元慶寺所在地図
 京都市山科区北花山河原町

 京都地下鉄東西線御陵
(みささぎ)駅下車。
 二条寄りの出口(3又は4番出口)を出て直ぐの信号のある交差点を南の方向に進む。道なりに進と、左手に「みささぎテニスクラブ」、次いで「陵ヶ岡保育所」を見て、JR東海道本線の下をくぐる。更に南の方向に進むと左手に「花山中学校」、次いで右手に「北花山郵便局」を見て数十メートルで車の往来の多い通りに出るので、西の方向に曲がる(右折)。数十メートル西進すると元慶寺の標識が見える。駅から徒歩約15分。
 上記の道程はややわかり難いので、少々時間がかかるが下記の道程の方が良いかもしれない。
 御陵駅の1番出口を出て、広い通り(三条通)を東南の方向へ約100m進み、信号のある御陵交差点を南の方向に曲がる(右折)。道なりに南進し、JR東海道本線の下をくぐり、更に南進すると車の往来の多い道路に突き当たる。この交差点(六兵ェ池交差点)を西の方向に曲がり(右折)、約400m西進すると元慶寺の標識が見える。駅から徒歩約20分。

宗派:天台宗

本尊:薬師如来

開基:遍照僧正

縁起:
朱印
 桓武天皇の孫にあたる遍照は仁明天皇の崩御に従い出家し、延暦寺で仏門に入り、貞観11年(869年)に華山寺を創建したとされている。その後、元慶元年(877年)には清和天皇の勅願寺となり、崋山寺から元慶寺に名称を変更したと伝えられている。

 応仁の乱までは寺域も広かったが、応仁の乱で寺が焼失してから、現在みられるような小さい規模の寺になったといわれている。

 花山天皇が、寛和2年(986年)19歳のときに出家し花山法皇となったのが、この元慶寺であるとされている。花山法皇は廃れかけていた西国霊場を復活させた人で、西国霊場中興の祖として知られている。

見所など:
参道
 東西に延びている車の往来の多い通りの辻に左の写真に見られるように元慶寺への案内標識があり、ここから北に向かって元慶寺への道路が山門まで延びている。この道路は元慶寺への参道のように思えるが付近の人のための生活道路(道交法にはこの規定はないが)らしい。

 写真(2002年5月撮影)でもわかるように、この標識はかなりくたびれており、近い将来に新しいものに立て変えられる可能性がある。
山門
 左の写真に見られるように「山門」は竜宮造りになっており、唐風で珍しい。

 「山門」には梵天と帝釈天が安置されていたようであるが、それらは京都国立博物館に寄託されているとのことである。門についている窓から中を覗くとこの旨の説明が書かれているのを見ることが出来る(2002年5月)が、それらが何時この場所に戻されるかについての記載はない。
本堂
 門をくぐると、石畳が続いており、正面に納経所、左手に「本堂」が見える。

 「本堂」は木立の中に建てられており(左の写真)、元慶寺の境内が狭いためか「本堂」の前には広場もない。
本堂近景
 左の写真は「本堂」の正面である。

 本堂には本尊である薬師如来の他に遍照の作と伝えられている木像が安置されているという。
遍照の作であれば、今から1100年以上も昔に造られた像が保存されているいうことになるが、この木像については何故か文化財の指定がないようである。
花山天皇落飾石碑
 開基の遍照僧正は六歌仙の一人として知られており、彼の作、『天津風雲の通い路吹きとじよ乙女の姿しばしとどめむ』は百人一首のなかでも特に有名である。

 「本堂」の前の石畳を納経所の方に一寸進んだ左手に『人皇六拾五代花山院法皇御落飾道場』と彫られた石柱標識が建てられている(左の写真)。

 これは縁起の項にも記載したように、花山天皇がこの寺で出家し花山法皇となったとされているが、これを表すために建てた石碑であろう。

 花山天皇の出家の経緯についてはいろいろとエピソードがあるらしい。
本堂扉の菊花紋
 「本堂」の扉には菊花紋が付けられている(左の写真)。

 これは、元慶寺は勅願寺であり、花山法皇ゆかりの寺であることによると思われる。

御詠歌:待てといわばいともかしこし花山(はなやま)にしばしと啼(な)かん鳥の音もがな
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