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西国第三十二番
繖山 観音正寺

(きぬがさやま かんのんしょうじ)
所在地及びアクセス:

 滋賀県蒲生郡安土町石寺
観音正寺所在地図
 JR東海道本線(琵琶湖線)能登川駅下車、駅前から近江鉄道バス神崎線[観音寺口経由八日市行き]に乗車し、観音寺口で下車する(バス乗車時間:12分)。バス停から西の方向へ3〜400mほど進むと結
(むすび)神社がある。結神社の境内に観音正寺への参道があり(参道は細い道でややわかり難いが、標識がある)、この山道を道なりに登ると観音正寺に着く。この参道は裏参道である。観音寺口バス停から観音正寺まで徒歩約50分。
 表参道は安土町石寺から登るようになっている。表参道からのほうが観音正寺までの距離がやや短いようであるが、石寺にある参道入口までのアクセスに問題がある。表参道から登る場合は通常、JR安土駅から石寺の参道入口までタクシーを利用するのが普通のようである。
 車又は能登川駅からタクシーを利用すれば寺の近くまで登れるので、徒歩で山道を登るのに比べはるかに楽であり、最近では徒歩で参拝する人は極めて少ないという。ただ、ここは西国三十三ヶ所中最難所の一つとして有名な寺であり、難所を体験してこそ参拝の意味があると思われるので、健康の許す限り是非とも徒歩で登りたい。
 徒歩で参拝するときは裏参道の利用を推奨する。

 近江鉄道バス神崎線の能登川駅発時刻(8時〜17時の間)は次の通り(2005年12月現在)。*印は学校休校日(春・夏・冬休み期間中)は運休
 平  日   土・日・祝日
08 40 10 42
09 23 42 12 43
10 13 43 13 43
11 13 43 13 43
12 13 59 13 59
13 43 43
14 39 30
15 13 43 13 43
16 11 41 59* 13 43

宗派:
天台宗(単立)

本尊:千手千眼観世音菩薩

開基:聖徳太子

縁起:
朱印
 聖徳太子が琵琶湖のほとりで人魚に呼び止められた。人魚は『私の前世は漁師で、殺生を重ねてきたので、こんな姿にされてしまい、今では魚たちに苦しめられています。どうか成仏させて下さい』といって頼んだという。
 聖徳太子はこの願いを聞き入れ、千手観音像を刻み、推古13年(605年)に堂を建立し、観音像を祀ったのが寺の創始とされている。
 戦乱の世になり佐々木氏が山上に城を築いたが、巡礼にまじって間者が山上に入ってくるのを嫌って寺を山麓に移転させたといわれている。かつての観音正寺は大寺で盛時には三十三の塔頭を擁したという。
 織田信長の兵火によって寺は焼失したが、その後、慶長2年(1597年)に再び山上に上がり教林坊の宗徳法橋が本堂を建立し、諸堂を再興したとされている。

見所など:
参道入口
 アクセスの項にも記載したように観音正寺への参道入口(左の写真)は結
(むすび)神社の境内にあり、しかも細い道であるが、『これより13丁 観音正寺参道』と書かれた標識が立てられているので、間違うことはない。(注:13丁=1.4km)

 写真中央に見える細い登り道が参道である。この参道は裏参道になる。
参道途中の石仏
 参道(裏参道)はまさに山道であり、自然石や丸太を敷いた細い道が延々と続いているが、道の周囲の樹木は伐採されており、一応整備は行われているようである。参道は途中、かなり勾配の大きい場所もあり難所といわれるだけのことはある。

 参道の途中には左の写真に見られるような小さい石仏が所々にあり、その前には小銭が供えられている。現在、観音正寺への参拝は車で寺の近くまで行くのが普通になってきているようで参道途中で誰にも会うことはなかったが、このような石仏の情景を見ると歩いてこの参道を上がる人もいるのであろう。

 一方、表参道の方は自然石の乱れ積み石段が続いており、勾配は急であるが、道幅は裏参道より広くあまり山道という感じはしない。両参道を通った経験から、距離は若干長くても裏参道の方が登りやすいように思う。
寺名石柱
 車で参拝すると駐車場から観音正寺へ通じる参道に『観音正寺』と彫られた大きな石柱(左の写真)を見ることができる。この位置から奥へは一般の車は入ることができず、ここからは歩くことになる。裏参道を徒歩で上がった場合もこの場所近くでこの参道に合流する。
仁王像
 参道を進むと一寸した広場に着く。通常、寺には山門(仁王門)があり、山門をくぐると諸堂伽藍が立ち並ぶが、観音正寺には山門がない。

 左の写真で見られるように広場の中程に一対の「仁王像」が置かれているが、この位置は通常、山門のあるべき場所よりもかなり奥に入った場所のようである。
右仁王像
 左の写真は一対の仁王像のうち向かって右側の「仁王像」である。仁王像が山門の代わりをなすものかどうかはわからないが、山門の多くは仁王像を安置しており、仁王門とも呼ばれていることから、これはこれで山門を表しているものと考えられないこともない。

 それにしても、仁王像の置かれている位置が、かなり奥まった場所にあるのは何故だろうか。参道から寺に入り最初に出会う建造物は「仁王像」ではないので、よけいにこの疑問が残る。
鐘楼
 参道を進み一寸した広場に着いたときに先ず出会う建物は「鐘楼」(左の写真)であり、トイレ(後述)である。

 「鐘楼」は写真でもわかる通り造りは簡素である。
トイレの標識(1)
 「鐘楼」の右手にトイレがある。このトイレは最近建てられたようで真新しい。左の写真はトイレに掲げられている標識で『うすさまみょうおう』と書かれている。『うすさまみょうおう』は汚れたものや悪を転じて綺麗にする明王で、不浄の場所に祀られている。

 『うすさまみょうおう』は『烏枢沙摩明王』、『烏瑟沙摩明王』や『烏芻沙摩明王』と書かれていることが多い。
トイレの標識(2)
 左の写真はトイレについている標識で男性用のトイレを表している。たとえ古刹・名刹のトイレであってもこのように表現しているのは珍しい。
樽で出来た小堂
 仁王像の間を通り抜け奥に進むと左手に樽で作られた小さな祠(左の写真)が目につく。樽の上には特徴のある屋根がつけられ、何となく印象に残る祠であるが、これは何だろうか。
濡仏
 更に奥に進む参道左手に「濡佛(ぬれぶつ)(左の写真)が安置されている。

 「濡佛」は江戸時代から安置されていたようであるが、第二次世界大戦時に供出され、現存のものは以前のままの姿を映し昭和58年(1983年)に再建されたものである。

 「濡佛」の胎内には信徒が書写した写経が納められているという。
護摩堂
 「濡佛」を見て奥に進むと右手に「護摩堂」(左の写真)がある。
本堂遠望
 境内の最も奥に「本堂」が建てられている。左の写真で中央奥に見えているのが「本堂」、写真右端に屋根が見えているのが「護摩堂」である。
本堂  左の写真は正面から見た「本堂」である。この「本堂」は平成16年(2004年)3月に再建され、同年5月22日に落慶されたもので、見た目にも新しい。
 かつての本堂は明治15年(1882年)に彦根城の槻御殿を移したものであったが、平成5年(1993年)5月22日に全焼した。この火災により本堂に安置されていた重要文化財の本尊、木造の秘仏千手千眼観音立像をはじめ平安後期の毘沙門天像など仏像9体も灰燼に帰した。また、聖徳太子に願を訴えたという伝説の人魚のミイラと称するものも同時に焼失したといわれている。
山号の額
 左の写真は「本堂」正面に掲げられている山号の額である。本堂に入るのは通常、正面からではなく右側面からであり、本堂内に入ると本尊を直接拝観することができる。

 本尊はインド政府から特別の許可をうけて輸入された白檀の原木23トンを使用し、丈六(高さ4.8m)の総白檀造り千手千眼観世音菩薩坐像である。平成16年5月22日に「本堂」の落慶法要と同時に本尊の開眼法要も行われた。

 「本堂」の右手山側の斜面には何か曰くありげな石積みが見られる。寺の人に石積みに特別の意味があるのかどうか聞いてみた。結果、『この石積みには特別の意味はありません。本堂の火災で山の土が焼けて崩れやすくなっているので山崩れを防ぐための石積みです』という答えが返ってきた。この答えには一寸ガッカリしたが、それにしても珍しい形の石積みである。
本堂横の石積
 この「石積み」を本堂前から見たのが左の写真である。普通我々が目にする石垣のようには見えないので、つい仔細に観察してみたい欲求にかられる。
石積みの一部
 石積みに向かって右端の方、石積みの上部に小さい七重塔があるが、その下に面白い形の(左の写真中央の石)が見られる。

 周囲の石に比べこの石だけが特別大きい。その形は人が座った姿を斜め後ろから見た様子を彷彿とさせ、やや猫背であり頭部の形状も含め年老いた人を連想させる。
中央から左の石積み
 左の写真は「石積み」の中央部分〜左側部分である。赤枠で囲んだ部分には観音像が、黄枠で囲んだ部分には魚濫観音が安置されている。この両者について後述する。
石積みにある観音像
 直上の写真で赤枠の部分を拡大したのが左の写真である。わざわざしつらえたと思われる天面が平らな石の上に観音像が安置されている。

 観音像の足下から湧き水が流れ出しているが、これは本堂建設の基礎工事の際、細菌ゼロ、水温14度の閼伽の水が湧き出たという、その湧き水なのだろうか。

 拡大写真は省略したが、この観音像の左下側にも石積みの上に仏像が安置されている。

 二枚上の写真で黄色の枠で囲んだ部分には「魚濫観音」(左の写真)が祀られている。観音様が魚の上に乗っているのが魚濫観音であり、その起源は中国とされている。

 ここに祀られている「魚濫観音」は滋賀県豊郷町在の浅居さんの奉納によるものであるとの説明書きがあるが、何故ここに魚濫観音が奉納されたのかわからない。

 当寺の創始に人魚が関係しているという言い伝えのあることは縁起の項に記載したが、人魚と魚濫観音との間に何か関連があるようにも思える。それにしても、この観音様は魚を踏みつけており、踏みつけられた魚は大きく口を開け悲鳴をあげているように見える。ずいぶん残酷な観音像である。

 裏参道を上ると車で来たときの駐車場の近くに出るが、ここから寺の建物のある場所までの参道途中に「奥の院」がある。
奥の院入口
 左の写真は「奥の院」への入口である。「奥の院」への石段は自然石の乱積みであり、しかも勾配が急で、上りはともかく下りはかなり危険である。そのためか、写真でもわかるように石段にはロープがつけられている。このロープを持って石段を上り下りする。

 写真で見られるように、「奥の院」への入口に何故か鳥居が建っている。
権現岩風神雷神窟
 入口から奥の院までの途中に「権現岩 風神雷神窟」と名付けられた洞窟(左の写真の中央部)がある。洞窟の中には風神雷神が祀られているものと思われるが、何となく不気味な雰囲気があり確認するのを躊躇した。
奥の院
 「風神雷神窟」を通り過ぎ少し進むと「奥の院」の標識のある場所に出る。そこから数m上ったところに「奥の院」(左の写真)が見えるが、そこに行くためには、写真ではよく分からないが、垂直に近いとんでもなく急勾配の乱積み石段を上らなければならない。石段にはロープがつけられているが、たとえ上がれても下りる時は危険であると思われたので、これ以上、上るのを断念した。

 奥の院の岩屋は僧の修行場となっていたようで、昔は秘密の場所とされており、一般の人は立ち入ることができなかったという。現在でも人の立ち入りを拒絶しているかのような神秘的な雰囲気を醸し出している場所である。

御詠歌:あなとうと導きたまえ観音寺遠き国より運ぶ歩みを

2005年12月25日最終更新
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Yukiyoshi Morimoto