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西国第二十四番
紫雲山 中山寺

(しうんざん なかやまでら)
所在地及びアクセス:

 兵庫県宝塚市中山寺2丁目11-1

 阪急宝塚線「中山観音」駅下車。北の方向へ出て、数軒の土産物屋や食堂が軒を連ねる短い門前町を抜け、突き当たりを左折すると直ぐ中山寺山門の前に着く。駅から山門まで徒歩約2〜3分。

宗派:
真言宗中山寺派(大本山)

本尊:十一面観世音菩薩

開基:聖徳太子

縁起:
朱印
 聖徳太子が四天王寺を建てるのに適した土地を探しているとき、太子に滅ぼされた物部守屋が悪鬼となって現れたが、太子は「菩薩様、私をお守り下さい」と祈ると悪鬼は退散した。その夜、仲哀天皇の妃、大仲津姫の「この地より北に紫の雲のたなびく地がありますので、その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」という声が聞こえた。このお告げに従い、聖徳太子は、推古天皇の代(600年頃)にこの寺を開創したという。
 中山寺の創始に関しては、上記に類似した伝説が幾つかあるらしい。
 聖徳太子によって滅ぼされた物部守屋の霊を鎮めるためと、仲哀天皇の妃、大仲津姫と二人の皇子、香坂
(かごさか)王と忍熊(おしくま)王の供養のために推古天皇の代(600年頃)に聖徳太子が開創した、という説が強いようである。

 中山寺は平成7年1月17日の阪神大震災で、殆どの建物は大なり小なり被害を被ったが、その後復興に努め、平成9年10月10〜12日には開創1400年記念及び阪神大震災復興大法会が営まれた。

境内諸堂配置:
境内諸堂配置図

見所など:
山門
 アクセスの項に記載したように短い門前町を通り抜けると、直ぐ左手にに「山門」(左の写真)が見える。写真からもわかるように山門はかなり大きく重厚である。
山門に掛けられた草鞋
 「山門」に安置されている仁王像を囲んでいる柵には、氏名と願い事が書かれた小さな奉納「わらじ」(左の写真)が多数掛けられている。

 昔の西国巡礼は長く苦しい旅であったが、それに自分の足腰が耐えられるよう祈りを込めて「わらじ」を奉納する慣わしがあったといわれており、その考え方が交通の発達した現在でも残されているのであろう。

 「山門」から参道がほぼ北の方向に向かって真っ直ぐに「本堂」に通じており、参道の両側には塔頭寺院が並んでいる。
境内に設置されたエスカレーター
 「山門」から「本堂」までの間にある二ヶ所の石段の脇にはエスカレーター(左の写真)が設置されている。

 エスカレーターは阪神淡路大震災後設置されたものであるが、震災前の中山寺を知る者にとって違和感がある。この寺に参拝する人々には妊婦、お宮参りの子供を抱いた両親などが多いので、たとえ短い階段であっても歩かないで済むように配慮した結果なのであろう。
五百羅漢堂
 二ヶ所ある階段のうち、「山門」を通って最初の階段を上がったところに、「五百羅漢堂」(左の写真)が建っている。現在の「五百羅漢堂」は阪神淡路大震災(平成7年)後の平成9年(1995年)に開創1400年記念事業の一つとして新築されたものである。以前の「五百羅漢堂」は震災により壊滅的な被害を受けたようである。

 この五百羅漢は『親兄弟の 顔が見たくば 中山寺の五百らかんの堂にござる』の古歌に詠まれている。
五百羅漢堂内部(1)
 「五百羅漢堂」の内部には左の写真でもわかるように、中央には本尊である釈迦如来が祀られ、周囲の壁面には釈迦如来の弟子である羅漢さん七百余体が祀られており、如来の説法を聴聞している姿を再現しているという。
五百羅漢堂内部(2)
 左の写真は「五百羅漢堂」内に祀られている七百余体の羅漢の一部である。これだけ多数の羅漢を拝観するとさすがに壮観であり、厳粛な気持ちになる。
閻魔堂
 「五百羅漢堂」の傍の本堂に向かう参道の西側に朱塗りの「閻魔堂」(左の写真)が建てられている。

 ここには閻魔大王が祀られている。閻魔大王は密教における閻魔天が冥界思想のの影響で変化したものとされており、日本では地獄極楽のイメージで定着され、冥土の裁判官とか地獄界の王とも言われ、一般民衆の間で身近な仏として知られている。
大黒堂
 「閻魔堂」の南寄り西側に「大黒堂」(左の写真)が建てられている。

 「大黒堂」には大黒天が祀られている。大黒天は古代インドではシバの神と同体である大自在天の化身であったという。仏教の仏とされてからは寺院の守護神、また福の神とされ、日本では打ち出の小槌を持ち米俵に乗る姿になった。
中山寺古墳外観
 「大黒堂」の横に「中山寺古墳」(左の写真)がある。

 この古墳は仲哀天皇の妃、大仲津姫の墓という言い伝えがあるというが、古墳が建造されたのは6世紀後半とされているから、大仲津姫の墓とするには時代が合わない。他に、この地方に勢力を誇っていた豪族の墓とする説もある。
中山寺古墳内部
 この「古墳」は横穴式石室で、羨道の奥の玄室には別名「石の櫃
(からと)」と称されている「石棺」が安置されている(左の写真)。石棺はくり抜き式家形で、その大きさは幅約1m、長さ約1.8m、高さ約1.2mとされている。

 「古墳」は兵庫県指定の文化財になっている。

 長谷寺を開き法起院に隠棲した徳道上人が仮死状態になったとき、冥土の閻魔大王から授かったという宝印を中山寺に埋めたという伝説がある(詳細は「西国番外、法起院」のページ参照)が、それによれば、その宝印を埋めたのがこの「石棺」の中といわれ、約270年後に花山法皇によって掘り出されるまで、この「石棺」の中で眠り続けたとされている。

 花山法皇はこの宝印に基づき、西国三十三ヶ所を再興したとされているが、宝印がこの寺に埋められていたということから、かつて、この中山寺が西国霊場の第一番札所だったこともあるという。
本堂
 「山門」からほぼ真っ直ぐに続いている参道を進むと「本堂」に行き着く。左は「本堂」を東南側から見た写真である。

 聖徳太子が創建して以来、火災や戦火により堂宇はその度に焼失してきているようであるが、現在の本堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって再建されたものであるとされており、桃山時代の代表的な仏堂建築であるという。「本堂」は平成7年の阪神大震災の被害を殆ど被らなかったようである。
本堂近景(1)
 左の写真は「本堂」正面の近景である。内陣に祀られている本尊「木造十一面観世音菩薩立像」は女人済度を悲願としたインドの王妃、シュリマーラー(勝鬘夫人)が自らを彫った霊像といわれている。また、両脇侍二体は後白河法皇の寄進によるとされている十一面観世音菩薩であり、本尊と共に十一面観世音菩薩が三体並んでいる珍しい形式といわれている。

 本尊を含め上記三尊は秘仏になっているが、正月三ヶ日と毎月18日には開扉されているようである。

 
本堂近景(2)
 中山寺は安産祈願の寺として有名であり、本堂左手前の隅に「安産祈祷受付」(左の写真:2001年8月撮影のもの)が設けられている。

 ここで祈祷済みの腹帯とお守りを買い求める妊婦が跡を絶たない。出産後は新しい腹帯を買い、これを寺に納め、お礼参りする。この習慣は昔から脈々と続いている。

 この寺の安産祈願は、豊臣秀吉がこの観音に祈って無事に秀頼を授かったことに始まるといわれている。

 本尊の木造十一面観世音菩薩立像」は重要文化財に指定されており、また、「本堂」は兵庫県文化財に指定されている。
護摩堂
 「本堂」の右側(本堂の東北側)に「護摩堂」(左の写真)が建てられている。「護摩堂」は桃山時代の僧堂様式を残しており、兵庫県文化財に指定されている。

 「護摩堂」に安置されている本尊は不動明王坐像で、須弥壇の上には四大明王を配し五大明王の形式をとっている。
開山堂
 「護摩堂」の更に右側に「開山堂」(左の写真)が建てられている。「開山堂」は「聖徳太子堂」とも呼ばれており、中山寺の開基である聖徳太子が祀られている。

 「開山堂」は阪神大震災(平成7年)後、護摩堂を参考にして平成9年(1997年)に建立された。
大師堂
 「本堂」と「護摩堂」の間に石段が設けられており、石段を上がると「大師堂」(左の写真:2006年3月撮影のもの)に着く。ここには弘法大師が祀られており、西国三十三所の砂が置かれている。参拝しながらこの砂を踏んで廻れば三十三所を巡礼したのと同じ功徳が得らられると伝えられている。

 なお、「大師堂」は2016年3月の時点では改修工事中であり、この写真は上述の通り約10年前に撮影したものである、
子授け地蔵
 本堂左側(西側)の石段を北の方角に向かって上がると一寸した広場があり、そこに「子授け地蔵」(左の写真)が建っている。

 この「子授け地蔵」はひっそりと建っている目立たない小さな堂である。中山寺には既述のように安産祈願の参詣者が多いが、小さな堂であってもそれなりの霊験を期待してか、「子授け地蔵」にお詣りする人も多く見られる。
三十三所本尊の石仏
 「子授け地蔵」の前から南の方に向かって階段を使わずに進むと西国三十三所各寺院の本尊を模して作られた石仏(左の写真)が置かれているのが見える。
大願塔
 本堂左側(西側)の石段を西の方角に向かって上がると、「大願塔」(左の写真)の傍に着く。

 中山寺に保存されている参詣曼荼羅には現在見ることが出来ない建物がいくつかあり、そのうちの一つに大塔(多宝塔)がある。この大塔を再建したものが現存の「大願塔」(左の写真)である。

 「大願塔」は2007年(平成19年)に落慶した。塔の地上階には70余人を収容できる祈祷室が設けられており、地下には大部分が既存の石垣内に埋め込まれている位牌室がある。
安産手水鉢(1)
 「本堂」の西側、宝蔵の前、「子授け地蔵」の方に向かう階段の傍に「安産手水鉢」(左の写真)が置かれている。

 仲哀天皇の妃、大仲津姫が残した二人の皇子の内、香坂
(かごさか)王は不慮の死をとげ、忍熊(おしくま)王は仲哀天皇の後の妃、神功皇后との戦いに敗れる。この「安産手水鉢」は忍熊王の遺体を納めた舟形石棺であるともいわれているが、伝説の域を出ないものと思われる。

 中世以降、本尊の十一面観世音菩薩を祈願し、この手水鉢で身を清めれば安産疑いなし、という言い伝えが生まれ、安産手水鉢と言われるようになったという。
安産手水鉢(2)
 左の写真は「大願塔」に向かう階段上から見た「安産手水鉢」である。この写真ではよくわからないが、現在では水が溜まることがないように底に近い位置に穴が開けられており、手水鉢の役割を果たしていない。
安産手水鉢(3)
 「安産手水鉢」を近くから見たのが左の写真である。手水鉢の底に近い側面、この写真で奥の短い側の壁面に排水用と思われる穴が開けられている。かつてはこの穴に塩ビのパイプが取り付けられていたが、今ではこのパイプは取り除かれている。
阿弥陀堂
 「安産手水鉢」が置かれている場所を西の方向に進むと「阿弥陀堂」(左の写真)が見える。

 「阿弥陀堂」の西側には信徒会館があり、その前を通って西に進むと広大な「中山寺梅林」に出る。ここは関西でも著名な梅林であり、梅が開花する季節になると観梅のために多くの観光客が訪れる。

 梅林を通ると「奥の院」までの参道が通じている。「奥の院」までの道程には急坂もあり、また、自然石を乱雑に積んだような石段のある場所もあり、歩行がかなり難しい個所があちこちにある。
奥の院(1)
 梅林から約2.5km北西に山道を進んだ場所に「奥の院」(左の写真)がある。上述したようにここまでの道程はかなり厳しい関係から、梅林から約50分を要した。

 「奥の院」は想像していたよりも新しい建物で、拝所や建物の一部が朱色に塗られており妙に派手であり、また、無人ではないようである。
奥の院(2)
 左の写真は正面から見た「奥の院」である。

 写真からもわかるように、「奥の院」という名称から、山の中にひっそりと建っている地味な古い無人の堂を想像していたものからは程遠い。

 なお、「奥の院」に関する写真、記事共に2001年8月の時点に見聞したものであり、現在(2016年)とは状況が異なっているかもしれない。

 梅林については上述したが、以下に5枚の「中山寺梅林」の写真を掲載する。
中山寺梅林(1)
中山寺梅林(2)
中山寺梅林(3)
中山寺梅林(4)
中山寺梅林(5)

御詠歌:野をもすぎ里をもゆきて中山の寺へ参るは後(のち)の世のため
 
最終更新日:2016年9月20日

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