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所在地及びアクセス:兵庫県宝塚市中山寺 阪急宝塚線中山駅下車。北の方向へ出て、数軒の土産物屋や食堂が軒を連ねる短い門前町を抜け、突き当たりを左折すると直ぐ中山寺山門前に着く。駅から山門まで徒歩約1〜2分。 宗派:真言宗中山寺派(大本山) 本尊:十一面観世音菩薩 開基:聖徳太子 |
![]() 縁起: 聖徳太子が四天王寺を建てるのに適した土地を探しているとき、太子に滅ぼされた物部守屋が悪鬼となって現れたが、太子は「菩薩様、私をお守り下さい」と祈ると悪鬼は退散した。その夜、仲哀天皇の妃、大仲津姫の「この地より北に紫の雲のたなびく地がありますので、その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」という声が聞こえた。このお告げに従い、聖徳太子は、推古天皇の代(600年頃)にこの寺を開創したという。 中山寺の創始に関しては、上記に類似した伝説が幾つかあるらしい。 聖徳太子によって滅ぼされた物部守屋の霊を鎮めるためと、仲哀天皇の妃、大仲津姫と二人の皇子、香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王の供養のために推古天皇の代(600年頃)に聖徳太子が開創した、という説が強いようである。 中山寺は平成7年1月17日の阪神大震災で、殆どの建物は大なり小なり被害を被ったが、その後復興に努め、平成9年10月10〜12日には開創1400年記念及び阪神大震災復興大法会が営まれた。 |
見所など: |
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アクセスの項に記載したように短い門前町を通り抜けると、直ぐに大きな「山門」(左の写真)に着く。 「山門」に安置されている仁王像を囲んでいる柵には奉納された多数の小さな「わらじ」が掛けられている。 昔の西国巡礼は長く苦しい旅であったが、それに自分の足腰が耐えられるよう祈りを込めて「わらじ」を奉納する慣わしがあったといわれており、その考えの基本が交通の発達した現在でも踏襲されているのであろう。 山門から石畳の参道が真っ直ぐ本堂に通じており、参道の両側には塔頭寺院が並んでいる。 |
山門から本堂までの間に階段が二ヶ所あり、最初の階段を上がったところ右手に、震災後新築された「五百羅漢堂」が建っている。以前の「五百羅漢堂」は阪神大震災により壊滅的な被害を受けたようである。 |
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本堂から山門までの間にある二ヶ所の石段の横にはエスカレーターが設置されている(左の写真)。 エスカレーターは震災後設置されたものであるが、震災前の中山寺を知る者にとって違和感がある。この寺に参拝する人々には妊婦、お宮参りの子供を抱いた両親などが多いので、たとえ短い階段であっても歩かないで済むように配慮した結果なのであろう。 |
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「山門」から真っ直ぐに続いている参道を行き着くと「本堂」がある(左の写真)。 聖徳太子が創建して以来、火災や戦火により堂宇はその度に焼失してきているようであるが、現在の本堂は、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって再建されたものであるとされており、桃山時代の代表的な仏堂建築であるという。 |
「本堂」は平成7年の阪神大震災の被害を殆ど被らなかったようである。 |
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中山寺は安産祈願の寺として有名であり、本堂左手前の隅に「安産祈祷受付」が設けられている(左の写真)。 ここで祈祷済みの腹帯とお守りを買い求める妊婦が跡を絶たない。出産後は新しい腹帯を買い、これを寺に納め、お礼参りする。この習慣は昔から脈々と続いている。 この寺の安産祈願は、豊臣秀吉がこの観音に祈って無事に秀頼を授かったことに始まるといわれている。 |
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「本堂」(左の写真:本堂正面近景)に祀られている本尊「木造十一面観世音菩薩立像」は女人済度を悲願としたインドの王妃、シュリマーラー(勝鬘夫人)が自らを彫った霊像といわれている。 両脇侍二体は後白河法皇の寄進によるとされている十一面観世音菩薩であり、本尊と共に十一面観世音菩薩が三体並んでいる珍しい形式といわれている。 本尊を含め上記三尊は秘仏になっているが、正月三ヶ日と毎月18日には開扉されているようである。 本尊の「木造十一面観世音菩薩立像」は重要文化財に指定されており、また、「本堂」は兵庫県文化財に指定されている。 |
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本堂左側の石段を上がった場所に「子授け地蔵」(左の写真)が建っている。 中山寺には上述のように安産祈願の参詣者が多いが、ひっそりと建っている小さな目立たない堂であっても、それなりの霊験を期待してか、この「子授け地蔵」にお詣りする人も多く見られる。尤も堂の大小と霊験の有無とは関係がないであろうが・・・。 |
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本堂前の石段下、「大黒堂」の横に「中山寺古墳」(左の写真)がある。 この古墳は仲哀天皇の妃、大仲津姫の墓という言い伝えがあるというが、古墳が建造されたのは6世紀後半とされているから、大仲津姫の墓とするには時代が合わない。一方、この地方に勢力を誇っていた豪族の墓とする説もあるようで、こちらの説の方が真実味があるのではないかと思われる。 |
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この「古墳」は横穴式石室で、羨道の奥の玄室には「石棺」が安置されている(左の写真)。石棺はくり抜き式家形で、その大きさは幅約1m、長さ約1.8m、高さ約1.2mとされている。 長谷寺を開き法起院に隠棲した徳道上人が仮死状態になったとき、冥土の閻魔大王から授かったという宝印を中山寺に埋めたという伝説がある(詳細は「西国番外、法起院」のページ参照)が、それによれば、その宝印を埋めたのがこの「石棺」の中といわれ、約270年後に花山法皇によって掘り出されるまで、この「石棺」の中で眠り続けたとされている。 花山法皇はこの宝印に基づき、西国三十三ヶ所を再興したとされているが、宝印がこの寺に埋められていたということから、かつて、この中山寺が西国霊場の第一番札所だったこともあるという。 |
この「中山寺古墳」は兵庫県文化財に指定されている。 |
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本堂の西側、阿弥陀堂の前には「安産手水鉢」(左の写真)が置かれている。 仲哀天皇の妃、大仲津姫が残した二人の皇子の内、香坂(かごさか)王は不慮の死をとげ、忍熊(おしくま)王は仲哀天皇の後の妃、神功皇后との戦いに敗れる。この「安産手水鉢」は忍熊王の遺体を納めた舟形石棺であるともいわれているが、伝説の域を出ないものと思われる。 中世以降、本尊の十一面観世音菩薩を祈願し、この手水鉢で身を清めれば安産疑いなし、という言い伝えが生まれ、安産手水鉢と言われるようになったという。ただ、写真に見られるとおり、現在では水が溜められておらず、手水鉢の役割を果たしていない。 |
雨水などが中に溜まらないようにするためか、「手水鉢」には塩ビ製の排水管のようなものが付けられている。貴重な考古資料といわれているものに何故、このような細工がなされたのだろうか。 |
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「本堂」前から左側(西側)に進むと、「阿弥陀堂」があり、更にその西側には「信徒会館」が建てられている。 「信徒会館」の西側から「奥の院」までの参道がついている。 「奥の院」までの道程には急坂もあり、また、歩行の難しい場所もある。左の写真は「奥の院」への参道の一部分であるが、自然石を乱雑に積んだような石段のある急坂で、このような歩きにくい場所があちこちにある。 「奥の院」までの参道には1町毎の町石が立てられており全部で18町あり、徒歩で約1時間の道程である。 |
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「奥の院」(左の写真)は想像していたよりも新しい建物で、拝所や建物の一部が朱色に塗られており妙に派手であり、また、住職も居るようである。 「奥の院」という名称から、山の中にひっそりと建っている地味な古い無人の堂を想像していたものからは程遠い。 |
御詠歌:野をもすぎ里をもゆきて中山の寺へ参るは後(のち)の世のため |
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Yukiyoshi Morimoto