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西国第二十一番
菩提山 穴太寺

(ぼだいさん あなおうじ)
所在地及びアクセス:

 京都府亀岡市曽我部町穴太東の辻

 JR山陰本線(嵯峨野線)亀岡駅下車、駅前のバス停「亀岡駅前」から京阪京都交通バス[34]又は[59]系統「穴太寺前(循環)」行きに乗車し「穴太寺前」で下車する。バス停から北の方向へ約100m直進すると穴太寺の仁王門に着く。

 「穴太寺(循環)」行きのバスは便数が少ないので、バスを下車してから穴太寺まで歩く距離は長くなるが、「亀岡駅前」から便数の多い[60]系統「京都学園大学」行きに乗車し、「穴太口」で下車してもよい。バス停から約600m西の方向に進み、次いで北の方向に右折した後、直進すると穴太寺の仁王門に着く。「穴太口」バス停から寺まで徒歩約10分。

 [34]又は[59]系統「穴太寺前(循環)」行きの「亀岡駅前」発時刻は8時〜18時の間について下表の通りである(2011年11月現在)。
 平  日  土曜日・休日
08 33* 33*
09    
10 00 00
11 00 00
12 00 00
13 00 00
14 00 00
15 00 00
16 00 53* 00 53*
17 34* 34*
*印:[59]系統、無印:[34]系統

 [60]系統「京都学園大学」行きの「亀岡駅前」発時刻は8時〜18時の間について下表の通りである(2011年11月現在)。「京都学園大学」行きのバスに[57]系統もあるが、「穴太口」には停車しないので利用できない。
平   日 土曜日・休日
08 13 26 44 59 13 26 44 59
09 19 32 53 19 32 53
10 09 32 53 09 32 53
11 08 32 53 08 32 53
12 08 32 53 08 32 53
13 08 32 53 08 32 53
14 08 32 53 08 32 53
15 08 32 53 08 32 53
16 08 32 53 08 32 53
17 09 34 50 09 34 50

宗派:天台宗

本尊:薬師如来、札所本尊聖観世音菩薩

開基:大伴古麿

縁起:
朱印
 この寺は慶雲年間(704〜708年)に大伴古麿によって開創されたと伝えられており、当初の本尊は薬師如来だったという。

 応和2年(962年)、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成が京都の仏師感世に聖観世音菩薩像の制作を依頼、造立したと伝えられているが、観世音菩薩像の造立は寛弘7年(1010年)であるという説もある。聖観世音菩薩像完成後、宮成が感世に礼(礼物は馬であったともいわれている)を渡したが、宮成はその礼物を渡すのが惜しくなり、京都に帰る仏師を待ち伏せして矢を射た。翌日、仏師感世が生きているのを知り、自分の放った矢が観世音菩薩像の胸に突き刺さっているのを見た宇治宮成は、自分の行いを悔い、仏門に入りその観世音菩薩像を本尊として祀ったという。

 これは、観音の功徳を説く説話と思われるが、以後、この寺は「身代わり観音」の寺として信仰を集めてきたのは事実であろう。

境内配置図:
境内配置図

見所など:
穴太寺遠望
 穴太寺の仁王門前から南の方向に真っ直ぐ道がついているが、この道のかなり南側からでも穴太寺を遠望することができる。

 穴太寺を遠望すると左の写真で見られるように二つの屋根が見えるが、手前の屋根は「仁王門」の屋根であり、その奥側に見る大きな屋根は「本堂」の屋根である。
仁王門
 穴太寺の「仁王門」(左の写真)は三叉路になった道の傍に面して建てられており、門の直前を車が通行するという、一寸珍しい場所にある。

 「仁王門」は17世紀中期頃の建造といわれ、柱には改造跡が見られる。当然のことかもしれないが柱などは上部に比べ、下部の方が汚れや傷みが激しい。

 「仁王門」は京都府の登録文化財に指定されている。
鐘楼
 「仁王門」をくぐると直ぐ右手に「鐘楼」(左の写真)が建っているのが見える。

 「鐘楼」は宝暦9年(1759年)の建立と言われ、一見簡素であり古色蒼然としており、古寺の鐘楼らしい佇まいを見せている。この写真は2008年に撮影したもので掲示は写っていないが、2011年参拝時の時点では『鐘を撞くのを遠慮してください』の掲示が目についた。自由に鐘を撞く人が多く、迷惑だったのかも知れない。

 この「鐘楼」は京都府の登録文化財になっている。
多宝塔
 「仁王門」をくぐって直ぐ左側に「多宝塔」(左の写真)が建っているのが見える。現存の「多宝塔」は文化元年(1804年)に建てられたものといわれており、亀岡市では唯一の木造塔であり、他の建造物と同様、古寺としての雰囲気によくとけ込んでいる。

 内部の須弥壇には釈迦如来と多宝如来の二体の仏像が安置されているようである。

 「多宝塔」は京都府の文化財に指定されている。
本堂正面
 「仁王門」をくぐると参道が真っ直ぐに伸びており、その先に「本堂」(左の写真)が見える。

 寺は何回かの火災にあっており、現存の本堂は享保20年(1735年)に上棟、再建されたものといわれている。
本堂正面近景
 左の写真は「本堂」正面である。「本堂」は再建後二百数十年を経過したといわれているがそれよりも遙かに長年経過しているように見える。正面近くから見た「本堂」は古寺の風格をよく醸し出している。

 「本堂」内陣の厨子の中には本尊の薬師如来と札所本尊の聖観世音菩薩が安置されている。本尊には本来の本尊と札所本尊の二尊がある。札所本尊聖観世音菩薩は縁起で言われている平安時代の本尊とは異なるようで、胸に矢の傷あとがつけられた模刻の仏像であるという。本尊の薬師如来は厳重な秘仏であり開帳されたことはないとされ、札所本尊聖観世音菩薩も秘仏であるが、三十三年ごとに開帳されるようである。いずれにしても両本尊共に直接の拝観は出来ない。

 聖観世音菩薩は昭和43年に盗難に遭い行方不明になっていると言われており、その後発見されたという話を聞かない。現在、本堂に安置されている聖観世音菩薩は模刻ということであるから、盗難に遭ったと言われている聖観音菩薩は未だ戻ってきていないと思われる。なお、もともとの聖観音菩薩像は重要文化財に指定されていた。

 「本堂」は京都府文化財に指定されている。
釈迦如来大涅槃像
 「本堂」内の右脇壇に、横たわった等身大の釈迦如来大涅槃像(左のコピー:穴太寺発行の参拝案内パンフレットより)が祀られている。この涅槃像は明治29年(1896年)に本堂の屋根裏で発見されたという。涅槃像を堂内に祀ると当時の住職と孫娘の病気が平癒したことにより、諸病厄除けの「なで仏」として多くの人に撫でられてきたようである。「なで仏」に類するような霊験のある仏像は「びんずる」という名で多くの寺に見ることが出来るが、ここの「なで仏」は特別なのだろう。寺の人は「ご利益がありますよ。お詣り下さい」と勧めてくれる。

 この涅槃像は十数年前までは写真撮影が可能であったが、現在では本堂内に移され撮影禁止になっている。

 「本堂」の西側に書院作りの建物「円応院」が建てられている。この「円応院」と「本堂」は渡り廊下でつながっている。
円応院西側の庭
 左の写真は「円応院」の西側、護摩堂に続く露地にあるである。
円応院から庭園を望む
 「円応院」の南側には庭園が広がっている。左の写真のように「円応院」の座敷南側に廊下(広縁)があり、そこに座って庭園を鑑賞している人々を多く見かける。
円応院南側の庭園
 左の写真は「円応院」の南側にある庭園である。

 この庭園は京都府指定名勝である。
念仏堂
 「本堂」の東側に納経所があるがその横に「念仏堂」(左の写真)が建てられている。ここには阿弥陀如来坐像が安置されているようである。

 「念仏堂」は宝永2年(1705年)に禅海によって建立された念仏道場である。禅海はここで念仏を広めたとされている。

 「念仏堂」は京都府登録文化財である。
宮成の墓
 「念仏堂」の南側に地蔵堂があり、更にその南側には「宇治宮成の墓」(左の写真)がある。

 縁起の項で述べたように説話では、宮成は当初、仏心のない人だったが、後に仏門に入り本尊を祀ったというから、宮成が実在の人物であるとすれば、穴太寺にとっては縁の深い人だったと思われる。そのような宮成の墓としては規模といい、場所といい冷遇されているような気がしてならない。特に墓の場所は目につきにくい所にある。

御詠歌:かかる世に生まれあう身のあな憂(う)やと思わで頼め十声(とこえ)一声

最終更新:2011年11月16日
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