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所在地及びアクセス: 京都市西京区大原野小塩町 |
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阪急京都線「東向日」下車。駅前にある阪急バス「阪急東向日」バス停から[66]「善峯寺」行きに乗車し、終点の「善峯寺」で下車する。バス停から寺の山門までかなり急な石段を上る。 1月6日〜2月末日まではバスは「善峯寺」まで運行せず、全て「小塩(おしお)」行きとなるので上記期間は終点「小塩」で下車し、「小塩」から善峯寺まで歩くことになる(小塩バス停から善峯寺まで徒歩30〜40分)。 |
「阪急東向日」バス停発「善峯寺」行きバス発車時刻は次の通り(2006年2月現在)。 |
時 | 平 日 | 土曜日 | 日曜・祝日 |
09 | 16 | 20 | 20 |
10 | 45* | 20 | 20 |
11 | -- | 20 | 20 |
12 | 21 | 20 | 20 |
13 | 05* | 05 | 05 |
14 | 31 | 05 | 05 |
15 | 16* 51 | 05 | 05 |
16 | 05 | 05 |
1月6日〜2月末の間は全便「小塩」まで。「小塩」から「善峯寺」の間は運休。 *) 4月1日〜4月20日、6月10日〜7月10日、11月10日〜11月30日の間季節臨時便として追加運行。 |
宗派:天台宗 本尊:十一面千手観世音菩薩 開基:源算上人 縁起: |
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比叡山の僧源算が長元2年(1029年)にこの地に小堂を建て、十一面千手観世音菩薩像を刻み本尊としたのが当寺の開創と伝えられている。源算47歳の時という。 長元7年(1034年)に後一条天皇から善峯寺の寺号を賜り、鎮護国家の勅願所と定められた。以後、天皇の崇敬篤く、長久3年(1042年)には後朱雀天皇が鷲尾寺の十一面千手観世音菩薩像をここに移し、本尊として祀り、先の観世音菩薩像を脇立とされたといわれている。 鎌倉時代には慈円大僧正や浄土宗西山派の祖、証空上人が、また、青蓮院の宮様が代々当寺の住職をされたので西山宮門跡と称されたという。 白河天皇が諸堂を建設し、後に、後花園天皇が伽藍を改築、大いに栄えたが、応仁の乱により、これら全てを焼失したようである。その後、元禄年間に徳川五代将軍綱吉の生母、桂昌院の寄進により寺は復興したとされている。 |
境内諸堂配置: |
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左の図(善峯寺発行の境内参拝順路案内図を基に作成)は善峯寺境内の諸堂配置略図である。青色の線は参拝順路を表す。 |
見所など: |
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かなり急勾配の石段の参道を上がると、大きな「山門(仁王門)」(左の写真)が眼前に現れる。山門前の広場は「山門」の大きさに比べ狭小であり、通常のカメラで「山門」の全体像を捉えるのは困難である。 「山門」の大きさに若干驚かされるが、それよりも見た感じ非常に複雑な造りであり、これが特異な感じを醸し出している。 現存の山門は元禄5年(1692年)桂昌院によって再建されたものといわれ、山門両脇の金剛力士像は運慶の作という。 |
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「山門」の通り口右側に『西山宮門跡』の標示(左の写真)が見られる。 縁起の項にも一部記載したが、承久の乱が起こったとき、後鳥羽上皇の皇子道覚法親王が避難したのがきっかけとなり、それ以後、青蓮院の宮様である慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寶、尊証の各法親王が歴代の住職となった関係から、この寺が「西山の宮」といわれるようになったとされている。山門の標示「西山宮門跡」がそれを表している。 |
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「山門」を裏側から見たのが左の写真である。裏側からの方が「山門」の全体像を把握しやすい。 |
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山門をくぐり奥に進み、石段を上がると「観音堂(本堂)」(左の写真)の前に出る。 現存の「観音堂」は元禄5年(1692年)に再建されたものといわれている。 |
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左の写真は「観音堂」正面の拝所である。 この奥に安置されている本尊、千手観世音菩薩は仁弘法師の作とされ、脇立の千手観世音菩薩は源算上人の作という。何故、開基である源算上人の作とされる仏像が本尊にならず脇侍になったのか、これはおそらく後朱雀天皇の意向によるものであろう。 |
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それにしても源算上人の作とされている千手観世音菩薩像は応仁の乱にも焼失せず約千年も生き残ったことになるが、何故か文化財の指定がないのである。 左の写真は「観音堂」の右手の石段を上がったところから見た「観音堂」である。 |
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左の写真は「つりがね堂」である。 この「つりがね堂」は貞享2年(1685年)の建立とされ、桂昌院が徳川綱吉の厄除けのため寄進されたことから、厄除けの鐘といわれている。 |
「つりがね堂」の北側に「護摩堂」が建てられており、その前の短い石段を上がると「遊龍の松」(下の4枚の写真)がある。この「遊龍の松」は天然記念物に指定されている五葉松であり、善峰寺は別名「松の寺」と言われているのは、この遊龍の松によっているらしい。善峰寺を有名にしている要因の一つは遊龍の松にあると言えるようである。 「遊龍の松」の樹齢は約600年とされているが、全伽藍が焼失したとされる応仁の乱(1467-77年)でも被害を受けなかったのであろうか。 |
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左の写真は「遊龍の松」の株の部分で、写真中央やや右側の傘状に刈り込まれたところに株がある。株から左側(北側)は数mの位置で松の木が切り取られているのがわかる。平成6年以前は株から十数m程左側(北側)に延びていたが、松食い虫のために枯れ、切り取られた。 |
天然記念物に指定されている松が、松食い虫の被害に遭うというのは、信じがたいものがある。消毒など適切なケアーが行われていなかったのではないかと思われる。それとも、殺虫という殺生を避けたのであろうか。 |
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左の写真は地表1m程の高さで西側に延びている部分の「遊龍の松」で、その長さは約40mに及んでいる。写真左端に「遊龍の松」の株部分が見える。 |
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左の写真は西側に延びている「遊龍の松」の先端の部分である。この先端の部分は「経堂」のところまで延びている。写真左端上部にわずかに見られるのは「経堂」の屋根である。 |
直下の写真は西側に向かって延びている「遊龍の松」を株に近い場所から西側の方向に見た写真である。 |
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「遊龍の松」の傍に「多宝塔」(左の写真)が建てられている。 現存の「多宝塔」は元和7年(1621年)に賢弘法師によって再建されたものといわれている。 多宝塔は重要文化財に指定されている。 |
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「遊龍の松」の前を北側に進むと「開山堂」(左の写真)が見える。 「開山堂」は元禄5年(1692年)の建立で、当寺の開基、源算上人が祀られている。祀られている像は上人が117歳の時の姿という。今の時代から考えても恐ろしく長寿である。117歳というのはおそらく伝説であろう。 |
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「開山堂」横を通り、一寸した坂を上り多宝塔の北側に当たる小高い場所に出ると、善峰寺の再興に力を尽くした「桂昌院廟」(左の写真)が建てられている。 この廟には宝永2年(1705年)6月に79歳で他界した桂昌院の遺髪が納められているという。源算上人ほどでないにしても、桂昌院も当時としては長命である。 |
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「桂昌院廟」に来た道を引き返し西に方向に進むと「十三仏堂」の前に出る。秋にはこの場所から見た紅葉が見事である。 紅葉の季節には「十三仏堂」前から南側の下方、紅葉の木の間に「経堂」(左の写真)が見え隠れする。 |
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「十三仏堂」の前を西に進むと、やや高い場所に「釈迦堂」(左の写真)が見える。 釈迦岳に安置されていた源算上人作の釈迦如来像が、当時の住職の夢枕に立ち、釈迦岳から下ろしてくれるように頼んだという。この釈迦如来像を祀るため、明治18年(1885年)にこの釈迦堂が建てられたようである。 |
「釈迦堂」に近接して北側に「薬湯場」がある。当山でとれる百草湯で、5月と10月の第2日曜日には薬湯風呂に入浴可能らしい。神経痛、腰痛をはじめ諸病に効果があるという。 |
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「釈迦堂」の横、南側を通り更に坂を上がると「奥の院薬師堂」(左の写真)に着く。 この「薬師堂」は元禄14年(1701年)の建立で、桂昌院の両親が祈願したという出世薬師仏を祀っている。 |
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「薬師堂」の裏側(南側)に「蓮華寿院庭」(左の写真)がある。ここは、歴代の法親王が住職をしていた西山宮、蓮華寿院のあった場所といわれている。 |
「薬師堂」や「蓮華寿院庭」のある場所は善峰寺の境内で最も高いところであり、天候がよければ京都市内まで望むことができる。 |
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「蓮華寿院庭」の西北側木立の中、若干小高い場所に宮内庁管轄の「青蓮院の宮廟(法親王廟)」(左の写真)がある。 写真はその一部であるが、三柱の墓石が見える。中央の墓石には『慈道法親王御墓』、右側には『尊道法親王御墓』の文字が彫られているのがわかる。 |
上述した通り、かつて法親王が当寺の住職を務められたことから、これら法親王廟がこの場所に設けられている。ただ、写真でもわかるように廟としては極めて簡素である。 |
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「法親王廟」から坂を下り「青蓮の滝」の傍を通り、更に坂を下ると「阿弥陀堂」(左の写真)の前に出る。 「阿弥陀堂」は寛文13年(1673年)の建立で本尊として宝冠阿弥陀如来を祀っている。ここは常行三昧の道場としても使われていることから「常行堂」とも呼ばれている。 |
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「阿弥陀堂」の前から左の写真のような「参道」がつけられている。写真の参道奥に小さく見える建物が「阿弥陀堂」である。 この参道の入口には写真に見られるように『善峯寺歴代親王廟』と彫られた石柱が建てられている。直接「法親王廟」に訪れるためにはこの参道を通るのが近道になるので、このような表示の石柱が建てられているのであろう。それともこれが法親王廟への正式な参道になるのであろうか。 ここをすぎると「遊龍の松」が見える場所まで直ぐである。 |
御詠歌:野おもすぎ山路に向かう雨の空善峯よりも晴るる夕立 |
2006年2月2日最終更新 |
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Yukiyoshi Morimoto