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所在地及びアクセス: 京都市東山区五条通大和大路上ル東 |
JR「京都」駅下車。京都駅から京都市バス[206]系統(東山通・北大路バスターミナル行き)に乗車し、「清水道」で下車する。松原通を西の方向に約300m進み、左折し数10mで六波羅蜜寺に着く。バス停から徒歩約10分。 京阪電車「五条」駅下車。地上に出て五条通(国道1号線)を東の方向に約300m進み、国道1号線に架かる陸橋傍で北の方向に曲がり、大和大路通を約150m進むとやや広い通り(柿町通:六波羅裏門通)と交差する。六波羅蜜寺への標識に従って、右折(東の方向)し約150m進むと六波羅蜜寺に着く。駅から徒歩約15分。 |
206系統「東山通・北大路バスターミナル行き」バスの「京都駅前」発予定時刻(8時〜18時の間について)は次の通り(平成21年3月28日改正。平成21年11月現在)。 |
時 | 平 日*) | 土 曜 日*) | 休 日#) |
08 | 03 11 14 17 24 31 38 45 52 | 09 20 33 48 | 09 20 33 48 |
09 | 00 08 16 23 31 38 45 53 | 03 18 33 39 45 53 | 03 18 33 39 45 53 |
10 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
11 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
12 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
13 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
14 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
15 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
16 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
17 | 00 12 21 31 42 51 | 00 08 15 23 30 38 45 53 | 00 08 15 23 30 38 45 53 |
*)お盆・年末年始を除く #)お盆(8月14日〜8月16日)及び年末年始(12月29日〜1月4日)を含む |
バスの時刻は時々改訂されますが、運行便数が多いので発車時刻を気にする必要がないと思います。正確を期する際は京都市交通局のホームページなどで確認して下さい。 |
宗派:真言宗智山派 本尊:十一面観世音菩薩 開基:空也上人 縁起: |
![]() 醍醐天皇の第二皇子光勝空也上人は、当時京都で流行していた悪病を退散させるため、十一面観世音菩薩を刻み、天暦5年(951年)に堂を建て、この観音像を祀ったとされ、これがこの寺の創始と伝えられている。 その後、上人を慕う人々が増え、村上天皇の勅命により堂宇の建設がはじまり、応和3年(963年)には当時の名僧600人を請じ、諸堂の落慶供養を盛大に営んだという。当時は寺域も広く、平清盛をはじめ平氏の邸館や鎌倉幕府の探題も置かれ、源平盛衰の史跡の中心だったようである。 当初、この寺は西光寺と呼ばれていたが、貞元2年(977年)空也上人の没後、空也の高弟中信が伽藍を整備、六波羅蜜寺に改めたとされている。 源平の争乱後も幾たびか兵火に遭い、そのたびに修復されてきたが、明治以降荒廃し寺域も小さくなった。昭和44年(1969年)には本堂が改修され、かつての華やかさを偲ぶことができる。 |
六波羅蜜寺境内堂宇配置 |
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見所など: |
![]() 「六波羅蜜寺」は町の中にあり、一般の民家が寺の傍まで迫っており、車の往来する道路も寺に近接している。従って、ここには普通よく見られるような山門もない。 左の写真は本堂正面の「鉄門」である。写真奥に写っている建物は「本堂」である。10年ほど以前にここにあった門は非常に粗末なものだった。いずれにしても山門という感じはしない。この門は通常、閉められており、境内への入口はこの門の南側に設けられている。 |
![]() 「鉄門」南側にある入口から境内に入ると、左手に受付があり、正面には「弁天社」が見える。左の写真は「弁天社」を本堂側から見たものである。 古くから弁財天の祈願所と定められており、都七福神の一つである。 |
![]() 境内へ入って直ぐ右手に「一願石」(左の写真)がある。 写真でもわかるとおり六波羅蜜寺と書かれた石柱に回転する石の円盤がつけれれており、その円盤に書かれた幾つかの梵字の内、一字だけが金色で書かれている。金色の文字を正面にして、三回手前に回してお願いすると一つだけ願いが叶うという。 |
![]() 「一願石」に近接して西側に「十一面観音菩薩像」(左の写真)が置かれている。 空也上人が自ら刻んだ十一面観音菩薩像を車に積んで市中を回って歩いたと言われているが、その十一面観音菩薩像を模して作られたのがこの銅像である。 写真で銅像の右側に見えているのが「灯籠」であり、銅像背後に見える建物は「本堂」である。 |
![]() 「灯籠」の西側、「本堂」に近接して「阿古屋塚」(左の写真)がある。 この塚はかつて五条坂に住んでいた遊女「阿古屋」の菩提を弔うために鎌倉時代に建てられたもので、下の台は石棺の石蓋といわれている。 阿古屋については浄瑠璃『阿古屋の琴責め』で次のようにかたられているという。 平家の残党である景清の行方を探すため、代官畠山重忠は景清の恋人である遊女阿古屋を捕らえる。阿古屋は景清の所在を知っていたが、阿古屋が弾かせられた三味線や琴の調べに一点の乱れもなかったことに畠山重忠は感動し、彼女は釈放される。 |
![]() 「阿古屋塚」に近接して、その西側に「平清盛公乃塚」(左の写真)がある。 平安時代後期に平忠盛の軍勢が当寺内の塔頭にとどまって以来、清盛、重盛の代には平家一門の館が数多く建てられたといわれており、寿永2年(1183年)の平家没落まで繁栄が続いたとされている。 以上のような経緯から、当寺に重要文化財に指定されている「平清盛坐像」があり(後述する)、「平清盛公乃塚」があるのもそれなりに理解ができるが、それにしても隣にある遊女「阿古屋」の塚と単に大きさを比べても優位ではないのは何故かよくわからない。 |
![]() 「弁天社」と「本堂」の間「阿古屋塚」、「平清盛公乃塚」の前を西の方に向かうと塀の前に左の写真に見られるように小さい「地蔵」が沢山祀られているのが見える。 これらの小さな「地蔵」は境内から発掘されたものらしい。 |
![]() 左の写真は「地蔵」を近くで撮影したものであるが、写真でもわかるようにかなり風化が激しく、石仏であることが認識できる程度になってしまっている。 |
![]() 小さい「地蔵」が沢山祀られている左手に左の写真に見られるような「地蔵尊」が安置されている。 この六波羅蜜寺には重要文化財に指定されている地蔵菩薩坐像や地蔵菩薩立像が、また、地蔵菩薩図が所蔵されている。地蔵菩薩は六道に迷える人々に代わって苦しみを引き受ける仏とされており、冥土への入り口とされている六道の辻に近い六波羅蜜寺は地蔵菩薩に対する信仰も特別に篤いようである。この場所に地蔵尊が祀られていることも地蔵菩薩信仰と無関係ではないものと思われる。 |
![]() 左の写真で「十一面観音像」の背後に見えるのが「本堂」である。「本堂」は道路に面し、道路際に設けられている鉄柵近くに建てられている。 現存の本堂は貞治2年(1363年)に建てられたものとされており、明治以後荒廃していたが、昭和44年(1969年)に開創千年を記念し解体修理され、朱色も鮮やかになっている。 「本堂」は重要文化財に指定されている。 |
![]() 左の写真は「本堂」の正面近景である。ここの内陣に空也上人自身が刻んだと伝えられている本尊「十一面観世音菩薩」が安置されている。本尊は秘仏であるが、12年毎の辰年に開扉されるようである。 本尊「十一面観世音菩薩像」は国宝に指定されている。 |
![]() 左の写真は「本堂」軒下の飾り彫刻である。 飾りは奇麗であるが、見た目には深みが足りないような感じがしないでもない。 |
![]() 左の写真も「本堂」軒下の飾り彫刻であり、柱の上部にみられるものである。見た目に深みが足りないように感じられるのは、この装飾が本堂改修に伴い再彩色されてから、そう時日が経過していないからではなかろうか。 |
六波羅蜜寺は藤原、鎌倉期の文化財の宝庫といわれており、国宝、重要文化財に指定されている仏像として次の諸仏が所蔵されている。 |
十一面観音立像 | 藤原時代・国宝 | 秘仏・本尊で本堂に安置されている |
薬師如来坐像 | 藤原時代・重要文化財 | 寺の創始時期の仏像、本尊に次ぐ古像 |
地蔵菩薩坐像 | 鎌倉時代・重要文化財 | 運慶・湛慶親子の合作とされている |
地蔵菩薩立像 | 藤原時代・重要文化財 | 今昔物語にもある由緒ある像、定朝の作か? |
平清盛坐像 | 鎌倉時代・重要文化財 | 清盛の強い個性がよく出ていると言われている |
空也上人立像 | 鎌倉時代・重要文化財 | 運慶の四男康勝の作、伝承のままに製作されている |
多聞天立像 | 藤原時代・重要文化財 | |
広目天立像 | 藤原時代・重要文化財 | |
持国天立像 | 藤原時代・重要文化財 | |
増長天立像 | 藤原時代・重要文化財 | |
弘法大師坐像 | 鎌倉時代・重要文化財 | |
閻魔大王像 | 鎌倉時代・重要文化財 | |
吉祥天立像 | 鎌倉時代・重要文化財 | |
運慶坐像 | 鎌倉時代・重要文化財 | 仏像彫刻の世界で特に著名な運慶の像 |
湛慶坐像 | 鎌倉時代・重要文化財 | 父運慶と同様著名な湛慶(運慶の長男)の像 |
これら仏像は本尊を除き本堂の裏手にある宝物館に所蔵されている。宝物館所蔵の文化財は是非拝観見学しておきたい。 |
![]() 宝物館に所蔵され重要文化財に指定されている木像の中で最も強く印象に残ったのは、「空也上人立像」(左のコピー:六波羅蜜寺発行のパンフレットより)であろう。 空也上人は自ら刻んだ十一面観世音菩薩を車に安置して市中を曳き廻り、梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病人に与え、念仏を唱えて病魔を鎮めたという。上人は市民の中に入り伝道に励むのを常としていたようである。 手に撞木と鹿の角を付けた杖を持ち、草鞋を履いた空也上人像は正に市中の清貧な僧侶の姿であり、権勢を誇り民衆の上に立っていた当時の僧侶の姿は微塵も感じられない。また、念仏を唱える口からは六体の阿弥陀仏が現れたという伝承も木像に表現されているが、これが空也上人の神秘性を高めるのに独特の効果をもたらしている。 空也上人像の作者、運慶の四男康勝は意図的にこのような像を刻んだのかもしれないが、空也上人の実像はこの木像から受ける印象と大きく変わっていたとは思いたくない。 |
当寺には以上の他に、昭和44年(1969年)に解体修理した際に出土した「泥塔」、「皇服茶碗」など重要有形民俗文化財が所蔵されている。 |
御詠歌:重くとも五つの罪はよもあらじ六波羅堂へ参る身なれば |
2009年11月17日最終更新 |
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