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西国第十五番
新那智山 観音寺(今熊野観音寺)
(しんなちさん かんのんじ(いまくまのかんのんじ))
所在地及びアクセス:

 京都市東山区泉涌寺山内町
観音寺所在地図
 JR奈良線「東福寺」駅又は京阪本線「東福寺」駅下車。改札口を出て駅南側にある高架道路に沿って東の方向に進み、京都第一日赤病院の前を通り、泉涌寺道交差点で右折し、東の方向へ道なりに「今熊野観音寺」への道筋を示す標識に従って進む。「東福寺」駅から徒歩約25分。
 JR「京都」駅前から京都市バス([208]系統「東福寺・九条車庫」行き)に乗車し「泉涌寺道」バス停で下車すると、JRや京阪電車を利用する場合よりも歩く距離は短くなるが、バスの運行頻度、乗車時間などからみて、JR又は京阪電車を利用する方がよい。

宗派:真言宗泉涌寺派

本尊:十一面観世音菩薩

開基:弘法大師空海

縁起:

朱印
 弘仁年間(825年頃)に弘法大師が熊野権現の化身から観音霊地の霊示を受け、嵯峨天皇の勅願により観音像を刻んで本尊とし草堂に安置したのが当寺の創始といわれている。また、斉衡年間(854〜857年)に左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したとも伝えられている。

 後白河法皇は本尊を深く信仰し、霊験により持病の頭痛が平癒したので、本寺に「新那智山・今熊野」の名称を与えられ、以来、頭痛、中風、厄除けの観音として繁栄してきたという。

 文暦元年(1234年)に後白河上皇を当寺に葬るなど、歴代朝廷の崇敬をあつめているようである。

 現在、この観音寺は泉涌寺の塔頭であるが、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺だったという。

 なお、本寺は「観音寺」の名称よりも、一般には「今熊野」や「今熊野観音」の呼び名の方で親しまれている。

見所など:
参道
 参道を進むと朱塗りの「鳥居橋」と『今熊野観音寺』と刻まれた石柱があり(左の写真)、ここから奥が観音寺の境内になっているように思われるが、通常の寺院に見られるような山門がない。

 泉涌寺には立派な山門があるので、その塔頭である本寺には山門がなくてもいいのかも知れない。
子まもり大師
 朱塗りの「鳥居橋」を渡って木立の間を通り抜け境内を奥に進むと、先ず目につくのは「子まもり大師」像である。

 像は観音寺の開基である弘法大師の姿であろうと思われるが、確なことはわからない。

 像の傍には何本かの杖が置かれている。この杖を手にして像の周りを回っている人が多い。
本堂
 「子まもり大師」の後ろの石段を上がると「本堂」(左の写真)の前に出る。

 寺の規模に比べて本堂は二重屋根の堂々とした造りであり、かつての大寺の雰囲気を漂わせている。

 本堂の厨子内に安置されている「本尊」は弘法大師の作と伝えられている。

 観音寺は「頭の観音」といわれているように、「ぼけ封じ祈願」の寺としてよく知られており、本堂の左手に「ぼけ封じ」のための物品を販売している場所がある。
大師堂
 参拝に訪れた年輩者は「ぼけ封じ祈祷済み枕カバー」を競って買い求めている。勿論、これを買うだけでぼけないという保証はどこにもないということを理解しているのであるが、ここで買わないと、ぼけが早く来そうな気がするそうである。

 本堂に向かって右手には弘法大師を祀っている「大師堂」(左の写真)があり、入口階段横には「ぼけ封じ観音」(左の写真)が建てられている。観音寺を訪れた人は必ずといっていいほど、ぼけ封じのため「大師堂」と「ぼけ封じ観音」にお詣りをする。
小石仏群
 「大師堂」入り口前の石段の前、「ぼけ封じ観音」の傍には左の写真に見られるように幸せそうな表情をした「お年寄りの姿をした小さな石像」が多数置かれており、石像の腹部には『ぼけ封じ』と云う文字に加え名前が書かれている。

 これらは、おそらく、信者によって奉納されたものであろうと思われる。
三重石塔
 「本堂」前の広場、ぼけ封じの品物を売っている場所の左手の片隅に古ぼけた「三重石塔」(左の写真)がある。

 この「三重石塔」は平安時代の作といわれているが、単に古いというだけなのか文化財としての指定はないようある。

 なお、本堂前の広場の端に有名な「五色かえで」の木があり、秋には見事な紅葉を見せるようである。
五智水
 弘法大師がこの地に観音寺を創始したとき、大師が錫杖で岩を突くと、水が湧き出したと伝えられている。これを「五智水」(左の写真)といい、本堂の前にあり、今でも水が湧いているという。

 五智水の湧いている井戸はコンクリートで造られているのはいいとしても、水道の蛇口が付けられていて、蛇口をひねると五智水が出てくるようになっている。
五智水の話は伝説であるとしても、この辺のセンスはもう一つであり、何とも胡散臭くなってしまっている。
医聖堂
 本堂の前から見て、右側の山の斜面に朱塗りの多宝塔(左の写真)が見える。昭和59年に完成したとのことで見た目にも新しい。

 この塔は「医聖堂」と呼ばれ、日本の医学の発展に貢献した人々を祀っており、奈良・平安時代から江戸時代までの122人の医家の氏名が刻まれた碑が塔の傍に建てられている。明治以降の医家の氏名は刻まれていない。

 122人の中には貝原益軒、前野良沢、杉田玄白、華岡青州、高野長英、緒方洪庵など一般によく知られている人の氏名も見ることができる。
医心方記念碑
 「医聖堂」の傍に「医心方記念碑」(左の写真)がある。

 「医心方」三十巻は日本の医学の源流を示す現存最古の医学書で貴重な文化遺産とされており、平安時代の医家である丹波康頼(912〜995年)によって撰述されたといわれている。

 「医心方」は永観2年(984年)に朝廷に献納されたと伝えられており、その一千年後にあたる昭和59年(1984年)に康頼の偉業をたたえ、この記念石碑が建てられたとされている。

御詠歌:昔より立つとも知らぬ今熊野ほとけの誓いあらたなりけり
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Yukiyoshi Morimoto