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西国第十五番
新那智山 観音寺(今熊野観音寺)
(しんなちさん かんのんじ(いまくまのかんのんじ))
所在地及びアクセス:

 京都市東山区泉涌寺山内町32

 JR奈良線「東福寺」駅又は京阪本線「東福寺」駅下車。改札口を出て駅南側にある高架道路に沿って東の方向に進み、東大路通(143号線)に出て、京都第一日赤病院の前を通り、泉涌寺道交差点で右折する。東の方向へ道なりに「今熊野観音寺」への道筋を示す標識に従って進む。「東福寺」駅から徒歩約20分。
 JR「京都」駅前から京都市バス([208]系統「東福寺・九条車庫」行き)に乗車し「泉涌寺道」バス停で下車すると、JRや京阪電車を利用する場合よりも歩く距離は短くなるが、バスの運行頻度、乗車時間などからみて、JR又は京阪電車を利用する方がよい。

宗派:真言宗泉涌寺派

本尊:十一面観世音菩薩

開基:弘法大師空海

縁起:
朱印
 弘仁年間(825年頃)に弘法大師が熊野権現の化身から観音霊地の霊示を受け、嵯峨天皇の勅願により観音像を刻んで本尊とし草堂に安置したのが当寺の創始といわれている。

 後白河法皇は本尊を深く信仰し、霊験により持病の頭痛が平癒したので、本寺に「新那智山・今熊野」の名称を与えられ、以来、頭痛、中風、厄除けの観音として繁栄してきたという。文暦元年(1234年)に後白河上皇を当寺に葬るなど、歴代朝廷の崇敬をあつめている。

 現在、この観音寺は泉涌寺の塔頭であるが、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺だったという。

 なお、本寺は「観音寺」の名称よりも、一般には「今熊野」や「今熊野観音」の呼び名の方で親しまれている。

境内地図:
境内諸堂配置図

見所など:
観音寺への道ー鳥居橋
 参道を進むと朱塗りの「鳥居橋」(左の写真)があり、橋の傍に『今熊野観音寺』と刻まれた石柱が立てられているのが見える。ここから奥が観音寺の境内になっているように思われるが、通常の寺院に見られるような山門がない。観音寺は泉涌寺の塔頭であり、そのため山門が設けられていないのかも知れない。
参道の杉並木
 鳥居橋を渡って奥に進むと、左の写真に見られるように参道傍には杉並木が続いており、荘厳な雰囲気を醸し出している。
子護大師像
 杉並木の傍の参道を通り抜け境内を奥に進むと、先ず目につくのは「子護大師像」(左の写真)である。像は観音寺の開基である弘法大師の姿であろうと思われる。

 「子護大師像」の周りには砂が敷き詰められた場所が設けられており、そこには『南無大師遍照金剛と唱えながら四国八十八箇所のお砂を踏んでお大師様を廻って下さい』と書かれた札が立てられ、何本かの杖が置かれている。この像の周りの砂を敷き詰めた所を廻っている人をしばしば見かける。
本堂
 「子護大師像」の後ろの石段を上がると「本堂」(左の写真)の前に出る。

 「本堂」は正徳2年(1712年)に宗恕祖元律師によって建立されたものといわれており、寺の規模に比べ二重屋根の堂々とした造りで、かつての大寺の雰囲気を漂わせている。

 「本堂」の厨子内に祀られている本尊、十一面観世音菩薩は弘法大師によって彫られたものと伝えられているが、秘仏であり直接拝観することはは出来ない。本尊と同じ姿をしているお前立ちと言われる仏像が厨子の前に立たれているので、それを拝観することが出来る。
 
 観音寺は「頭の観音」といわれているように、「ぼけ封じ祈願」の寺としてよく知られており、本堂の左手に「ぼけ封じ」のための物品を販売している場所がある。参拝に訪れた年輩者は「ぼけ封じ祈祷済み枕カバー」を買い求めている。勿論、これを買うだけでぼけないという保証はどこにもないということを理解しているのであるが、ここで買わないと、呆けが早く来そうな気がするそうである。
大師堂
 本堂前の広場の東端に当山を開創した弘法大師を祀っている「大師堂」(左の写真)があり、その入口階段横には「ぼけ封じ観音」が建てられている。「大師堂」では護摩の修法が行われ、修行僧の修行道場として使用されているという。
ぼけ封じ観音
 左の写真は「大師堂」前に建てられている「ぼけ封じ観音」である。

 観音寺を訪れた人は必ずといっていいほど、「大師堂」とともに、この「ぼけ封じ観音」にお詣りする。
ぼけ封じ石仏
 「ぼけ封じ観音」の台座の近には多数の「身代わり石仏」(左の写真)が置かれている。

 お参りに訪れた人々の多くは、ぼけ封じの願いを込めて「身代わり石仏」を奉納する。奉納された「身代わり石仏」は本堂で祈祷を受け、この場所に奉安される。石仏の腹部には『ぼけ封じ』と云う文字に加え奉納者の名前が書かれているものもある。
三重石塔
 「本堂」前の広場、ぼけ封じの品物を売っている場所の左手の片隅に古ぼけた「三重石塔」(左の写真)がある。

 この「三重石塔」は平安時代、当寺創建時の作らしいが、単に古いというだけなのか文化財としての指定はないようある。
五智水
 弘法大師がこの地に観音寺を創始したとき、大師が錫杖で岩を突くと、水が湧き出したと伝えられている。これを「五智水」と呼んでおり、今でも涌き続けているいるが、この水源は鐘楼の南側の山際にある。この水を「本堂」前の広場南側にある井戸で汲めるようにしたのが、左の写真の「五智水」であり、この水は深き恵みを与えてくれるという。

 井戸はコンクリートで造られているのはいいとしても、水道の蛇口が付けられていて、蛇口をひねると五智水が出てくるようになっている。五智水の話は伝説であるとしても、この辺のセンスはもう一つであろう。
霊光殿
 「本堂」の東北側やや奥まった場所に「霊光殿」(左の写真)がある。これは当山信徒のための納骨堂であるが、宗旨を問わず納骨を受け付けているようである。
医聖堂
 「本堂」の前から見て、右側(東北側)の山の斜面に左の写真に見られるような朱塗りの多宝塔が見える。この塔は昭和59年(1984年)に完成したとのことである。

 この塔は「医聖堂」と呼ばれ、日本の医学の発展に貢献した人々を祀っている。その他、当山檀家信徒の特別納骨も行っているようである。
医聖位の氏名碑
 「医聖堂」の傍、東側に左の写真のような医家の氏名が彫られた石碑が置かれている。当初、奈良・平安時代から江戸時代までの122人の医家の氏名が刻まれた碑一個が置かれていたのであるが、その後、明治以降の医家の名前が刻まれた碑が追加されている。

 122人の中には貝原益軒、前野良沢、杉田玄白、華岡青州、高野長英、緒方洪庵など一般によく知られている人の氏名も見ることができる。
医心方石碑
 「医聖堂」の近く西側に「医心方記念碑」(左の写真)が建てられている。

 「医心方」三十巻は日本の医学の源流を示す現存最古の医学書で貴重な文化遺産とされており、平安時代の医家である丹波康頼(912〜995年)によって撰述され、永観2年(984年)に朝廷に献納されたと伝えられている。その一千年後にあたる昭和59年(1984年)に康頼の偉業をたたえ、この記念石碑が建てられたようである。

御詠歌:昔より立つとも知らぬ今熊野ほとけの誓いあらたなりけり

2010年5月23日最終更新
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