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西国第六番
壷阪山 南法華寺(壺阪寺)

(つぼさかさん みなみほっけじ(つぼさかでら))
所在地及びアクセス:

 奈良県高市郡高取町壷阪

 近鉄吉野線「壷阪山」駅下車。駅前から、奈良交通バス「壺阪寺前」行きに乗車し、終点の「壺阪寺前」で下車する。バス乗車時間約15分。
 12月〜2月の冬期期間のバス運行頻度は極端に少ないので、この期間中、路線バスは事実上利用できないと考えた方がよい。
 上り坂を道なりに進むと左手に南法華寺(壺阪寺)に向かって坂を下りる歩道が見えるので、坂を下ると寺への入山料を支払う受付がある。バス停から受付まで徒歩約10分。

 壷阪山駅発のバス時刻(往路)及び壺阪寺前発のバス時刻(復路)は次の通り(2009年2月現在)。
   壷阪山駅発壺阪寺前行(往路) 壺阪寺前発壷阪山駅行(復路)
平 日  土曜日  日曜・祝日 平 日  土曜日  日曜・祝日
09 45 45 45      
10 45* 15* 45* 15* 45* 30 0* 30* 0* 30*
11 45* 15* 45* 15* 45* 30* 0 30* 0 30*
12 45* 15* 45* 15* 45* 30* 0* 30* 0* 30*
13 45* 15* 45* 15* 45* 30* 0* 30* 0* 30*
14 45* 15* 45* 15* 45* 30* 0* 30* 0* 30*
15   15 15 30* 0* 30* 0* 30*
16 45 15* 15* 30 30 30
*:3月1日〜11月30日の間運行

宗派:
真言宗豊山派

本尊:十一面千手観世音菩薩

開基:弁基上人

縁起:
朱印 壷阪山に庵を結んでいた弁基上人は水晶の壷を愛でていたが、大宝3年(703年)、その壷の中に千手観音像を感得したという。弁基上人はその姿を刻み、像を庵に安置したとされており、これがこの寺の創始と伝えられている。壺阪の名もこれに由来しているという。
 元正天皇はこれを知り、養老元年(717年)に八角殿を建て、ここに壷と観音像を安置し、南法華寺の名を与えたという。
 南法華寺は平安時代に全盛期を迎え、36堂60坊の大伽藍が造営されたと伝えられている。その後、数度の大火に遭遇し諸堂が焼失した。現在の諸堂は室町時代に再建されたものが基になっているようである。
 当寺の本尊は眼病に霊験のある仏として昔から信仰され、元正、一条、桓武天皇をはじめ眼病平癒を祈願する人は多かったとされているが、特に、近年当寺が眼病患者を救う観音を祀る寺として有名になったのは、明治時代に失明回復祈願にまつわるお里沢市の夫婦愛を描いた浄瑠璃、壺阪霊験記が世間に共感をよんだことによるといわれている。

 この寺は「南法華寺」という正式名称よりも「壷阪寺」や「壷阪観音」の名でよく知られている。

見所など:

 「南法華寺」は標高300mの山中に建てられていることから、台風などによる被害を度々受けていたこと、また、江戸時代に造成された石垣なども崩壊のおそれがある等から、平成10年から約10年かけて伽藍整備工事が行われた。従って、平成10年以前の「南法華寺」と現在の「南法華寺」では、寺の規模や諸堂の配置などかなり異なっている。

 伽藍整備前に参拝に訪れた際に記憶していた参道と仁王門の位置が、整備後で大きく異なっていることに先ず一寸した戸惑いを感じる。
大講堂
 寺に下りる歩道を下がりきると駐車場に出る。駐車場の端に入山受付があり、それに隣接して大きな建物「大講堂」(左の写真)が建てられている。左の写真で「大講堂」の手前中央に見える小さな建物が入山受付である。

 この「大講堂」は平成14年4月に落慶した。
仁王門
 「大講堂」の側を通り奥に進むと「仁王門」(左の写真)が見える。「仁王門」は建暦2年(1212年)の建立とされている。

 伽藍整備前の「仁王門」は現在の場所に在ったのではなく、参道(旧)から境内に入る際の入口に当たる場所に建てられていたが、先年の台風により半壊したのを機に現在の場所に移された。現在の「仁王門」は境内の入口と思える場所に建てられてはいない。

 写真でもわかるように、「仁王門」は移転の際に解体修理が行われたので、見た目に奇麗で新しい。
多宝塔
 「仁王門」をくぐり、石段を上がると一寸した広場に出る。上がった場所のすぐ左側に目を引く建物、「多宝塔」(左の写真)が建てられている。

 多宝塔は9世紀に天台・真言の密教が興ってから密教寺院で建てられた塔とされ、宝塔とは円形の塔身に宝形造りの屋根をのせたものをいうとのことである。

 この「多宝塔」は平成14年4月の落慶で、平安時代の作とされる大日如来が本尊として祀られている。
灌頂堂
 「仁王門」の横に「灌頂堂
(かんじょうどう)(左の写真)が建てられている。

 灌頂堂は平安時代に建立されていたと推測されているようで、後、2度の大火に遭遇したがその度に再建されてきたと伝えられている。ただ、15世紀の大火の後は再建されたという記録はないという。

 今回の伽藍整備に際し、「灌頂堂」再建を発願し、平成17年4月に落慶した。本尊は室町時代の十一面千手観音菩薩である。
壺阪大仏
 左の写真はインドから渡来した「大釈迦如来石像」であり、台座を含め高さが15mの通称「壺阪大仏」で、平成19年11月に開眼した。

 この「壺阪大仏」は「仁王門」をくぐり、石段を上がった場所から右側に進んだ場所にある。またこれは休憩所兼土産物屋の前を真っ直ぐ奥に進んだ場所でもある。伽藍整備前は休憩所兼土産物屋の近くに「仁王門」があった。

 「灌頂堂」や「多宝塔」などのある広場から一段高い場所に「礼堂」、「八角円堂」、「三重塔」をはじめ幾つかの堂宇などが建てられている。「灌頂堂」左側を通って緩い坂道を上がって、「八角円堂」(後述)の下を「八角円堂」に沿うように緩く曲がっている参道を上がると「礼堂」の傍に着く。
礼堂
 左の写真は「礼堂
(らいどう)である。写真で「礼堂」の奥に僅かに屋根だけが見えているのは「八角円堂(本堂)」で、手前右側の建物は納経所である。

 「礼堂」は「八角円堂」に祀られている本尊を拝む場所として、文正元年(1466年)以前に建立されたものであることがわかっているという。


 「礼堂」重要文化財に指定されている。
八角円堂(本堂)
 「礼堂」に接して「八角円堂」(左の写真)が建てられている。名称の通り八角形の建物である。「礼堂」と「八角円堂」は密接しており、両堂の間には隔壁がない。

 「八角円堂」は「本堂」であり、堂中心に南法華寺の本尊、「十一面千手観世音菩薩」が祀られている。参拝に訪れた人は「礼堂」を通して「八角円堂」内に入ることができ、堂の中を回ることができる。

 現在の「八角円堂」は江戸時代の建立になるといわれているが、発掘調査により同じ場所に八角円堂の基壇石が認められ、平安時代初期、大同3年(808年)の建立時から場所が変わっていないことがわかったという。
本尊、十一面千手観世音菩薩
 左の写真は「八角円堂」に祀られている本尊「十一面千手観世音菩薩」である。

 本尊は寄せ木造りで室町時代の作で、それ以前の本尊、千手観音像に代わって造られたらしい。

 本尊は想像していた以上に大きく、写真でもわかるように目鼻立ちがはっきりしていて、その容貌は普通に見られる仏像のそれとは可成り異なっていて印象的である。

 本尊は眼の仏として広く信仰を集めている。正面から見て右側に球を持った手が見えるが、この手が目摩尼手で眼を救う手といわれている。
沢市の杖
 壺阪霊験記で知られている盲目の沢市が使用したとされ、古くから当寺に伝えられている「沢市の杖」(左の写真)が本堂の中に置かれている。

 説明によれば、この杖に触れると夫婦仲が円満になるという。
三重塔(1) 三重塔(2)
 「礼堂」の近くに「三重塔」(左の二枚の写真)が建てられている。二枚の写真は「三重塔」を見る方角を変えて撮影したもので、二基の塔があるわけではない。

 「三重塔」は明応6年(1497年)に竣工したとされており、宝永7年(1710年)に大修理が行われたという。


 「三重塔」重要文化財に指定されている。
お里観音と沢市霊魂碑
 壺阪霊験記は盲目の夫『沢市』の開眼を祈る妻『里』の純愛が沢市の目を開けさせるという夫婦愛の物語であるが、これが世間の共感をよび眼病封じの観音として当寺への信仰を集めてきた。

 左の写真は「礼堂」のある広場の奥側の隅に祀られている「お里観音」(写真左の赤い建物)と「沢市霊魂碑」(写真右奥の石碑)である。
仏伝図(全)レリーフ
 「三重塔」の奥側に、インドカルカラの三億年前の古石花崗岩を使用しインドで製作された「仏伝図レリーフ」(左の写真)が置かれている。

 この「仏伝図」は昭和61年(1986年)10月に完成されたもので、向かって左から右へ釈迦の前世から涅槃までが10面に分けて彫刻されている。

 この彫刻の製作は日印文化交流の一環であり、当寺とインドを結ぶ友情の産物であるとされている。
仏伝図レリーフの一部(1)
 左の写真は「仏伝図レリーフ」の一部で、釈迦の前世を表す一枚である。「仏伝図レリーフ」の第一面(左端)の二枚目上側の彫刻である。

 レリーフの説明には『尊釈はこの世に生まれる前はトウシタ天という世界に住む菩薩であった。天人たちが王座にすわった菩薩を礼拝賛嘆し、菩薩は彼らに説法している。』と書かれている。釈迦の前世は他にシビ王、鹿王など何段階もあったようである。
仏伝図レリーフの一部(2)
 左の写真も「仏伝図レリーフ」の一部で、釈迦が天上から地上に降りることを表すレリーフである。これは第一面(左端)の三枚目上側にある。

 説明には『菩薩は将来この世界を救済するため、釈迦族の王の子供として生まれることを決意し、白象に姿を変え、輿に乗り、楽人の先導で地上に降下した。』記されている。
仏伝図レリーフの一部(3)
 左の写真も「仏伝図レリーフ」の一部で、第10面(右端)に置かれている彫刻である。

 説明には『加齢と食生活で体力を消耗した釈迦がクシナガラの町の郊外にある森に入り、弟子アーナンダに命じて沙羅の木の間に枕を北にして床を敷かせ、右腋を下にして横たわった。その夜、釈迦は涅槃に入り80歳の生涯を閉じた。人々が嘆き悲しみ、動物も死を惜しんでいるようである。』ということが書かれている。
天竺門
 「仏伝図レリーフ」の右端の近くに「天竺門」(左の写真)と命名された門が建てられている。「天竺門」の名称の意味はよくわからないが、この先にインドから招来した大石像が祀られていることによるものと思われる。

 この門をくぐり(門の横を通り)道なりに進むと、県道の下に設けられたトンネルがあるので、それを通る。
大観音石像
 県道の下に設けられたトンネルをくぐり、先に進むと小高い場所に出ると「大観音石像」(左の写真)が見える。

 石像はインドハンセン病救済事業の縁でインドから招来されたもので、昭和58年(1983年)3月に開眼された。

 説明によれば、この石像は、3億年前のものというインドの古石花崗岩を原材料として、7万人の人手によりインドで制作された。高さは約20mで総重量約1200トンあり、66個に分割して運ばれ、日本で組み立てられたという。また、土台には数万巻の写経と土台石が、胎内には数十万巻の写経と胎内石が納められているという。

 
釈迦如来大涅槃石像
 「大観音石像」の前方やや低い場所に、インドから招来された「釈迦如来大涅槃石像」(左の写真)が安置されている。涅槃像は全ての教えを説き終えて入滅する釈迦の姿を表している。

 この石像は全長約8m、重さ約30トンといわれており、平成11年(1999年)4月にここに安置されたようである。

 「釈迦如来大涅槃石像」の前から「大観音石像」が遠望でき、二体の石像を同時に撮影できるためか、この前で記念写真を撮影する参拝客が多い。
大石堂
 「大観音石像」と「大涅槃石像」のある高台から引き返し、境内出口の方に向かうと、「大釈迦如来石像」(既述)の近くに「大石堂」(左の写真)が見える。

 「大石堂」は日本の寺院では、ここ以外見られないインド風の建物で、インドのエローラ・アジャンタの石窟寺院を模して造られたという。

 この堂は7年の歳月を費やし、三千個の花崗岩をインドで彫刻し、日本で組み立てられたものという。堂内には石仏などが安置されており、平成4年(1992年)に落成したようである。
大石堂内部
 左の写真は「大石堂」の堂内の一部で、入り口から見て正面奥側である。写真で中央に安置されているのが「大仏舎利塔」と思われる。また、最奥部には納骨室が設けられており左奥側に千手観音像の一部が見える。

 上述したように、南法華寺はインドとの関係が深いが、これは当寺がインドにおけるハンセン病の人々の救済活動を行い、また、当寺はインド各地で奨学金事業、学校運営助成など種々の事業を通じ国際交流を展開していることによっている。

 更に、当寺は昔から眼の不自由な人々の信仰を集めていたことから、養護盲老人ホーム慈母園の開設など、盲老人福祉事業を行っていることでもよく知られている。

御詠歌:岩をたて水をたたえて壷阪の庭のいさごも浄土なるらん

2009年2月2日最終更新
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