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西国第三番
風猛山 粉河寺

(ふうもうざん こかわでら)
所在地及びアクセス:

 和歌山県紀の川市粉河
粉河寺所在地図
 JR和歌山線粉河駅下車。駅前の広場を渡り、商店街(124号粉河寺線)を北の方向に進み、中津川にかかる赤い欄干の橋を渡ると直ぐ粉河寺大門に着く。JR粉河駅から粉河寺まで徒歩約15分。

 大坂からのアクセスはJR阪和線で和歌山駅まで乗車し、和歌山駅から和歌山線で粉河行き又は橋本行きに乗り、粉河で下車する。JR和歌山線の和歌山〜粉河間の所要時間は35〜38分、運転頻度は昼間時1時間に2便。

宗派:
粉河観音宗総本山

本尊:千手千眼観世音菩薩

開基:大伴孔子古

縁起:
粉河寺朱印
 宝亀元年(770年)のある日、猟師の大伴孔子古(くじこ)が山中で霊光を発する場所を見た。霊光を見た孔子古はこの地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立したと伝えられている。

 この小堂に童男大士が訪れ、七日間、堂に籠もって仏像を刻み、これを本尊にするようにと孔子古に与えたといわれており、翌日、童男大士が去ると、その仏像は金色に輝く観世音菩薩になったという。孔子古は童男大士こそ観世音の化身と考え、以後、殺生をやめ供養礼拝したといわれ、これが粉河寺の創始と伝えられている。

 この縁起は
国宝に指定されている「粉河寺縁起」という紙本著色絵巻に描かれているが、原本は京都国立博物館に寄託されているようであり、粉河寺にはその複製品が保存されている。

境内諸堂配置:
粉河寺諸堂配置略図
 左のコピー(粉河寺発行のパンフレット記載の境内絵図より)は粉河寺の境内諸堂配置略図である。

見所など:
大門遠望
 JR粉河駅から北に向かって商店街を抜けると中津川に架かっている赤い橋があり、その奥に粉河寺の「大門」が見える(左の写真)。

 この付近はかつての門前町の雰囲気を残している。
大門
 左の写真は「大門」である。大門は三間楼門で、その規模は和歌山県では高野山、根来寺に次ぐ大きさといわれている。

 宝永4年(1706年)の建立とされており、総欅造りである。この大門は数年前に改修工事が行われた。


 「大門」重要文化財に指定されている。
仏足石
 「大門」をくぐり、石畳の参道を北に進む。参道が東に向かって右折しているので、参道を道なりにしばらく歩くと北側に「仏足石」(左の写真)が見える。

 左の写真で「仏足石」は二つの石碑の前に置かれている。「仏足石」は釈尊の足形を石に刻んだものであり、その大きさは偉大な人徳を表しているという。

 石碑は江戸時代の僧願海上人の筆になるとされている。
仏足石近影
 左の写真は「仏足石」を近接して撮影したものであるが、表面がかなり風化されており、指先が確認できるだけで、足形全体は視認できない。

 この「仏足石」は文久3年(1863年)の作とされているから、150年以上経日している。
童男堂
 参道の北側やや奥まった所に、本坊に接近して「童男堂」(左の写真)が建てられている。

 延宝7年(1679年)の建立とされ、千手千眼観世音が姿を変えたといわれる童男大士(縁起の項参照)が本尊として祀られている。


 「童男堂」和歌山県指定文化財になっている。
童男体士石像
 「童男堂」の東側の土塀にとり付けられた格子塀を通して、千手千眼観世音の化身といわれる「童男大士」の石像(左の写真)を見ることが出来る。

 石像が格子塀から離れた位置にあるため、童男大士の表情ははっきりとはわからないが全体的に柔和な印象を受ける。

 童男大士石像の左側には、千手観音像を安置した小さい三角堂が池の上に建てられている。
出現池
 童男大士石像の傍には「出現池」と名付けられた池がある(左の写真)。童男大士は柳の枝を手に持ち、白馬に乗ってこの池より現れたと伝えられている。

 童男大士は病気平癒の霊験のあらたかな仏として知られており、祈願し成就すれば、祈願した人はこの池に鯉を放す風習があるらしい。
中門
 「童男堂」、「出現池」」の前を更に東の方向に進むと、「中門」(左の写真)に着く。現存の中門は天保3年(1832年)の建立とされている。

 門には四天王が安置されており、中門といっても、堂々とした立派な門であり、西国札所の寺院の山門でもこれだけのものはそう多くはない。

 「中門」重要文化財に指定されている。
中門山号額
 中門入口の上には『風猛山』と書かれた「山号額」(左の写真)が掲げられている。この額は紀州十代藩主、徳川治宝の直筆によるという。
牧水歌碑
 「中門」をくぐると直ぐ北側に「牧水の歌碑」(左の写真)が建っている。
牧水歌碑近写
 左の写真は歌碑に刻まれている牧水の歌を撮影したものであるが、榊莫山氏によればこの歌碑の字体は見事な明朝体で、立派な歌碑であるという。つい見過ごしがちであるが是非鑑賞しておきたい。
芭蕉句碑
 「牧水の歌碑」を左に見ながら奥に進むと本堂下の広場に出る。この広場の東側に「芭蕉句碑」(左の写真)が建てられている。

 この句碑には芭蕉の句『ひとつぬきて/うしろにおひぬ/ころもがえ』が彫られている。
丈六堂
 本堂前の石段の下の広場東側、芭蕉句碑の傍奥側にに、「丈六堂」(左の写真)が建っている。

 尊釈は一丈六尺あったとされており、この大きさに造られた仏像を丈六と言われている。この「丈六堂」の中には一丈六尺の大きさの阿弥陀如来像(実際の仏像は一丈六尺より小さい)が安置されている。
丈六堂の阿弥陀如来像
 左の写真は丈六堂内に安置されている阿弥陀如来像(左の写真)である。釈尊は一丈六尺あったとされているが、仏像は普通、結跏趺坐(けっかふざ:「あぐら」の意)の姿に造られるので、座高は八乃至九尺(約2.4〜2.7m)が標準となるようである。

 阿弥陀如来像は優しさをたたえた表情ながらキッと目を開け、正面を見つめており、この目をジッと見返し難いような雰囲気がある。自然に頭が下がり、掌を合わせてしまう
本堂(1)
 「中門」をくぐり、「牧水の歌碑」を左に見ながら奥に進むと広場に出る。広場の北側にある石段を上がった場所に「本堂」(左の写真)が建っている。

 現存の「本堂」は享保5年(1720年)に再建されたものといわれ、江戸時代中期の寺院建築の代表的建造物とされている。
本堂(2)
 「本堂」の造りは左の写真でわかるように屋根を複雑に組み合わせた八棟造りといわれている様式であり、これがこの建物を大きくかつ立派に見せるのに役立っている。

 本尊の千手千眼観世音菩薩は西国三十三ヶ所札所では最大であるといわれている内陣の厨子の中に安置されており、秘仏であり直接の拝観はできない。
本堂近景
 左の写真は「本堂」正面であり、ここから内陣に入り拝観参拝することができる。

 内陣には諸仏像(本尊は秘仏)の他に鎌倉時代初期の作とされる国宝の「粉河寺縁起絵巻」の複製品が展示されている。


 「本堂」重要文化財に指定されている。
千手堂
 本堂の西側に本堂に隣接して「千手堂」(左の写真)が建てられている。

 「千手堂」の内部を拝観することは出来なかったが、祭壇には歴代の紀州藩主とその縁の人々の位牌が安置されているといわれている。


 「千手堂」重要文化財に指定されている。
湯浅桜
 「本堂」の前、東南側に六角堂が建っているが、その傍に「湯浅桜」(左の写真)が植えられている。

 紀州(現、和歌山県)湯浅の住人、藤原宗永が本寺の本尊、千手観音のお告げで本堂の辰己(東南)の方向に植えたとされているのがこの桜の木といわれている。
自然保存木の楠木
「本堂」の東側に自然保存木に指定されている楠木がある(左の写真)。一見したところ、この楠木はかなりの樹齢であるのがわかる。

 光仁天皇の代、宝亀元年(770年)頃、猟師であった大伴孔子古(粉河寺の開基)がこの木の上に座して、下を通る鹿などの動物を捕っていたと言い伝えられているが、これは単なる伝言であろう。
地蔵菩薩立像
 「本堂」の東側、やや離れた場所に「薬師堂」が建てられているが、その前向かって左手に「石造地蔵菩薩立像」(左の写真)がある。

 この立像は砂岩を石材として造られ、高さは2.1mで、永禄7年(1564年)の銘がある。今から約440年前の作であるためか、風化が認められる。

 地蔵菩薩は衆生を救い極楽に行けるように援助してくれると信じられ広く信仰された。今でも、忌明け地蔵として深く信仰されているようである。
庭園(1)
 「本堂」前の石段の西側に「粉河寺庭園」がある。左の写真は「本堂」の前から見た「粉河寺庭園」の一部であるが、この場所から庭園全体を見通すことは難しい。
庭園(2)
 「粉河寺庭園」は本堂下の広場から見ると全体像を把握することができる。

 左の写真は庭園東側の石段傍から西側の方向に向かって撮影した「粉河寺庭園」である。
庭園(3)
 左の写真は庭園西側の端から東の方向に向かって撮影した「粉河寺庭園」である。
 本堂下の広場から見ると庭園の全体像を把握することができる。直下の写真は本堂下の広場から見た「粉河寺庭園」の全景である。写真右側奥の建物が本堂である。
庭園全景
 庭園としては規模の大きなものではないが、石組みの枯山水庭園は力強い美しさを感じるものに仕上がっており、印象的である。

 「粉河寺庭園」は国の名勝に指定されている。

御詠歌:父母(ちちはは)の恵みも深き粉河寺ほとけの誓いたのもしの身や

2005年11月14日最終更新
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Yukiyoshi Morimoto