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西国第二番
紀三井山 護国院(紀三井寺)

(きみいさん ごこくいん(きみいでら))
所在地及びアクセス

 和歌山市紀三井寺
紀三井寺所在地図
 JR紀勢本線(きのくに線)「紀三井寺」駅下車(紀勢本線の普通列車の運転頻度は昼間時、1時間に約2本)。
 駅前広場を横切り東の方向に進むとやや広い通りに出るので、右折し南の方向に道なりに約450m進むと、土産物屋が軒を連ねた通りに出るので、東の方向(左折)に進むと紀三井寺の楼門前に着く。 駅から紀三井寺楼門前まで徒歩約10分。
 

宗派:救世観音宗総本山

本尊:十一面観世音菩薩

開基:為光上人

縁起:
朱印
 唐から渡来した為光(いこう)上人は行脚の途中、たまたまこの地に泊まったが、その夜半に名草山山頂付近から発する霊光を見たので、翌日、山に登り、そこで金色に輝く千手観音像を感得したという。為光上人は「この地こそは観音慈悲の霊場である」とし、自ら十一面観世音菩薩を一刀三礼で刻み、これを祀る堂宇を光仁天皇の宝亀元年(770年)に建立したという。これが紀三井寺の創始と伝えられている。

 その後、歴代天皇の行幸があったようで、後白河法皇は当寺を勅願所と定めた、といわれている。

 当寺は正しくは『紀三井山護国院金剛宝寺』というらしいが、通称名の『紀三井寺』の呼び名の方が一般的であり、護国院金剛宝寺の名称を用いる人は殆どいない。

見所など:
参道と楼門
 国道42号線から分かれて紀三井寺の楼門までの間の参道の両側には土産物屋が軒を並べている(左の写真)。

 写真でもわかるように参道の向こうに紀三井寺の楼門を望むことができる。
楼門
 紀三井寺の境内入口に当たる「楼門」(左の写真)は堂々とした立派なもので、著名な寺の山門であることを実感させられる。

 この「楼門」は永正6年(1509年)に再建されたものといわれている。


 「楼門」重要文化財に指定されている。
紀文参詣の図
 「楼門」から先は石段になっているが、かつてはここが坂であり、「結縁坂」といわれていたようである。

 「楼門」の傍にこの坂にまつわるエピソードが書かれた説明板(左の写真はこの説明板に描かれている絵)がある。説明板には大略次のように書かれている。

 『紀の国屋文左衛門は親孝行であった。ある日母を背負って紀三井寺に参詣、この坂を上ったが途中で草履の鼻緒が切れた。そこに玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えたのが縁となり、二人は結ばれたという。』これが、この坂を「結縁坂」と呼ぶようになった由来といわれている。この話には玉津島神社の宮司の出資金によるミカン船で紀の国屋文左衛門は大儲けしたというオマケまでついている。
石段
 楼門から本堂前の広場までは、約230段のかなり急勾配の石段(左の写真)を登らなければならない。石段を上まで上がった人の多くは息を切らす。

 昔、終戦直後の昭和21年(1946年)頃、駐留米軍の兵士がジープを運転し、この石段を登った、ということが話題になった記憶がある。子供心にでも信じ難い怪しい話しだと思っていたが、この急勾配ではどう考えても登れないだろう。
石段途中にある塔頭
 石段の途中にはいくつかの塔頭が建っている。左の写真はその内の一つ「滝本院」であるが、殆どの塔頭は何故か寂れており、平常は人の気配はなく、立ち寄る参詣者も殆ど見られない。
三井水
 紀三井寺の名称は「紀州にある三つの井戸のある寺」に由来しているという。三つの井戸を「三井水」と呼んでいる。

 その内の一つ「清浄水」が石段の途中にあり、石垣の間から水がチョロチョロと流れ落ちている(左の写真)。

 「清浄水」から数十メートル南側に「三井水」の一つである「楊柳水」、北側のかなり離れた場所に、もう一つの「三井水」である「吉祥水」がある。

 「三井水」は昭和60年に日本名水百選の一つに選ばれている。
「清浄水」という名称は「一切衆生の罪垢を洗除して清浄なるを得しむ為」に由来しているということであり、衛生的に清浄という意味ではないらしい。
応同樹
 石段を上る途中の左手に、当山の「霊木」とされているクスノキ科のタブノキ(イヌグス)があり、「応同樹」(左の写真)と呼ばれている。

 このタブノキは当山の開祖為光上人が持参したという七種の宝の内の一つと伝えられており、創建の頃の応同樹から種子が落ち、発芽成長したものが現存の応同樹と考えられている。この木は開基以来の当山の由来にまつわる木として保護されているようである。

 この
「応同樹」和歌山市指定文化財になっている。
六角堂
 長い石段を上がりきると正面に見えるのが「六角堂」(左の写真)である。
文塚
 「六角堂」の向かって右側(南側)に「文塚」(左の写真)が建てられている。

 写真でもわかるように塚碑は手紙(ハガキ)を模している。

 塚の前に書かれた碑文によれば、受取人と差出人が不明な所謂迷子郵便物といわれるものがあるが、それら迷子郵便物が焼却された灰を全国から集め、その霊を慰めると同時に迷子郵便物がなくなるよう祈願するための供養塔として建立されたという。

 碑文の日付けは昭和44年11月となっているが、見た目には新しく、ここ2、3年前に建てられたように見える。
新仏殿
 更に境内の南側に一寸変わった建物「こころの灯台・新仏殿」(左の写真)が建てられている。

 この建物は最近建造(2002〜2003年頃)されたものでその目的は、『現在の荒廃した社会から生かされていることに感謝するという本来の考え方を取り戻すため「こころの灯台」となるべくこの法塔、新仏殿を建立した』とされている。

 見た目には、
灯台を模した建物になっている。その上層部は料金を徴収する展望台になっており、形状と共に仏殿としては感覚的にややそぐわないと感じるのは私だけだろうか。
鐘楼
 「六角堂」の左手(北側)に「鐘楼」(左の写真)がある。

 「鐘楼」は宝亀2年(771年)に建立、天正16年(1588年)に再建され、昭和12年(1937年)に修復されたようである。建物は桃山建築の特徴を示しており、優美な感じがする。


 「鐘楼」重要文化財に指定されている。

 「鐘楼」の北側には「大師堂」が建っており、更に北側の奥には「本堂」が見える。「本堂」に向かって左側の広場から山部赤人が「わかの浦潮みちくれば潟おなみあしべをさして鶴なきわたる」と歌った片男波の海岸や和歌浦湾を望むことができる。
本堂
 「鐘楼」前の参道を北の方向に進むと「本堂」(左の写真)に着く。

 現在の「本堂」は宝暦9年(1759年)に建立されたものといわれている。建物は総欅
(けやき)造りであり、建築技法にも優れた建物のようである。

 「本堂」和歌山県指定文化財になっている。
本堂近景
 「本堂」(左の写真は本堂正面近景)厨子内に安置されている本尊の「十一面観世音菩薩像」は為光上人が刻んだものといわれており、上人が感得した「千手観音像」はその胎内に納められているというが、何れも秘仏であり直接拝観できない。

 「千手観音像」は平安時代後期の作ともいわれている。

 本尊の「十一面観世音菩薩像」、「千手観音像」、それに本堂に安置されている、「梵天・帝釈天立像」は何れも重要文化財に指定されている。
賓頭廬尊者
 「本堂」の右側(東側)に「お身代わりなで仏」(左の写真)の賓頭廬尊者、通称「びんずるさん」が安置されている。

 心身に痛み、悩みのある人は、自分の部位とびんずるさんの同じ部位を交互になでてお祈りすれば、痛み悩みが治癒するという。このような「なで仏」は紀三井寺に限らず、多くの寺院で見ることができる。ただ、「なで仏」の表情は寺によってかなり違うようで、この「なで仏」はギョロリと眼をむき人を睨みつけている。

 本堂の左側(西側)の地下及び床下部分が「霊宝館」になっており、寺宝が展示公開されている。

 霊宝館の最下階は、ほのかな照明があるだけで、殆ど暗黒に近い中、仏像が安置されており、願い事を書いた驚くほど多数の祈祷杓子が束状に纏められ置かれている。
その上、外界の音が全く聞こえず、雰囲気は恐ろしく不気味である。この気分は体験した者以外は理解できないであろう。

 霊宝館の上階は明るい部屋で、仏像、仏具の他に、書画が展示されており、第十代紀州藩主徳川治宝筆の「雲龍図」、一休の署名のある書など懸けられている。
本堂前の桜標本木
 紀三井寺は桜の名所としても有名であり、季節には花見に訪れる人で混み合う。

 本堂の直ぐ前、向かって左側に和歌山地方気象台季節観測用の「ソメイヨシノ標本木」(左の写真)がある。桜の開花宣言の基準となる木である。
開山堂
 「本堂」前、右手(東側)の石段を上がると一寸した広場があり、その北側に「開山堂」(左の写真)が建てられている。

 この辺りは参拝者も殆ど訪れることはないようで、建物も寂れた感じである。
多宝塔
 「開山堂」の南側に「多宝塔」(左の写真)が建っている。

 この場所には、かつて仏塔が建っていたらしいが、嘉吉元年(1441年)に大風で倒壊、その後、宝徳元年(1449年)に「多宝塔」が建立されたといわれている。

 この「多宝塔」は室町中期の建築様式が使われており、紀三井寺に現存する建物では最古のものらしい。
多宝塔正面近景
 左の写真は「多宝塔」を正面から見たものである。「多宝塔」の周りは沢山の木が繁っており、正面以外からは全体像が見えにくい。

 「多宝塔」重要文化財に指定されている。
春子稲荷
 多宝塔の南側、「三社権現」との間に見落としてしまいそうな小さな祠、「春子稲荷」(左の写真)がある。

 約四百年の昔、織田信長、羽柴秀吉の軍勢が粉河寺などを焼き討ちし、紀三井寺に迫ってきた。その頃、当山観音堂に仕えていた春子という名の娘が須弥壇から白狐の姿になって出現し、霊力をもって軍勢の先鋒の将、羽柴秀長から焼き討ち禁制の書状をとり、紀三井寺と周辺を戦火から救ったという伝承があるという。

 以来、人々は厄除けとして春子稲荷を祀ったとされている。

御詠歌:
ふるさとをはるばるここに紀三井寺花の都も近くなるらん

2004年6月14日最終更新
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Yukiyoshi Morimoto