ホーム > 新西国三十三ヶ所一覧 > 叡福寺 サイトマップ

新西国客番
磯長山 叡福寺
(しながさん えいふくじ)
叡福寺所在地図 所在地及びアクセス:

 大阪府南河内郡太子町太子

 近鉄長野線「喜志」駅下車。駅東側に出て金剛バスの乗り場から「上ノ太子」行き、又は「太子まわり循環」又は「葉室まわり循環」のいずれかのバスに乗車し、バス停「太子前」で下車する。バス停の直ぐ北側に叡福寺の山門(南大門)が見える。バス乗車時間は約10分(但し「葉室まわり循環」は時間がかかる)。
 バスの運行頻度は、8:00〜18:00の間について、1時間に2〜3便(但し、休日の8時台のみ1便)。

 宗派:真言系単立
朱印
本尊:聖如意輪観世音菩薩

開基:聖武天皇

縁起:

 聖徳太子がこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620年)に墓所を造営したといわれている。翌年、太子の生母間人(はしひと)皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳手(かしわで)姫とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られたとされている。結果、廟は三骨一廟の陵墓になった。

 太子の没後、聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元年(724年)に建てられたのがこの叡福寺であるという。

 当初の寺の規模は広大で、法隆寺と同じように東院(東福院)、西院(叡福寺)からなっていたといわれているが、戦国時代末期には織田信長の焼き討ちにより全焼、その後再建され、ほぼ現在の寺の規模になったようである。
山門(南大門)
見所など:

 バス停の直ぐ北側が駐車場になっており、駐車場の片隅にある石段の上に「山門(南大門)」が建っている(左の写真)。

 南大門は天正2年(1574年)の兵火で焼失したようであるが、慶長年間に再建され、更に、昭和33年(1958年)に再建築されたといわれている。

 「南大門」から真っ直ぐ奥に「聖徳太子廟」があり、山門と廟前にある「二天門」との間を遮っている建物は何もない。
多宝塔
 南大門を入って直ぐ左側(西側)に「多宝塔」が建てられている(左の写真)。

 現存の「多宝塔」は承応元年(1652年)に建てられたようである。内部には釈迦尊像や大日如来像等が安置され、柱には四天王像が描かれているというが、通常、これらを拝観することはできないようである。


 「多宝塔」重要文化財に指定されている。

 寺院の建物の構成からすると、山門と本堂が大きく離れている場合を除き、山門をくぐると正面乃至正面に近い位置に「本堂(金堂)」が建てられていることが多いが、この叡福寺では上述したように、「山門」の正面には「聖徳太子廟」が位置している。
金堂
 「金堂」(左の写真)は「山門」と「聖徳太子廟」を結ぶ線の西側で、「多宝塔」の北側に当たる場所に建てられている。

 現存の「金堂」は享保17年(1732年)に再建されたものといわれている。「金堂」には本尊の如意輪観世音菩薩が祀られている。

 「金堂」の北側に近接して「聖霊殿(太子堂)」が建てられている(直下の写真)。
聖霊殿
 現存の「聖霊殿」は後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が慶長8年(1603年)に再建したものであるとされているが、見た目には新しく、その後何回もの修理がなされているのであろう。

 「聖霊殿」に祀られている本尊は聖徳太子十六歳の等身像といわれている。この像は宮中にあったものを文治3年(1187年)に後鳥羽天皇により下賜されたものであるという。


 「聖霊殿」重要文化財に指定されている。
二天門
 上述したように「山門(南大門)」をくぐると真正面に見えるのが「聖徳太子廟」であるが、廟の前にこの「二天門」(左の写真)がある。

 「二天門」も「聖霊殿」と同じ慶長8年(1603年)に再建されたものといわれているようであるが、これもその後何回もの修理が行われているものと思われる。

 「二天門」をくぐると目前に「聖徳太子廟」(直下左の写真)が見える。廟の背後は磯長山が迫っており、廟は山の丘陵を利用して造られている。

 廟は宮内庁の管轄になっており、垣の中に入ることはできないが、明治12年(1879年)の廟修理の際羨道を閉じてしまったとかで、以来、内部を見ることは不可能になったようある。
聖徳太子廟 廟近景
 廟の正面、扉の上には阿弥陀三尊のご来迎をあらわした木彫りの額がかかっている(直上右の写真中央)。この額は叡福寺の玄雅が延享3年(1746年)に寄進したものとされ、三骨一廟の意味を表しているという。
見真大師堂
 「聖徳太子廟」の東側には「浄土堂」、更にその東側に「見真大師堂」(左の写真)が、「見真大師堂」の南側には「弘法大師堂」が建てられている。

 「見真大師堂」は他の堂宇と同じ慶長8年(1603年)に再建されたといわれているが、現存の建物は明治45年(大正元年:1912年)に再建築されたものという。

 この堂には親鸞聖人の坐像が祀られているが、これは聖人自身が刻んだものとされており、真宗教徒の信仰が篤いようである。


 最澄の一派である親鸞聖人を祀っている「見真大師堂」と弘法大師(空海)を祀っている「弘法大師堂」とが同一の寺域、しかも極めて近い位置に建てられているのが興味深い。聖徳太子の徳をしたって宗派を越えて多くの高僧が廟前に参籠したものと推測される。
松井家石棺
 「見真太子堂」の東側、境内の片隅に家形石棺が置かれている(左の写真)。

 この石棺は太子町の松井家の庭から出土したもので、写真では石棺の大きさの推測はできないがその高さは1.5m程度はあり、かなり大きいものである。

 出土する前に既に盗掘にあっていたとかで、ハッキリしたことは言えないようであるが、この石棺には二人が葬られていたのではないかと考えられている。副葬品、大きさなどから造られた年代が特定されている貴重な遺物といわれているようである。


 叡福寺は真言系の寺ということになっているが、建立時の主旨目的通り現在でも聖徳太子廟を守護している寺そのものであることが実感できる。

御詠歌:磯長(しなが)なるみ寺もいまもうまやどのみこのみたまはしずまりてます
新西国三十三ヶ所一覧のページへ戻る このページの先頭へ戻る

Yukiyoshi Morimoto