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新西国第二十八番
五峰山 光明寺
(ごぶさん こうみょうじ)
所在地及びアクセス:

 兵庫県加東市光明寺
光明寺所在地図
 JR加古川線「滝野」駅下車。線路に沿って加古川の方向へ約100m歩き、次いで右折してJRの踏切を渡る。踏切から約100m先に光明寺交差点があるので、それを渡り直進する。光明寺交差点から約500m進むと左に曲がる広い道があるが、曲がらずに北の方向に直進する。曲がりくねった坂道を上りながら進むと駐車場に着く。JR滝野駅から駐車場まで約1.6km、徒歩で約40分。
 徒歩困難な場合はJR滝野駅からタクシーを利用すると数分〜10分で駐車場に着くが、駅にはタクシーが常駐していないことが多いので電話で呼び出す必要がある。車はこの駐車場までで、後は徒歩で参道を上る。
 駐車場からほぼ西の方向へ急坂を上る。途中、光明寺の塔頭4ヶ院(奥に向かって順に、多聞院・遍照院・大慈院・花蔵院:下記の境内諸堂配置図参照)を左右に見ながら通り過ぎると、光明寺の仁王門に着く。駐車場から光明寺仁王門まで約400m。仁王門から本堂まで約130m。

宗派:高野山真言宗

本尊:十一面千手観世音菩薩

開基:法道仙人

縁起:
朱印
 第三十三代推古天皇2年(594年)にインドの行者、法道仙人がこの地を訪れたとき、老人が現れ、『この山は観音様をお祀りするのに適した霊地であるから、庶民を守る寺を建てなさい』と告げて立ち去ったという。この伝えからもわかるように、当寺は大衆信仰の霊場として開かれたようである。その後、仁明天皇の勅願寺となったようで、当時多数の寺院を擁し、文明年間には塔頭寺院が二十四院あったといわれている。現在、当時の隆盛はなく、塔頭も四ヶ院になっているが、播磨高野とも呼ばれ多くの人々の信仰を集めている。

 この場所は丹波路を見下ろす高所にあり交通の要衝であったことから、たびたび合戦の舞台となっている。よく知られているのが、観応2年(1351年)の光明寺合戦である。足利直義が足利尊氏と対立した観応の擾乱の際、直義方の石塔頼房らが光明寺に陣を敷いた。これに対し尊氏は光明寺を包囲したが、結果として光明寺に敷かれた陣を破ることができず、兵庫へ退散した。これが世に言う光明寺合戦である。

境内諸堂配置:

 直下の図は光明寺の諸堂配置図である。光明寺の伽藍を青色で、塔頭四ヶ院は黄色で表している。
境内諸堂配置図

見所など:
山門
 駐車場から西の方向に向かって勾配の急な上り坂道が通じているが、これが光明寺に通じる参道である。

 坂道のかかりに左の写真に見られるような『五峰山 光明寺』と彫られた二本のかなり経年したと思われる石柱が道を挟んで建てられている。これが光明寺の「山門」と思われるが、古刹の山門らしくなく簡素である。
役行者石像
 山門を通って勾配の急な参道を上がって行くと塔頭多門院に着く手前、参道左手の奥まった場所に、「役行者の石像」(左の写真)がある。道路の傍に標識があるが、大きな標識ではないので見落とす可能性が大きい。

 この石像は役行者の持つイメージをよく表現しているように思われるのであるが、奈良吉野の大峰山と縁のある役行者の像が何故、この場所に置かれているのかよくわからない。
塔頭遍照院
 参道の左に見える多門院を過ぎると、参道右手に塔頭「遍照院」(左の写真)が見える。遍照院には高さ約24cm、重さ約6kgの「銅造如来坐像」が安置されている。この坐像は平安時代初期の作とされており、通常非公開であるが5月3日の釈迦誕生花祭りには公開される。「銅造如来坐像」重要文化財に指定されている。

 光明寺の納経所は塔頭四ヶ院が年度ごとに順番に担当しているようで、本年度(2007年)は、この遍照院が納経所になっていた。
光明寺仁王門
 参道を奥に向かい、左手に塔頭大慈院、次いで右手に塔頭花蔵院を見て進むと、光明寺「仁王門」(左の写真)に着く。

 仁王門はもともとは山麓にあったといわれており、元禄6年(1693年)に現在の場所に移転、再建され、更に昭和56年(1981年)に解体修理され、元通りに修復されたのが現存の「仁王門」である。このとき、二体の仁王像も修復されたという。
仁王門の山号額
 左の写真は「仁王門」にかけられている山号が書かれた「扁額」である。それなりの風格は感じられるが、この額について曰く因縁がありそうな気がするが、特に謂われがあるかどうかはわからない。
仁王門を通して奥を見る
 「仁王門」を通して西側(奥側)を見たのが左の写真である。

 写真中央の一番奥に辛うじて見えているのが、後述する「常行阿弥陀堂」、門の奥側右手に「文殊堂」(後述)、それに石垣の上には「鎮守社」(後述)がわずかに見えている。
文殊堂
 「仁王門」をくぐってすぐ、参道右手に建っているのが「文殊堂」(左の写真)である。

 この「文殊堂」は天和2年(1682年)に再建されたもので、当山最古の建物であるという。昭和57年(1982年)に屋根の葺き替えと修理が行われ、同時に堂正面に唐風の向拝が増築された。
文殊堂向拝近景
 左の写真は昭和57年(1982年)増築された唐風向拝の近景である。
鎮守社
 「文殊堂」の西側(奥側)で石垣を積み上げた小高い場所に「鎮守社」(左の写真)が建てられている。

 この「鎮守社」の創建年代は不明であるとされているが、昭和56年(1981年)に屋根の葺き替えほか、一部修理を行っている。

 ここには寺の鎮守神として熊野権現が祀られている。
常行阿弥陀堂
 「仁王門」から参道を真っ直ぐに進むと見るからに古色蒼然たる堂「常行阿弥陀堂」(左の写真)に着く。

 平安時代、勅願により慈覚大師の創立で、元禄14年(1701年)から宝永年間にかけて再建されたといわれている。、現在の堂は安永8年(1779年)に改築されたものとされており、昭和57年(1982年)に大修理が行われている。

 堂内には常行堂の本尊、阿弥陀如来と観音、勢至の二菩薩が安置されている。
梵鐘堂
 「常行阿弥陀堂」の西側(奥側)に「梵鐘堂」(左の写真)が建てられている。

 この「梵鐘堂」は寛保2年(1742年)の建立とされている。鐘は東大寺の六角灯籠の妙音菩薩を写した美術梵鐘といわれ、昭和33年(1958年)に再鋳造されたものらしい。
宝匡印塔
 「梵鐘堂」の西側、「本堂」(後述)のやや北寄りに「宝篋印塔」(左の写真)が見える。

 「宝篋印塔」は元禄2年(1689年)に再築されたものといわれ、宝篋印陀羅尼を納る塔である。
本堂(1)
 「常行阿弥陀堂」の横を西の方向に進むと、「本堂」に着く。

 左の写真は「本堂(金堂)」を正面やや南寄りの位置から見たものである。

 現存の「本堂」は大正14年(1925年)に鎌倉時代の建築様式をもって再建されたものらしい。その広さは九間四面の方形で、屋根は銅板葺きである。
本堂(2)
 左の写真は「本堂(金堂)」を正面やや北寄りの位置から見たものである。

 「本堂」内陣の宮殿には本尊の十一面千手観世音菩薩と脇士の不動明王と毘沙門天王が安置されている。本尊は法道仙人の作と伝えられているが、法道仙人そのものが伝説上の人物との説もある上、1400年以上も経日したものがそのまま存在するかどうか、また、もしそうだとすれば文化財の指定があってもいいのではないか、などの疑問が多いように思われる。
光明寺合戦本陣跡(1)
 「本堂」の裏側(西側)が「光明寺合戦本陣跡」とされているようで、左の写真に見られるように『光明寺合戦本陣跡』と書かれた「石碑」が建てられている。

 観応2年(1351年)に足利直義方の石塔頼房が五千余騎でこの山に籠もったとき、本堂やこの石碑が建てられているあたりに本陣が置かれたと推定されている。

 写真でもわかるように、石碑の後方に竹矢来が組まれているが、この内側が本陣跡を模しているのであろう。
光明寺合戦本陣跡(2)
 左の写真は直上の写真で見られる竹矢来の内側である。「本陣跡」は一寸した広場になっており、入口と思われるところに木製の門のようなものが立てられ、広場のあちこちに木製の腰掛け様のものが置かれている

 太平記物語の記述によれば、寄手の足利尊氏は当時山麓にあった仁王門付近で城方の愛曽伊勢守と10日にわたり対峙したが、陣を破ることが出来ず軍を退いたという。従って、ここはあくまで本陣跡であり、両軍が直接戦闘した場所ではないと思われる。
かわらけ投所
 塔頭大慈院の南側に「かわらけ投所」(左の写真)が設けられている。

 かわらけに願い事や夢を託して山の斜面に向かって投所から出来るだけ遠くへ投げるのであるが、遠くへ飛ぶほど願い事が叶うといわれている。かわらけは遍照院、大慈院で買うことができる。

御詠歌:あや雲の空になびきて光明寺仰ぐ五つの峰は晴れたり

2007年7月30日新規収載
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