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新西国第二十七番
刀田山 鶴林寺
(とたさん かくりんじ)
所在地及びアクセス:

 兵庫県加古川市加古川町北在家
鶴林寺所在地図
 山陽電鉄「尾上の松(おのえのまつ)」駅下車。山陽電鉄の線路に沿って東南の方向へ約300m進んだ後、北東の方向へ左折する。山陽新幹線の高架が見えるので、高架の下をくぐり直進する。山陽新幹線の高架下から約500m進むと国道250号線(名姫新線)の高架がある。この高架の下をくぐり、約100m進むと左手に鶴林寺が見える。地図で『鶴林寺への徒歩経路』参照。
 山陽電鉄「尾上の松」駅から鶴林寺まで徒歩約20分。

 JRの場合、「加古川」駅で下車する。駅前から加古川ゾーンバス(通称かこバス)で「別府」行き又は「海洋文化センター前」行きに乗車し「鶴林寺」で下車すると直ぐ傍に鶴林寺が見える。バスの便は平日昼間1時間1本、朝と16時以降は1時間に2本、土日祝日は1時間に2本であり、便数は少ないので、特に歩行困難な場合を除き、山陽電鉄「尾上の松」駅より歩く方が便利である。

宗派:
天台宗

本尊:薬師如来、聖観音(愛太子観世音)

開基:
聖徳太子

縁起:
朱印
 今から約1300年前、物部守屋の難を逃れて隠棲していた恵便法師(えべんほうし)の徳を慕って聖徳太子が当地を訪れ、仏教の教えを受けたと伝えられている。

 崇峻2年(589年)、聖徳太子が16才の時、秦川勝
(はたのかわかつ)に命じ仏教をひろめるための道場、太子堂を建て、四天王寺聖霊院と名づけたのが当寺の始まりであるとされている。

 養老2年(718年)に武蔵の国の大目身人部春則が聖徳太子の徳を顕彰するため七堂伽藍を建立し、その後、9世紀には慈覚大師が薬師如来を彫って国家の安泰を祈願し、天台宗の寺になっている。
天永3年(1112年)には鳥羽天皇の勅額を得て寺名を刀田山鶴林寺に改め、勅願所に定められた。鎌倉、室町時代には太子信仰が盛んになり、当寺も寺坊三十坊以上を有する大寺として大いに繁栄したという。

 戦国時代になり信長、秀吉らの政策などにより衰微するが、『播磨の法隆寺』といわれるほど多くの文化財が所蔵されており、著名な古刹であることに変わりはない。

境内堂宇配置:
境内堂宇配置
 鶴林寺境内の諸堂配置を左の略図に示す。

 左の略図で境内への入口は下側(南側)であり、上側(北側)の三つの寺院(浄心院、宝生院、真光院)は鶴林寺の塔頭である。

見所など:
仁王門(1)
 鶴林寺の境内に入ると先ず、『聖徳皇太子御霊蹟』と彫られた大きな「石碑」(左の写真)が目につく。この奥側に「仁王門」があるが、この「石碑」は、聖徳太子縁の寺であることを強調したかったためであろうと思われるが、それにしても目立ちすぎている。
仁王門
 「仁王門」(左の写真)は寛文12年(1672年)に本堂の細部にならって建てられたものと考えられているようで、江戸時代末期に大修理、改造がなされたらしい。

 鶴林寺は『播磨路の古刹』とされているだけあって、「仁王門」は堂々として立派である。

 この
「仁王門」兵庫県文化財に指定されている。
本堂正面
 「仁王門」をくぐると正面に「本堂」(左の写真)が見える。

 外から見た「本堂」は屋根の強い反りに特徴がある。これは一見、中国風の建築を思わせるが、建築学的には和様と大陸様式の折衷であるとされているようで、折衷様の優れた代表的建物といわれている。

 「本堂」が建築された年代は内陣に安置されている厨子から応永4年(1397年)とされている。
本堂西面
 左の写真は「本堂」を西側から見たもので、屋根の反り具合がよくわかる。

 「本堂」国宝に指定されている。
本堂内
 左の写真は「本堂内部」で外陣から内陣の方を見たものである。写真でははっきり見えないが、天井部の梁に特徴があるが、これは禅宗様の様式であるという。内陣と外陣の境界は写真で見られるように菱欄間で区切られている。この境界は密教本堂の定法であるらしい。

 内陣には本尊の「薬師如来」をはじめ五体の仏像が安置されているというが、秘仏であり開扉は60年に一度とされている。


 薬師如来及び五体の仏像は全て重要文化財に指定されている。
菩提樹
 「本堂」の手前、本堂に向かって左側に「菩提樹」が植えられている。左の写真で垣で囲われた中にある木が「菩提樹」で、写真右側奥の建物が「常行堂」(後述)である。

 菩提樹は釈迦が35才の時、この木の下で悟りを開いたと伝えられている木である。釈迦が悟りを開いたとされる菩提樹はインド種であるが、日本では育たないため、当寺の菩提樹は中国種であるといわれている。

 写真中央の石碑には『成道の木 菩提樹』と彫られているが、当寺の説明によれば『成道』は『おさとりをおひらき』のふりがなが付けられている。
菩提樹の花
 菩提樹は本堂前の他に太子堂(後述)東側にもあり、太子堂の東側にある樹のほうが大きい。

 菩提樹は6月中旬に左の写真に見られるように黄色い小さな花を沢山咲かせる。花は独特の芳香を放ち、花を目当てに蜂が群がる。
菩提樹の花近景
 菩提樹の花を直近から見たのが左の写真である。花は鈴のようにぶら下がり、密集して咲いている。

 「菩提樹」を主たる花として、当寺は『関西花の寺二十五ヶ所』の第九番霊場になっている。
沙羅の樹
 「本堂」の手前、本堂に向かって右側に「沙羅の樹」が植えられている。左の写真で垣で囲われた中にある木が「沙羅の樹」で、写真左側奥の建物が「太子堂」(後述)である。

 沙羅の樹は仏教に因縁のある樹で、釈迦が亡くなったとき近くに生えていた沙羅の樹が枯れ、梢が鶴が飛ぶような形になったと伝えられている。

 本来のインド産の沙羅は日本では育たない。何故ナツツバキを沙羅の樹と言われるようになったかは、かつて、ある僧侶が沙羅の樹が日本にもある筈と考え探したところナツツバキを見て、これが沙羅の樹と思いこみ、広げたためとの説がある。
沙羅の花
 左の写真はナツツバキ(沙羅)の花である。開花時期は6月中旬〜下旬で、普通の椿とは咲く時期が全く違うし、葉も椿に似ていない。ただ、花の形状が椿に似ていること、夏に咲くことから、ナツツバキ(夏椿)と呼ばれているようである。
太子堂(1)
 「本堂」の東南側(本堂の前、右手)に檜皮葺きの「太子堂」が建っている。

 左の写真は「本堂」の前から見た「太子堂」の西面である。

 この建物は本来は法華堂であり、天永3年(1112年)の建立で兵庫県下最古の木造建築物であり天台系の法華堂建築として最古の遺構であるという。
太子堂(2)
 左の写真は同じく「太子堂」であり、北面及び西面を見たものである。

 内陣には釈迦三尊が祀られている。堂内は今は煤けているが、創建当時は極彩色の壁画で埋め尽くされていたと推測されている。

 堂内は時期により拝観料を払えば拝観可能であるが、年間を通じて常時可能かどうかはわからない。

 「太子堂」国宝に指定されている。

 「太子堂」を特に有名にしたのは堂内内陣壁面や小壁、柱などいたる所に描かれた「平安仏画(壁画)」が昭和51年(1976年)に発見されたことであろう。この「壁画」は赤外線写真により発見されたが、肉眼では全く見ることはできない。
壁画(1) 壁画(2)

 直上のコピー(鶴林寺発行のパンフレットより)は赤外線写真により数多く発見された「壁画」のうちの二つである。左側のものは釈迦入滅を描いた「涅槃図」の一部分であり、右側のものは「九品来迎図」(別称「還り来迎図」)の一部分である。

 「太子堂」内陣に祀られている
「釈迦三尊」、また上述の「九品来迎図」及び「涅槃図」を含め「太子堂」内の「壁画」15面重要文化財に指定されている。
鐘楼
 左の写真は「太子堂」の北側に建てられている「鐘楼」である。鐘楼としては大きな建物であり、外見から袴をはいたように見えるので、袴腰造りと呼ばれている。

 この「鐘楼」は応永14年(1407年)に建てられたとされており、本堂と同時代であり本堂と一連の建立であると考えられている。

 「梵鐘」は約千年前高麗時代に造られた朝鮮鐘で黄鐘調
(おうじきちょう)の音色を持つことで有名である。

 「鐘楼」「梵鐘」は共に重要文化財に指定されている。
観音堂
 「鐘楼」に東側に建てられているのが「観音堂」(左の写真)である。

 この「観音堂」は宝永2年(1705年)に時の姫路城主の寄進によって再建されたものといわれている。もともと、この「観音堂」には「金銅聖観音立像」(後述)が祀られていたが、明治時代の神仏分離政策により浜の宮神社に祀られていた木造聖観世音菩薩をこの「観音堂」に移し、本尊として内陣須弥壇上の厨子内に秘仏として祀られるようになったとされている。
金銅聖観音像
 上述したように、かつて「観音堂」に祀られていたとされる「金銅聖観音立像」(左のコピー:鶴林寺発行のパンフレットより)は、愛太子観世音、別名:あいたた観音とも呼ばれており現在、宝物館に保存されている。

 この「金銅聖観音立像」は鶴林寺所蔵の数多くの重要文化財の中でも至宝とされているもの一つであり、白鳳時代(約1300年前)に造られた青銅に金箔を貼った金銅仏で、白鳳仏の傑作として有名である。

 昔、泥棒がこの「聖観音立像」を盗み出し、金を溶かして取ろうとしたが失敗した。泥棒が腹を立て観音像を槌でたたいて壊そうとすると『あいたた』という声が聞こえた。泥棒は改心し観音像を返したが、槌でたたいた腰部が曲がったまま現在に至っている、という言い伝えがあるという。

 「金銅聖観音立像」重要文化財に指定されている。
護摩堂
 「観音堂」の東側に比較的小さい堂「護摩堂」(左の写真)が建てられている。

 「護摩堂」は永禄6年(1563年)の建立で、不動明王が祀られている。堂内部中央に護摩壇があり、火を焚いて不動明王と自分とが一体になる祈祷を行う堂である。

 「護摩堂」重要文化財に指定されている。
法華一石一字塔
 「太子堂」の東側に左の写真に見られるような塔「法華一石一字塔」が建てられている。

 この塔は明和8年(1771年)に建てられた供養塔で、法華経の文字を一つの石に一字ずつ書いたもの千部を納め回向し、三界万霊の菩提を弔ったという。正面には『きょうげん』(『きょう』の字は『龍』の字の下に『共』と書く)と書かれており、これは『言葉をつつしむ』と言う意味である。
常行堂
 「本堂」の西南側(本堂の前、左手)に建てられているのが「常行堂」(左の写真)である。

 「常行堂」は「太子堂」とほぼ同じ時期に建立されたものといわれており、当初は檜皮葺きであったが永禄9年(1566年)に瓦葺きに変えられたとされている。

 ここでは常行三昧という阿弥陀仏を唱えながら休むことなく何十日も歩き巡る厳しい修行が行われていたという。この「常行堂」は常行三昧を行う堂宇としては現存最古のものといわれている。

 「常行堂」重要文化財に指定されている。
三重塔
 「仁王門」から「本堂」までのほぼ中間地点、本堂に向かって左手に「三重塔」(左の写真)が建てられている。

 この「三重塔」は各重の低減率、軒反りの形式などから見て室町時代の建築と考えられているが、初重は文政年間(1818〜1830年)の大修理の時、殆ど新材で補修されたという。また、相輪は昭和25年に改鋳されたものといわれている。

 初重に築かれた須弥壇の壇上には大日如来坐像が安置されている。

 鶴林寺には上述以外の堂宇が数多くあり、また、文化財の宝庫でもある。上述したように国宝2点(本堂及び太子堂)の他に数多くの重要文化財を所蔵している。

 建築物及びその中に安置されている仏像や壁画を除き、多くの重要文化財や寺宝は「宝物館」に保存、展示されている。「宝物館」は「本堂」の東北側、「観音堂」の北側で宝生院の傍にあり、別途拝観料が必要であるが、内部に展示されている文化財を拝観見学しておく価値は十分にある。

御詠歌:いにしへの鶴の林にちるはなの匂(におい)をよする高砂の風

2007年7月4日最終更新
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