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新西国二十四番
上野山 須磨寺
(じょうやさん すまでら)
所在地及びアクセス:

 神戸市須磨区須磨寺町4丁目
須磨寺所在地図
 山陽電鉄本線「須磨寺」駅下車。駅出口を出て直ぐに左折する。須磨寺前商店街を北西の方向に約300m進むと信号のある交差点に着く。交番の横に立てられている「大本山須磨寺」と彫られた石標を見て直進すると須磨寺に着く。
 「須磨寺」駅から須磨寺まで徒歩7〜8分。

宗派:真言宗須磨寺派本山

本尊:聖観世音菩薩

開基:聞鏡上人

縁起:
朱印
 当寺は仁和2年(886年)に聞鏡上人が勅命を受けてこの地に七堂伽藍を建立し、和田岬の海中から出現し北峯寺に安置されていた聖観音坐像を移し、祀ったことにはじまると伝えられている。

 一時は隆盛を極めたようであるが、その後、幾たびかの火災により荒廃し、幕末には本堂、大師堂、仁王門を残すのみになり荒廃の極に達したといわれている。

 明治中期以降、復興につとめ、多くの堂宇を再建、新築し次第に旧観に復し現在に至っているようである。

 なお、本寺の正式名称は「福祥寺」であるが、「須磨寺」の通称名のほうが有名であり、また「須磨のお大師さん」という呼び名でも親しまれている。

見所など:
商店街から参道へ
 駅前から続いている須磨寺前商店街がきれる辺り、信号のある交差点の手前に「須磨寺」と書かれた額の架かった門のようなものが建てられている(左の写真)。

 交差点を渡った所に「大本山須磨寺」と彫られた石碑が建てられており、この辺りから寺の雰囲気が漂っている。
竜華橋と仁王門
 駅から歩いてくると境内入り口に当たると思われるところに赤い欄干の「龍華橋」が架かっている。橋の手前左側には須磨寺の塔頭の一つで愛染明王を本尊とする「正覚院」があり、橋の奥には「仁王門」が見える(左の写真)。
仁王門
 「仁王門」(左の写真)は寺の規模から見て大きいものではない。

 この「仁王門」は源頼政の再建になるものとされており、仁王像は運慶及び湛慶の作といわれているようであるが、
作者については確かなことは言えないのではなかろうか。
五鈷水
 「仁王門」をくぐって直ぐ右側に手水場があるが、これには「五鈷水」という名称が付けられており、「弘法岩」と名付けられた大きな岩が置かれている(左の写真)。

 この手水場は見た目に新しく、平成12年4月に建てられたようである。須磨寺の説明によれば、ここに手水場の建設を計画したのが平成12年初めであり、弘法大師の宝前でお祈りすると、きれいな水が山中で湧き出すことがわかり、弘法大師に因んでその水を「五鈷水」と名付けたという。

 ある朝、建設予定地に立っていると、僧形がぼんやりと浮かんできたので、これは弘法大師の姿であると考え、そのような石を求めて訪ね歩いた結果、四国の石鎚山の麓で高さ2.7m、重さ13トンの大岩が見つかり、この場所に運ばれたとされている。これが写真中央に見られる「弘法岩」である。確かにこの岩はよく見ると僧が座っている姿に似ており、五鈷は胸のあたりで手を合わせたとみられる位置に置かれている。
源平の庭
 「仁王門」をくぐり奥に進むと本堂へ上がる石段があるが、その石段下左側に「源平の庭」(左の写真)がある。

 この庭は一ノ谷での平敦盛(写真右側の後姿)と熊谷直実(写真左側)の一騎打ちの場面をあらわしているという。一ノ谷で平敦盛が殺されるが、このことは平家物語のなかで語られている。
ただ、この庭から平家物語に書かれている悲しさは伝わってこない。
ぶじかえる
 「源平の庭」の奥に「宝物館」があるが、その入り口の所に「ぶじかえる」と名付けられた蛙を模した石像が置かれている(左の写真)。

 「ぶじかえる」の首と目玉は自由に回転するようになっており、びっくりしたい人は目玉を、借金で困っている人は首を回すようにとの説明書きがある。ただ、かえると須磨寺との関係がわからないし、須磨寺に参拝すると、びっくりしたい人や借金で困っている人に霊験があるというのもわからない。
弁慶の鐘
 「源平の庭」の奥にある「宝物館」には寺宝が保管されており、これらは入場無料で常時公開されている。

 展示品の一つに「弁慶の鐘」がある(左の写真)。一ノ谷の合戦の時、弁慶が山田庄の安養寺から担いできて陣鐘の代用にしたと伝えられている鐘であるが、この辺りの話は多分に伝説じみている。

 「宝物館」に所蔵されている代表的な宝物は「青葉の笛」とされている。「青葉の笛」は平敦盛が一ノ谷の合戦で討たれる時まで常に身につけていたとされている笛である。

 その他、平敦盛の木像など展示されているが、ただ、展示物の数、内容からもあまり期待しない方がよい。
唐門から本堂
 「仁王門」から真っ直ぐに進むと上述のように、左手に「源平の庭」があるが、これを通り過ぎると石段がある。石段を上がると「唐門」があり、その奥に「本堂」が建てられている。

 左の写真は「唐門」とそれを通してみた「本堂」である。
本堂
 「本堂」は火災などにより幾たびか焼失しており、何回か建て直されているようである。現存の「本堂」(左の写真)は慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が再建したものといわれている。

 「本堂」は平成13年(2001年)に改修工事が行われており、そのためか
見た目にはきれいであるが、由緒ある寺としては古い感じがほしい気もする。
本堂正面近影
 左の写真は「本堂」の正面であり、この奥にある内陣は「宮殿」と呼ばれているという。この中には本尊の聖観世音菩薩が脇侍と共に祀られている。

 「宮殿」の建造は「本堂」自体の建造よりも古く、応安元年(1368年)に造られたと伝えられているようである。


 「宮殿」、本尊「聖観世音菩薩」は共に重要文化財に指定されている。
大師堂
 「本堂」の左側(西側)にこぢんまりとした堂、「大師堂」が建っている(左の写真)。

 ここには弘法大師が祀られており、『須磨のお大師さん』として毎月の縁日には多くの信者のお参りがある。

 大正時代のさすらいの俳人、尾崎放哉は9ヶ月余りの期間、この堂の堂守をしていたことがあるといわれている。
放哉句碑
 これに因み、「本堂」の前、左側で「大師堂」の前近くに「尾崎放哉の句碑」が立てられている。左の写真がその句碑であるが、これには放哉の作である『こんなよい月をひとりで見て寝る』という句が彫られている。

 彼の代表的な句の一つである『咳をしても一人』などにみられるように特異な俳句を詠み、我が儘な生涯を送り小豆島で悲惨な死を遂げた尾崎放哉であるが、彼の生涯については吉村昭の著書『海も暮れきる』に詳しい。
義経腰掛松
 「大師堂」の前に見た目には汚れた古い松の木の一部が簡単な建家の中に置かれている(左の写真)。

 一ノ谷での源平合戦の戦勝後、義経はこの松に座って平敦盛の首を実地検分したと伝えられており、「義経腰掛松」と呼ばれている。
敦盛首洗池
 上述の松の木の手前下側に小さな池(水たまりと言ったほうがいいかもしれない)がある(左の写真)。

 この池で一ノ谷合戦で討ち取った敦盛の首を洗ったといわれており、「敦盛首洗池」と呼ばれているようである。ただ、この話は伝説的であり真実かどうかはわからない。
神功皇后の竹
 「大師堂」の西側に「納骨堂」があり、更にその西側(左側)に一寸した竹藪ーーというよりも竹の密生した場所というほうが妥当かもしれないーーがある(左の写真)。

 これは「神功皇后釣竿竹」と呼ばれている。神功皇后が三韓よりの帰途に今の佐賀県の松浦川で鮎釣りをしたということが日本書紀に書かれているようであるが、その時に使った釣り竿をこの場所に埋めたところ、竹が芽生えたと伝えられている。それが繁茂しこのような竹藪になったという。
ただ、これなどは科学的根拠のない単なる伝説であろう。
三重塔
 「納骨堂」の西側にある広場の更に西側やや高い場所に「三重塔」が建てられている(左の写真)。

 かつての「三重塔」は約400年前の文禄大地震により倒壊したようで、現存の「三重塔」は見た目にも新しく、弘法大師1150年忌、平敦盛800年忌、当寺開創1100年を記念して昭和59年(1984年)に再建されたものといわれている。

 「三重塔」は室町時代の様式を取り入れ、内部には大日如来を祀っているらしいが、通常、直接の拝観はできない。また、四方扉の内面に六ヶ国語で般若心経が刻銘されていること、などがこの塔の特徴になっているという。
親子地蔵
 「三重塔」の西側に「親子地蔵尊」(左の写真中央奥側)、また地蔵尊の前には「きんぽとん童子人形塚」(左の写真で左手前)が建てられている。  

 実在の人、土井愛子は大正2年に川上家に嫁いで翌年長女初音を生むが、家庭は不和で愛子、初音母子は須磨沖に身を投じる。二人の死体は翌朝、須磨浦に漂着し、当寺で葬儀が営まれたという。

 このことが家庭悲劇『須磨の仇波』の名で新聞紙上に連載され、また、後に映画、演劇として上演され、人々の涙を誘い有名になったようである。

 大阪の笹木徳松氏、神戸の小坂ふさ氏によって、故人の霊を慰めると共に将来にわたり家庭不和に泣く者がないよう念願して、赤子を抱いたこの地蔵尊が建立されたといわれており、南天棒老師によって開眼されたという。
敦盛首塚
 「親子地蔵尊」の更に西側に「敦盛首塚」がある(左の写真)。

 「義経腰掛松」、「敦盛首洗池」の所にも記述したとおり、敦盛の首が当寺に持ってこられたものと考えられるが、首がこの場所に埋められたかどうかは明確ではないように思われる。なお、一ノ谷にも敦盛塚があるが、これは胴塚といわれているようである。

 かつて、この塚に笛を納めて子供の健康を祈る習慣があったという。
奥の院
 「敦盛首塚」の西側に「奥の院」への参道がついている。

 参道を登ると、かなり高い場所に弘法大師を祀っている「奥の院」がある(左の写真)。須磨寺への参拝者もこの「奥の院」まで登ってくる人は少ないようである。

 「奥の院」の前の広場の片隅に高野山を遙拝する場所が設けられているのも、この「奥の院」に祀られているのが弘法大師であるが故であろう。
十三重塔
 「本堂」の東側には「護摩堂」が建てられており、更にその東側には「十三重石塔」がある(左の写真)。

 通常、十三重塔は死者の冥福を祈るために建てられるとされているようであるが、この石塔は誰の冥福を祈って建てられたものかよくわからないらしい。

 礎石の銘から、この石塔は嘉暦2年(1327年)に建てられたものとされ、鎌倉時代の数少ない石塔であるといわれている。

 写真でもわかるとおり、塔の下部に梵字が彫られている。字の大きさ、彫り方などから造られた時代の特徴がよく出ているという。

 塔の上部に見られる小さな突起は水煙と呼ばれている飾りで、石造物では珍しいものとされている。

 この
「十三重石塔」兵庫県文化財に指定されている。
芭蕉句碑
 「本坊」前の庭の片隅に「芭蕉句碑」が建てられている(左の写真)。

 この句碑にはかつて芭蕉が須磨寺に参拝したときに詠んだとされている句、『須磨寺やふかぬ笛きく木下闇』が書かれている。

御詠歌:世にひびく青葉の笛の名にぞきくすまのみ寺の松風の声
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Yukiyoshi Morimoto