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新西国第二十三番
宝積山 能福寺
(ほうしゃくざん のうふくじ)
所在地及びアクセス:

 神戸市兵庫区北逆瀬川町
能福寺所在地図
 山陽本線(JR神戸線)「兵庫」駅下車。改札口を出て南側に進む。国道2号線(高架は阪神高速道路)の下に設けられている地下道を通り、2号線に沿って北東の方向に進み、最初の信号のある浜崎通交差点で南の方向に折れ、次の入江通2の交差点で南側に関西電力の営業所を見て東の方向に進む。二つ目の信号の交差点を北に曲がって数十メートル進むと左手に能福寺の門がある。 

宗派:天台宗

本尊:十一面観世音菩薩

開基:伝教大師最澄

縁起:
朱印
 桓武天皇の勅命により中国に留学していた伝教大師最澄が帰途、兵庫和田岬に上陸し、延暦24年(805年)に歓待した庶民によって建てられた堂宇に大師自ら刻んだ薬師如来像を安置し、能福護国密寺と称したのが当寺の開創と伝えられ、伝教大師による我が国最初の教化霊場とされている。

 治承4年(1180年)に平清盛が福原遷都のとき、平家一門により七堂伽藍が完成し、隆盛したが、平家滅亡後、暦応4年(1341年)に兵火により全焼したといわれている。その後、慶長4年(1599年)に長盛法印によって能福寺は再建されたと伝えられている。

見所など:
本堂前の門
 寺は車の往来の多い道路に面して建てられている。通常、寺にあるような山門はなく、本堂の前には左の写真に見られるような門がある。

 ただ、この本堂前の門は通常開けられていないようで、境内への入り口はこの門の南側に設けられている。
大仏前の門
 境内へは通常、大仏前の門(左の写真)から入る。

 大仏は「兵庫大仏」と呼ばれれており、建物に遮られていなければ、かなり離れた場所からでも見ることができる。

 初代の「兵庫大仏」は明治24年(1891年)に豪商南条莊兵衛によって建立されたといわれており、奈良、鎌倉と共に日本三大仏に数えられたという。
兵庫大仏
 初代の大仏は今時大戦中の昭和19年(1944年)5月に解体、金属回収供出され、また、翌年3月には神戸大空襲により伽藍は全焼したといわれている。

 現在の「兵庫大仏」(左の写真)は二代目になる。

 この「兵庫大仏」は多数の檀徒市民や企業の協賛により47年ぶりに再建されたもので、平成3年5月の開眼法要には比叡山天台座主を導師として、奈良東大寺管長、鎌倉大仏貫主臨席の許で盛大に挙行されたといわれている。

 大仏の高さは11m、台座の高さは7m、重さ約60トンで総工費は約5億円を要したという。
兵庫大仏と台座建物
 大仏の台座の建物は「ビルシャナ殿」(左の写真)と呼ばれているようで、ここに札所本尊の「十一面観世音菩薩立像」が安置されているようである。

 「十一面観世音菩薩立像」は弘仁年間(810〜824年)の作といわれており、重要文化財に指定されている。
本堂
 大仏の北側に「本堂」(左の写真)が建てられている。

 この「本堂」は京都東山の月輪御陵にあった拝殿「月輪影殿」を昭和28年(1953年)に宮内庁と九条家より拝領し移築したもので、歴代天皇が参拝した由緒ある建物といわれている。

 本堂は平成7年の阪神大震災で大破したが、平成12年に以前の姿に復旧した。
ジョセフ・ヒコ英文碑
 本堂前の入り口と本堂の間、本堂に向かって右手に「ジョセフ・ヒコの英文碑」(左の写真)が建てられている。

 石碑表面下側には漢字が書かれているが、その上側に写真ではよく分からないが、英文で能福寺の縁起が書かれている。

 神戸に来た外国人が有名な兵庫大仏へ多数訪問に来るところから、明治25年頃、第19世住職加藤慈晃師がジョセフ・ヒコに依頼して縁起を英文にしたものという。

 ジョセフ・ヒコ(浜田彦造)はリンカーン大統領と握手した唯一の日本人で、下田港で開国を迫ったペリー提督の通訳を務めた人といわれている。
平相国廟
 大仏の手前、大仏に向かって左側(南側)に平清盛の墓「平相国廟」(左の写真)がある。

 平清盛は仁安3年(1168年)に能福寺で剃髪入道、後、養和元年(1181年)に京都で死去した。清盛の遺骨は遺言に従い能福寺の寺領内にあった八棟寺に埋葬され、平相国廟が造立されたという。
十三重石塔
 その後、平家の滅亡により能福寺と共に「平相国廟」も灰燼に帰したが、約100年後の弘安9年(1286年)に時の執権北条貞時が平家一門の盛衰を哀れみ、石塔を建て清盛の霊を弔ったと伝えられている。

 この時の石塔が現在に伝わる「十三重石塔」(直上写真中央の石塔及び左の写真)であるといわれている。

 平清盛の八百年回忌を迎えるに際して、昭和55年に平相国廟がここに復興再建されたという。

 「平相国廟」の復興に伴い、「十三重石塔」の右側に、かつて能福寺の住職で清盛剃髪出家の師匠である圓實法眼を弔った「圓實法眼宝篋印塔」、左側には清盛の弟教盛の長子で圓實法眼の弟子であり、かつて能福寺の住職であった忠快を弔った「忠快法印塔(九重塔)」も同時に建てられたようである。これら両印塔は何れも鎌倉時代の作といわれている。


 「十三重石塔」兵庫県文化財に指定されている。
滝善三郎慰霊碑
 大仏前の入り口を入って直ぐ左側やや奥まった場所に「滝善三郎正信慰霊碑」(左の写真)がある。

 慶応4年(1868年)1月11日、現在の神戸三宮付近で西宮警備の命を受けた備前藩士の行列を横切った外国人を傷つけたのが発端となり、衝突が起こり、神戸事件として国際問題になったようである。
 
滝善三郎切腹の絵
 備前藩では滝善三郎正信を責任者として同年2月9日、各国代表者立ち会いのもと永福寺で切腹させ事件の解決を図ったとされている(左のコピー:能福寺の説明版より)。これで一応の解決をみたようであるが、市民は滝善三郎を事件の犠牲者として哀れみ、永福寺に慰霊碑を建てたとされている。

 永福寺は昭和20年(1945年)の神戸大空襲により、焼失したが、慰霊碑は残ったようで、昭和44年(1969年)、百回忌に際し慰霊碑は当寺に移されたとされている。

御詠歌:ただ法(のり)の宝を積みてはるばると運ぶ歩みの楽しかりけり
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Yukiyoshi Morimoto