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新西国第二十一番
甲山 神呪寺
(かぶとやま かんのうじ)
所在地及びアクセス:
神呪寺所在地図
 兵庫県西宮市甲山町

 阪神電鉄「西宮」駅下車。駅北側の阪神電鉄バス7番のりばから「鷲林寺循環」に乗車する。循環バスは「西まわり」と「東まわり」があるが、何れでもよい。「甲山大師前」で下車するとバス停から「神呪寺」まですぐ。
 バスの運行頻度は「西まわり」、「東まわり」合わせて9時〜16時の間について、1時間に1〜4便。4便あるのは平日10時台のみ。多くの時間帯は1時間に2便(2001年8月現在)。
 他のアクセス方法として:「西宮」駅北側の阪神電鉄バス1番のりばから「山手線循環、西まわり」又は2番のりばから「山手線循環、東まわり」の何れかのバスに乗車し「大師道」で下車する。バス停の傍の信号のある交差点を北の方向に進む。登り坂道が続いているが道なりに徒歩約25〜30分で道路右側に「神呪寺」が見える。
 バスの運行頻度は「西まわり」、「東まわり」合わせて9時〜16時の間について、1時間に6〜11便。殆どの時間帯は1時間に6〜7便あり、「鷲林寺循環」バスにくらべてバス便は格段に多く、こちらの方が便利である(2001年8月現在)。

宗派:真言宗御室派別格本山

本尊:如意輪観世音菩薩

開基:如意尼公
朱印
縁起:

 淳和天皇の妃、真井御前(まないごぜん)は弘法大師に帰依し仏門に入り如意尼と改名して、天長8年(831年)に本堂を竣工し、神呪寺を開基したと伝えられている。

 如意尼は弘法大師から真言秘法を授けられ、承和2年(835年)33歳で亡くなるまで、仏道に帰依し精進したという。

その後、寺は栄枯盛衰を繰り返したようであり、最も栄えた頃の境内は現在の境内の十倍以上あったといわれている。

 この寺は弘法大師に縁が深いため、正式名称の「神呪寺」よりも、通称名の「甲山大師」の方がよく使われており、有名である。

見所など:
仁王門
 バスの通っている道路の南側に「仁王門」(左の写真)が建っており、一方、北側には神呪寺の堂宇が集まって建っている。即ち、「仁王門」から「本堂」に至る参道が途中で車の往来の激しい道路によって遮断されているという奇妙な境内構成になっているのである。

 見たところ「仁王門」が忘れられたような存在になっている。
鐘楼
 「仁王門」は文化元年(1804年)に建立されたようで、仁王門としては異形であり珍しいといわれている。

 この
「仁王門」西宮市の文化財に指定されている。

 参道の石段を上っていくと最初に目につく建物は石段の右手上方に見える「鐘楼」(左の写真)と正面の「本堂」であろう。

 この「鐘楼」や「鐘」自体には特に文化財としての意味はないようであり、誰でも鐘を撞くことが出来る。但し、せこい話であるが1回撞くのに20円支払う必要がある。

 石段を上りきると正面に規模は大きくはないが整った感じのする「本堂」が見える。現存の「本堂」(直下の写真)は江戸時代に建立されたものといわれている。
本堂
 本堂に安置されている本尊、「木造如意輪観世音菩薩坐像」は寺の背後の甲山山頂にあった桜の木を用い、天長7年(830年)に弘法大師が如意尼の姿を写して刻んだものと伝えられているが、実際は平安時代の10世紀末〜11世紀初め頃の作品らしい。

 本尊「木造如意輪観世音菩薩坐像」は観心寺(新西国客番、別ページ参照)及び大和の室生寺とともに日本三如意輪の一つとされ重要文化財に指定されている。なお、本尊は秘仏であり、毎年5月18日に開扉される以外直接の拝観は出来ない。
大師堂
 「本堂」の左手に、本堂に近接して「大師堂」が建てられている(左の写真)。

 「大師堂」の正面に「甲山大師」と書かれた額がかけられており、厨子の中には「木造弘法大師坐像」が安置されているようであるが、直接拝観することはできない。


 「木造弘法大師坐像」は弘法大師58歳の姿と伝えられ、ヒノキ材の寄せ木造りで鎌倉時代の作とされ、重要文化財に指定されている。
不動堂
 「本堂」の右手に、本堂に近接して「不動堂」が建てられており、更にその右側には「納骨堂」が建てられている(左の写真中央にあるのが「不動堂」でその右側に半分ほど写っているのが「納骨堂」)。写真で「不動堂」の背後に見えている山が「甲山」である。

 「不動堂」には「木造不動明王坐像」が安置されているようであるが、これも厨子内に置かれており直接の拝観はできない。また、「納骨堂」には「木造聖観音立像」が安置されているようである。

 「木造不動明王坐像」はヒノキ材の一本造りで、鎌倉時代の作とされ、また、「木造聖観音立像」の方もヒノキ材の一本造りで、平安時代の作とされている。

 「木造不動明王坐像」、「木造聖観音立像」共に重要文化財に指定されている。
甲山への入り口
 「納骨堂」の右手に「甲山」の額がかかった鳥居が建っている(左の写真)。

 この鳥居をくぐると細い道がついており、この道は「甲山」へ登る登山道になっている。

 この道の二つ目の鳥居をくぐると、「納骨堂」の裏手に「多宝塔」が見える。
多宝塔
 この「多宝塔」(左の写真)は天長8年(831年)に神呪寺が開創されてから1150年目にあたる昭和55年に国家安泰、十方施主、万徳円満を祈願し、神呪寺の無窮の興隆を念願して建立されたといわれている。

 「多宝塔」の本尊として大日如来が安置されており、また、内部には金剛胎蔵の曼荼羅を祀っているとされているが、内部を拝観することはできない。

 「甲山
(かぶとやま)」は爆発することなしに溶岩が塊状となって持ち上げてできた山といわれ、西宮のシンボルとされているようである。

 「甲山」の名称の由来は、西暦190年頃仲哀天皇の皇后である神功皇后が国家平安守護にため、山頂に如意宝珠と兜を埋めたことに基づくと伝えられているが、実際は山の形が兜に似ていることによるのではないかといわれている。

御詠歌:来てみればすがたも花のかぶと山寺もわが身も薄雲の中
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Yukiyoshi Morimoto