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新西国第十八番
比叡山 延暦寺横川中堂
(ひえいざん えんりゃくじよかわちゅうどう)
所在地及びアクセス:
延暦寺横川中堂所在地図
 滋賀県大津市坂本本町

 JR湖西線「比叡山坂本」駅下車。JRの駅前から比叡山坂本ケーブル「ケーブル坂本」駅又はその近くまでバスが運行されているが、9月、10月の日曜祝日及び11月の土日曜祝日以外はバスの運行頻度は少ない(バス時刻は下記参照)ので歩いた方が便利である。
 JR「比叡山坂本」駅から湖西道路の高架下をくぐり西の方向に進む。日吉大社の前を南の方向に曲がり約200m進むと右手に比叡山高校があるので、その下を西の方向に進むと「ケーブル坂本」駅に着く。JR「比叡山坂本」駅まで徒歩25〜30分。
 ケーブルで終点の「ケーブル延暦寺」まで上がり(乗車時間約11分)、北西の方向に道なりに進むと徒歩約10分で延暦寺東塔地区に着く。
 東塔地区の「延暦寺バスセンター」から比叡山内シャトルバス「横川
(よかわ)」行きに乗車する。西塔地区へは途中、「西塔(さいとう)」で下車する。新西国十八番札所の横川中堂へは終点の「横川(よかわ)」で下車する(乗車時間約13分)。バス停から東の方向へ道なりに進むと、延暦寺横川地区の中心にあたる横川中堂に着く。
 比叡山内シャトルバス「横川」行きは「延暦寺バスセンター」発10:06から16:36まで30分毎に運行されているが、シャトルバスの運行期間は3月20日〜11月30日及び1月1日〜1月3日であり、冬期(1月1日〜1月3日を除く)は運休している。

 JR「比叡山坂本」駅前からのバス発車時刻は次の通り(2001年11月現在)。
「石山駅」行
(京阪バス)
「坂本ケーブル乗場」
で下車
(a)
「西教寺」行
(江若バス)
「日吉大社前」
で下車
(b)
「ケーブル坂本駅」行*
(江若バス)
「ケーブル坂本駅」
で下車(c)
 8  --  22 [48] {49}  --
 9  --  38  --
10  39  15  06 36
11  39  00 53  06 38
12  39  --  06
13  39  05  04 28
14  39  05  04 28
15  39  05 52  04 28
16  39  52  04 28
(注) [48]:平日運転  {49}:土曜、日曜、祝日運転
:9月、10月の日曜、祝日及び11月の土曜、日曜、祝日運転
(a):西の方向へ比叡山高校の下を徒歩2〜3分で「ケーブル坂本」駅に着く。
(b):日吉大社の前を南の方向に曲がり、約200m進み右手に見える比叡山高校の下を西の方に進むと「ケーブル坂本」駅に着く。
(c):バスは「ケーブル坂本」駅前に着く。

宗派:天台宗総本山

本尊:聖観世音菩薩

開基:伝教大師(最澄)

縁起:
朱印
 奈良東大寺で具足戒を受けた最澄上人が理想の布教地を比叡山に求め、延暦7年(788年)に自ら刻んだ薬師如来像を『一乗止観院』と称した庵に安置したといわれており、これが延暦寺の創始と伝えられている。

 最澄上人は延暦23年(804年)に唐に渡り、翌年帰国する。帰国後、天台宗を開き『一乗止観院』を現在の呼び名の『根本中堂』に改称したとされている。

 現在の寺名である『延暦寺』と呼ばれるようになったのは最澄上人没後の弘仁14年(823年)といわれている。その後、他山の僧兵との争いなどで屡々多くの堂を焼失したが、その都度復興されてきたという。

 最澄上人のあと、比叡山から、法然、親鸞、道元、日蓮などの名僧、高僧を輩出している。

 元亀2年(1571年)に織田信長の軍勢によって比叡山全山全て焼き払われ、僧侶や坂本の町から逃げてきた一般の人合わせて二千人以上の人々が殺されたという。その後、秀吉、家康によって寺は復興されるが、その傷跡は大きく、今でも比叡山は怖いというイメージは残っているという。

見所など(東塔地区):
根本中堂(1)
 東塔地区の中心的な建物は延暦寺の総本堂でもある「根本中堂」である(左及び直下の写真)。

 現存の「根本中堂」は寛永17年(1640年)に建造されたものといわれ、最澄上人の時代から数えて8代目になるという。木造建築では日本で三番目の大きさといわれており、その規模の大きさに圧倒される。
根本中堂(2)
 「根本中堂」国宝に指定されている。

 内陣須彌壇の上、中央の厨子内に最澄上人の作といわれる本尊薬師如来が安置されているといわれているが、秘仏であり直接の拝観はできない。尤も内陣は実に暗く、仮に厨子が開扉されていたとしても厨子内を見ることは不可能であろう。

 本尊が安置されている厨子の前には菊の紋章が描かれている六角形をした三個の釣灯篭があり、ほのかな光を放っている。
不滅の法灯
 これが延暦寺創始以来1200年間消えたことがないという「不滅の法灯」である(左のコピー:JRのパンフレットより)。法灯は周囲の暗さの中で実に神秘的な雰囲気を醸し出しており、中陣正面横に座っているとこの雰囲気に引き込まれてしまう。

 かだ、厳密に言えば「不滅の法灯」が1200年間消えたことがないというのは正しくない。

 約430年前織田信長により「根本中堂」も焼き払われており、この時、「法灯」も当然消えている。「法灯」は山形の立石寺に分灯されており、この灯を持ってくることにより「不滅の法灯」を継続させたという。
戒壇院
 「根本中堂」の西側に「大講堂」、更にその西側の小高い場所に「戒壇院」(左の写真)が建っている。

 数多くの堂宇のある東塔地区の中では、決して大きくはないが印象に残る建て物である。

 天台宗の僧が大乗戒を受ける堂で、比叡山中で最も重要な堂の一つとされている。

 最澄上人は大乗戒壇院の建立に心血を注いでいたが存命中は果たせなかったと伝えられており、死後7日目に嵯峨天皇より勅許が下り、第一世義真座主により天長5年(828年)に「戒壇院」が創建されたといわれている。

 「戒壇院」重要文化財に指定されている。

 東塔地区には以上記載の堂宇の他に「法華等持院東塔」、「阿弥陀堂」、「文殊楼」、「山王院」、千日回峰行の地「無動寺谷」、それに文化財が保存展示されている「国宝殿」、また、西塔地区との間にあり比叡山第一の浄域とされ伝教大師最澄の御廟のある「浄土院」など、見るべき場所は多い。

見所など(西塔地区):
にない堂
 「西塔」バス停から参道に入り北の方向に進むと、渡り廊下で繋がった二つの堂がある(左の写真)。

 向かって左の堂は「法華堂」、右は「常行堂」が正式名称であるが、合わせて「にない堂」と呼ばれている。この呼び名は弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだという伝説に基づいているといわれている。

 「法華堂」の本尊は普賢菩薩、「常行堂」の本堂は阿弥陀如来である。「にない堂」では『四種三昧行』という行が行われるといわれているが、これはかなり過酷な修行らしい。

 「法華堂」「常行堂」ともに重要文化財に指定されている。
釈迦堂
 「にない堂」の渡り廊下の下をくぐると石段があり、石段下の広場の奥に西塔地区の中心的存在の「釈迦堂」(左の写真)が見える。

 貞和3年(1347年)に建てられた園城寺の金堂を、豊臣秀吉の命により文禄4年(1596年)にここに移築したものであるといわれている。

 「釈迦堂」は典型的な天台様式の堂で、延暦寺に現存する建物では最古のものらしい。本尊は鎌倉時代に造られたという木像釈迦如来立像である。

 「釈迦堂」本尊「木像釈迦如来立像」は共に重要文化財に指定されている。

 西塔地区には上記の堂宇の他に「椿堂」、「親鸞上人修行の地」、織田信長の比叡山焼き討ちを免れた唯一の建築物である「瑠璃堂」などの見所がある。

見所など(横川地区):
横川中堂(1)
 「横川」バス停から参道に入り最初に見る大きな建物は石垣の上に建っている舞台造りの「横川中堂」である(左及び直下の写真)。「横川中堂」は横川地区の中心をなしている堂である。

 横川は最澄上人の教えに従って慈覚大師円仁が開いたといわれている場所であり、円仁が嘉祥元年(848年)に観音堂として創建したのが「横川中堂」と伝えられている。

 織田信長の比叡山焼き討ちにより、「横川中堂」も全焼したが、後に豊臣秀頼により再建されたといわれている。
横川中堂(2)
 現存の堂は昭和46年(1971年)に建造されたものといわれ、それだけに外観は新しく、朱色の塗装も鮮やかである。

 「横川中堂」に安置されている本尊「木造聖観世音菩薩立像」は平安時代の作と伝えられ、この仏像は度重なる火災の難を免れているというが、多くの苦難を経過しているように思えない柔和な感じがする。

 この本尊「木造聖観世音菩薩立像」重要文化財に指定されている。
根本如法塔
 「横川中堂」西北側、細い坂道を上ったところの木立の中に鮮やかな朱色に塗られた二重の塔、「根本如法塔」(左の写真)が見える。

 横川を開いた慈覚大師が天長年間(824〜832年)に法華経を写経し、如法堂に安置したと伝えられている。

 大正12年(1923年)に如法堂跡に塔を建てるための工事中に経箱が発見されたという。銅製の箱に金メッキが施され、蓋には「妙法蓮華経」と書かれていたようで、後に、この箱は
「金銅経箱」として国宝に指定されている。

 現存の「根本如法塔」は大正14年(1925年)に建立されたようである。
元三大師堂本堂
 「横川中堂」の前の参道を東の方向へ進むと「元三(がんざん)大師堂」(左の写真)に着く。

 この場所は天台宗中興の祖とされている慈恵大師良源(元三大師)の住坊跡とされており、元三
(がんざん)大師の画像が本尊として祀られている。また、ここはおみくじ発祥の寺といわれている。

 康保4年(967年)から村上天皇の命により春夏秋冬に法華経の論議法要が「元三大師堂」で行われたので、ここは「四季講堂」とも呼ばれている。
比叡山行院
 「元三大師堂」から東側に歩いて2〜3分の所に「比叡山行院」(左の写真)がある。

 ここは天台宗の修行道場であり、修行時には読経の声が地の底からわき上がるように響き渡っている。この辺りの奥比叡は観光客も少なく、修行道場として最適の場所のように思われる。
恵心院
 「元三大師堂」の前から南の方向へ数分歩いたところに「恵心院」(左の写真)がある。

 ここは恵心僧都の旧跡といわれ、恵心僧都はここにこもり修行に専念し、浄土教の基礎を築いたとされている。

 「恵心堂」は暗い感じのする小堂であるが落ち着いて修行が出来る雰囲気に満ちている。

 横川地区には上記各堂宇の他に、「行院」の前から東北の方向に15分ほど坂を下った所に日蓮上人の旧跡とされている「定光院」がある。

延暦寺所蔵の文化財:
不動明王二童子立像
 延暦寺には建造物も入れて10件の国宝、64件の重要文化財が所蔵されている。これらの内、建造物を除き彫刻、絵画、書跡などは延暦寺バスセンター近くにある「国宝殿」で随時公開されている。

 国宝で著名なものとしては「伝教大師入唐牒」、最澄が唐の龍興寺で求得した教典や法具などの目録「伝教大師将来目録」などが知られている。

 重要文化財に指定されている仏像、絵画、書跡も数多く展示公開されているが、仏像では「千手観音立像」、「不動明王二童子立像」(左のコピー:国宝殿拝観券より)などがよく知られている。

 これら文化財の保存状態が極めて良好なことに驚く。「伝教大師入唐牒」などは1200年もの歳月を経ているものには見えない。

 それにしても、全山を焼き尽くしたという信長の軍勢から、如何にしてこれらを無傷のまま護ったのであろうか。

 比叡山に参拝したときは国宝殿を訪れ、これらの文化財を是非とも見ておきたい。

御詠歌:千代かけて世をば救ひの鐘の音を送り絶えせぬ比叡の山風
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Yukiyoshi Morimoto