ホーム > 新西国三十三ヶ所一覧 > 千本釈迦堂 サイトマップ

新西国第十六番
瑞応山 大報恩寺(千本釈迦堂)
(ずいおうざん だいほうおんじ(せんぼんしゃかどう))
大報恩寺所在地図所在地及びアクセス:

 
京都市上京区今出川通七本松上ル

 JRは「京都」駅から、阪急京都線は「烏丸」駅から、京阪本線は「三条」駅から京都市営地下鉄に乗り換え「今出川」駅で下車。
 地上に出てバス停「烏丸今出川」から京都市営バス[203](「北野白梅町・西ノ京円町」行き)、[51](「立命館大学前」行き)の何れかの系統、又は[201](千本今出川・みぶ」行き)、[59](「山越」行き)、[102](急行「北野天満宮・金閣寺」行き)の何れかの系統のバスに乗車する。[203]、[51]系統のバスは「上七軒」で、[201]、[59]、[102]系統のバスは「千本今出川」で下車する(2001年9月現在)。
 バス停「上七軒」から北の方向に約250m進むと大報恩寺の山門に着く。バス停「千本今出川」で降車した場合は、今出川通を西に約300m進み、上七軒交差点を北の方向に曲がり約250m進むと大報恩寺の山門に着く。

宗派:真言宗智山派

本尊:釈迦如来、六観音

開基:求法上人義空
朱印
縁起:

 大報恩寺は藤原秀衡の孫にあたる求法上人義空によって安貞元年(1227年)に開創された寺とされている。

 求法上人義空は19才の時、比叡山に登り天台密教を会得し、10数年後に寄進を受けたこの地に諸伽藍を建立したといわれている。

 建設途中で大柱にする材木が見つからず、工事が一時停滞していたとき、摂津の有力な材木商の夢の中に老僧が現れ、『今、洛中で大寺院を建設中であるが、汝の持つ材木の中に大柱にする巨木があるので、それを提供してほしい』と告げたという。夢の中の老僧は大報恩寺の仮堂に安置されていた尊者であることがわかり、材木商は感激して材木を寄進したと伝えられている。

見所など:
境内入り口
 「大報恩寺」は街の中にあるため、寺は一般の民家に囲まれている。

 境内入り口には『千本釈迦堂』と彫られた石柱が立てられており、参道が「山門」まで続いている(左の写真)。

 「大報恩寺」はこの寺の正式名称であるが、通称名の「千本釈迦堂」のほうが一般にはよく知られている。
本堂正面
 「山門」をくぐると正面に「本堂」が見える。

 左の写真は本堂正面の近景である。

本堂
 左の写真は「本堂」を西南側から見たものである。

 この「本堂」は創建当時のままのものといわれ、応仁の乱(1467〜77年)の戦火をはじめ、数度に及ぶ大火からも焼失を免れ、旧京都市内で最古の建物とされている。
本堂内部
 「本堂」は写真でもわかるように、檜皮葺き、和風の寝殿造りである。

 「本堂」内部(左の写真)で内陣と外陣とを区切っている隔壁は鎌倉時代初期の遺構をとどめているという。

 内陣には本尊の「釈迦如来」が祀られているが、秘仏であり直接の拝観はできない。
本堂内部の柱
 内陣と外陣の隔壁にあるには多くのキズがついている(左の写真)。

 応仁の乱の時、この付近は西軍の中心部であったが、西軍と東軍の特別のはからいから庇護を受け、本堂が残されたといわれている。

 柱に残されたキズはその時の刀や槍によってつけられた痕らしい。


 「本堂」国宝に、また本尊「釈迦如来像」重要文化財に指定されている。
おかめ塚
 「本堂」の前、右手(東側)に「おかめ塚」と呼ばれているかなり大きな宝篋印塔が建てられている(左の写真)。

 かつて、本堂を造営しているとき棟梁の長井飛騨守高次が貴重な柱の寸法を誤って切ってしまった。進退極まり途方に暮れていた高次を見て、妻の「おかめ」が一計を案じ、ある提言をした。この着想により、見事に本堂を落成させることができたが、上棟式の前日に妻の「おかめ」は自殺してしまった。女の入れ知恵で棟梁の任を果たしたということが世間に漏れては夫の恥と考え、すべてを秘密にするため、というのが自殺の理由であった。高次は妻の心情にうたれ、上棟式には御幣におかめの面を飾り、冥福を祈ったという。
おかめ像
 「おかめ塚」の左側、塚に近接して「おかめ銅像」が見られるが、これは昭和54年におかめを慕う信者らにより建てられたものといわれている。

 この銅像の原型とされた「おかめ人形」が本堂の東隅に置かれている(左の写真)。


 ここで一寸一言。おかめの自殺の動機にしっくりしないものが感じられる。全てを秘密にするため自殺したというが、自殺するとその動機を詮索され、結局は全て白日の下にさらされてしまう。死なずに彼女が口をつぐんでいる方が、余程秘密が保たれるのではなかろうか。案外彼女は口が軽く、黙って過ごすことに自信がなかったのかもしれない。
経王堂
 「山門」から「本堂」までの参道の左側、「本堂」からみて西南の位置に「北野経王堂」が建っている(左の写真)。

 明徳の乱で敗戦死した山名氏清を弔うため応永8年(1401年)に足利義満が内野に建てたといわれる北野経王堂を、後に解体縮小してここに移したとされているのがこの堂である。

 当寺は規模からは大寺というわけではないが、所蔵されている文化財の数は非常に多く、国宝、重要文化財が40件以上あるといわれている。

 「本堂」の西側に「霊宝館」があり、ここに国宝や数多くの重要文化財指定の寺宝が展示、公開されている。

 貞応3年(1224年)の銘があり定慶の作とされている六体の「六観音像」、また、建保6年(1218年)の年号があり快慶の作とされている十体の「十大弟子像」(釈迦に従う十人の弟子の像)が特に素晴らしく、是非とも「霊宝館」内を拝観しておきたい。
「六観音像」、「十大弟子像」は何れも重要文化財に指定されている。
上七軒の街並み
 大報恩寺の近くに「上七軒」と呼ばれている場所がある。

 今出川通の上七軒交差点から北野天満宮の方に西北に延びている比較的狭い道路が「上七軒通」である。

 この通りには左の写真に見られるように粋な感じのする建物が並んでいる。

 ここは江戸時代初期、遊女屋が公認された場所で、天満宮や西陣の近くでもあり、大いに栄えたという。現在でもお茶屋が軒を連ねており、当時の面影が残されている。

御詠歌:ひとすぢに仏の教たどりなば千本(ちもと)の道も迷わざるらむ
新西国三十三ヶ所一覧のページへ戻る このページの先頭へ戻る

Yukiyoshi Morimoto