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新西国第十四番
根本山 神峰山寺
(こんぽんざん かぶさんじ)
所在地及びアクセス:

 大阪府高槻市原
神峰山寺所在地図
 JR東海道線(JR京都線)高槻駅下車。駅北側にある西武高槻ショッピングセンター前の道路を隔てて高槻市バス停留所「JR高槻駅北」があり、そこから高槻市バスに乗車する。乗車するバスは[58]番「原大橋」、「中畑」、「杉生」、「二料」行きの何れかのバス(「原大橋」行き以外は便数が極めて少ない)に乗車し「原立石」で下車する。
 又は、「JR高槻駅北」バス停から[54]番「上の口」行きのバス(便数が多い)に乗車し、終点の「上の口」で下車する。
 「上の口」で下車したときは北の方向へ広い道を道なりに進む。徒歩数分でバス停「原立石」に着く。
 「原立石」のバス停のある広い道路から斜め東側(右側)に入るやや細い道があるのでそれを道なりに進む。徒歩10分程度で鳥居が見えるのでそれをくぐり山道(車の通行があるので注意)を上り進むと神峰山寺に仁王門前に着く。
 「上の口」バス停から神峰山寺仁王門まで徒歩約25〜30分。

 「原立石」を通るバス及び「上の口」行きのバスの「JR高槻駅北」発時刻(8:00〜17:00の間について)は次表の通りである(2003年12月現在)。
平      日 土   曜   日 日 曜 日 ・ 祝日
08 07 15* 20 25 27 30 39* 45 53 57 03 06 14 19* 24 31 34 39 44* 54 02 09 15* 23 31* 39 47* 54
09 01 10* 22 34 39# 49 05* 17 29* 42# 45 50 56 00 06 12* 18 25 31* 36 42 48* 54
10 00 10* 20 32* 40 45 51* 57 06* 18 30* 36 42 54* 00 06# 12 18 24 30* 36 42 48* 54
11 05 12* 19 25 38$ 45 53* 06* 12 18 24 30* 36 42$ 48 54 00 06 12* 18 24 30 38% 40 46 50 54*
12 02 10* 20 25 30* 40 50* 00 06* 12 18 24 30* 36 42 48* 54 02 09* 17 23 28 33* 39 47 54*
13 01 10# 20 30* 40 50* 00 06# 12 18 24 30* 36 42 48* 54 02 09# 14 19 24 31* 38 46 54*
14 00 10* 20 30* 40 51* 02 09* 17 24 32* 39 47 54* 00 06 11* 17 24 32* 39 47 52* 57
15 00 10* 20 30* 40 49$ 02 07* 12 17 25* 32 40$ 47 55 02 09# 17 24 32* 37 42 47 54*
16 00 10* 20 25 30* 35 40 45 50* 55 02 08* 14 20 26* 32 38 44* 50 57 02 09* 17 24 32* 38 44 50* 56
 無印:「上の口」行き、*:「原大橋」行き、#:「中畑」行き、$:「杉生」行き、%:「二料」行き

宗派:天台宗

本尊:毘沙門天

開基:役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)

縁起:
朱印
 役行者小角が葛城山で修行しているとき、北の方角に五色の雲がかかり黄金の光が輝いているのを見て、文武天皇元年(697年)にこの地にきたという。彼はここで童子に会い、童子が持ってきた霊木で毘沙門天を刻み、祀ったのが神峰山寺の創始と伝えられている。

 宝亀5年(774年)に光仁天皇の子、開成皇子が天皇の命により神峰山寺の住職となり、皇室の庇護などにより、比叡山や葛城山と並び仏教聖地として七堂伽藍及び数多くの僧坊を所有するようになったという。当時は皇室の崇敬も篤く、皇室の紋章である十六弁菊の紋章の使用が認められていたとされ、今でも例えば朱印にも菊の紋章が使われている。

 江戸時代の明和2年(1756年)に神峰山寺は焼失し、安永6年(1777年)に再建され現在に至っているようであるが、その規模にかつての大きさはない。

見所など:
参道上り口
 神峰山寺は坂道をかなり上った場所にあるが、その坂道の上り口には何故か「鳥居」(左の写真)が立っている。

 この場所が寺への参道の始まりになっているものと思われる。
勧請掛
 参道の途中に、道の両側に石柱が立てられこれに竿を渡しこの竿に樒を結びつけた「勧請掛」(左の写真)がある。

 これはもともと聖地との境界をあらわしているようであるが、大阪商人はこれで米価や株価を占ったといわれている。
 
笈掛石
 神峰山寺の「仁王門」の外側にある橋の手前、神峰山寺に向かって左側の山際に「開山役行者・笈掛石」(左の写真)と書かれた石碑が立っており、その前に苔むした石が置かれている。

 石碑には小角の名前はないが、開山役行者とあるから、これは小角が笈(おい:修験者などが仏具、衣類、食器などを入れて背に負う箱)を掛けたと言い伝えられている石なのであろう。単なる伝説であろうが、小角の遺跡といえるかもしれない。

 役行者小角は修験道の開祖とされ、数多くの寺院を開山しているが、当山を開山して2年後の文武天皇3年(699年)に伊豆島に流されたといわれているので、小角の遺跡が当山に残されていても不思議ではないが・・・。
仁王門
 上述の「笈掛石」の直ぐ奥にある橋を渡ると「仁王門」(左の写真)に着く。

 「仁王門」は特に大きなものではなく、また、取り立てて特徴もないように思われ、全体として受ける印象は通常見られる寺の山門といったところであろうか。
仁王門奥の参道
 神峰山寺は紅葉の名所としても有名であり、秋の紅葉の季節になると、境内一帯は黄色や赤色に彩られ、常緑樹の緑に混じりその景観は素晴らしい。

 左の写真は仁王門奥の参道で、参道奥側から「仁王門」の方を見たものである。
本堂前石段下
 左の写真は本堂前石段の下参道の紅葉である。
本堂(1)
 「仁王門」から参道が北の方向に「本堂」までほぼ真っ直ぐについており、石段を上ったところに「本堂」(左の写真)が建っている。

 「本堂」には本尊の「毘沙門天像」をはじめ、二体の「聖観音立像」、「阿弥陀如来坐像」などが安置されているようである。神峰山寺は日本最初の毘沙門天が祀られた寺といわれている。

 「阿弥陀如来坐像」は平安時代後期の、二体の「聖観音立像」は平安時代中期と後期の作と考えられているようでこれらは何れも重要文化財に指定されている
本堂(2)
 「本堂」に祀られている現在の本尊、毘沙門天は役行者小角が当山を開山したとき刻んだとされている毘沙門天とは思えない。

 なお、左の写真は東側から見た「本堂」である。
本堂前の紅葉
 「本堂」前の広場、西南の隅にある楓は秋には綺麗に紅葉する(左の写真)。

開山堂への道  「本堂」横、東側(右手)に石段があり、この上に「開山堂」が建てられている。石段下の傍の木々は季節には見事に赤や黄に紅葉する(左の写真)。
開山堂
 左の写真は石段の上の一寸した広場に建てられている「開山堂」である。

 「開山堂」には当寺を開山した役行者小角が祀られているようである。
本堂傍の紅葉
 「本堂」のやや南寄り西側のかなり高い場所に鐘楼堂があるが、鐘楼堂に上がる石段下にも秋には見事な赤い紅葉を彩る木がある(左の写真)。
観音堂
 「本堂」の西側(左手)の短い石段を上がったところに「観音堂」(左の写真)が建てられている。
十三重石塔
 「観音堂」の北側は小さい広場になっており、ここに「十三重石塔」(左の写真)がある。

 この「十三重石塔」には開成皇子の父であり皇子に対し神峰山寺の住職になることを命じた光仁天皇の分骨が納められているという。
五重石塔
 「十三重石塔」の立っている場所から更に北側の山の斜面に「五重石塔」(左の写真)が建てられている。

 「十三重石塔」は整地された場所に立てられているのに比べ、この「五重石塔」は山の斜面に立てられており、周囲も特別に整地されておらず、見た目には「十三重石塔」と扱いはかなり異なっているように思える。

 しかも、「五重石塔」への道もはっきりとしたものはついておらず、石塔の傍に行くためには、山の斜面をよじ登るようにして上がらなければならない。

 この「五重石塔」はかつて神峰山寺の住職であった開成皇子の埋髪塔であるという。
境内の紅葉(1)
 左の写真は境内の紅葉風景である。写真右側に建物の一部分が写っているのは塔頭、龍光院である。
境内の紅葉(2)
 これも境内の紅葉風景(左の写真)である。写真は「仁王門」から「本堂」前の石段下までの参道の途中に見られる紅葉である。

 よく知られている紅葉の名所、例えば京都の東福寺、清水寺などは季節になると多数の観光客でごった返すが、神峰山寺はあまり俗化されておらずゆっくりと紅葉を鑑賞することができる。

御詠歌:
神峰(かぶ)の山すずしき音のかよひ来てこころの底に響く滝つせ

2003年12月16日更新
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Yukiyoshi Morimoto