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新西国第十三番
神秀山 満願寺
(しんしゅうざん まんがんじ)
満願寺所在地図所在地及びアクセス:

 兵庫県川西市満願寺

 阪急宝塚線「雲雀丘花屋敷」駅下車。駅前のバス停から阪急バス「愛宕原ゴルフ場」行きに乗車し、バス停「満願寺」で下車する(乗車時間約10分)。バス停の北側に隣接している駐車場を横切り北の方向に進むと満願寺の境内入口に着く。バス停から満願寺山門まで徒歩2〜3分。
 バスの運行頻度は、8時から18時の間については1時間に2便(但し、12時台及び16時台は1時間に3便、13時台は1時間に1便であるが、ほぼ30分毎に1便の割合になっている)。
 徒歩による場合、阪急「雲雀丘花屋敷」駅から満願寺山門までバスの通る道路を歩いて、所要時間35〜40分。
朱印
宗派:高野山真言宗

本尊:千手観世音菩薩

開基:勝道上人

縁起:

 聖武天皇の命をうけ、諸国に諸願達成の霊場を建立した勝道上人が摂津国の満願寺として神亀2年(725年)に開いたのがこの寺であるとされている。

 ただ、勝道上人の生存期間は735〜817年との説もあり、これが正しいとすれば本寺の開基年と矛盾するし、上人は当時としては信じ難いくらい長生き(82年)していたことになる。

 その後、源満仲が摂津守として多田に居を構え、当寺に帰依して以来源氏の信仰が厚くなり、更に周辺の有力者の崇敬も集め大いに栄えたという。
山門
見所など:

 この寺の「山門」は他の寺では見ることのできない珍しい形をしており(左の写真)、明治14年(1881年)に再建されたものといわれている。

 門の左右に安置されている
「木造金剛力士立像(仁王像)」は多田院にあったものを移したといわれており、鎌倉時代末期の作とされ、兵庫県有形文化財に指定されている。

 山門をくぐり参道を進むと、途中100円の入山料を入れる箱が置いてあるが、無人であり、全ての人がここで入山料を支払うとは限らないようである。
観音堂
 参道の突き当たりに石段がありそれを上ると広場がある。その広場の右側(東側)に「観音堂」が建てられている(左の写真)。

 「観音堂」に安置されている「木造千手観世音菩薩立像」は新西国三十三ヶ所の本尊であり、平安時代中期〜後期の作とされている。この仏像は秘仏になっており、年一回春の彼岸に開扉されているようである。


 「木造千手観世音菩薩立像」兵庫県有形文化財に指定されている。
金堂
 観音堂前の広場の石段を更に上がると正面に見える建物が「金堂」である(左の写真)。

 「金堂」には「木造十一面観音菩薩立像」、「木造聖観音菩薩立像」などが安置されているようである。

 この
「木造十一面観音菩薩立像」は平安時代末期、「木造聖観音菩薩立像」は平安時代前期末の作とされており、共に兵庫県有形文化財に指定されている。
九重塔
 「観音堂」に祀られている本尊、「金堂」に安置されている上記仏像などは、例えば制作年代だけ見ても、これが正しければ1000年乃至それ以上経過しており、その他いろいろな面で非常に価値のあるものといわれているが、何故か重要文化財の指定はうけていない。

 左の写真は「金堂」の左側(西側)に建てられている「九重塔」である。この石塔の高さは3.8mで、鎌倉時代の正応6年(1293年)に源氏一族の流れをくむ法尼妙阿(ほうにみょうあ)が両親の供養のために建てたものといわれている。

 この
「九重塔」は鎌倉時代に造られた石塔の内、優れたものとされているようで重要文化財に指定されている。
三廟
 「金堂」前広場の西端、やや高い場所に三基の五輪塔が建てられている「三廟」がある(左の写真)。

 「三廟」は源満仲の子、美女丸、美女丸の身代わりになった幸寿丸、幸寿丸の父親であり源満仲の家臣、藤原仲光の墓であると伝えられているという。

 この
「三廟」(五輪塔群)は室町時代初期〜末期に造立されたものと考えられており、川西市文化財に指定されている。
毘沙門堂
 「金堂」の東隣に比較的新しい感じのする建物が建っているが、これが「毘沙門堂」である(左の写真)。

 「毘沙門堂」には「木造毘沙門天立像」が祀られている。この「毘沙門天立像」は源満仲によって刻まれたものとされているようであるが、このあたりはどうも定かではない。なお、
「毘沙門天立像」川西市文化財に指定されている。
坂田金時の墓
 境内東側の奥まった木立の中に「坂田金時の墓」がある。

 坂田金時は源頼光の四天王の一人として鎌倉時代の説話に登場し、大江山で酒呑童子を退治したことで有名な武士である。また、幼時は足柄山の金太郎と呼ばれ動物たちと遊んだことが童話などでよく知られている。


 坂田金時は実在の人だったのだろうか。実在の人にしては伝説的な部分が多すぎる感じがする。実在の人物ならば、満願寺は源氏一族の帰依が大きかったと言われているから、ここに坂田金時の墓があってもおかしくはない。ただ、墓から受ける印象は四天王といわれた武士というよりも、僧侶のような悟りきった人物を思わせるのである。

御詠歌:むら雲はあとなく晴れて寺の名の願いも満つるもちの夜の月
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Yukiyoshi Morimoto