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新西国第十番
仏頭山上宮皇院 橘寺
(ぶっとうざんじょうぐうこういん たちばなでら)
橘寺所在地図 所在地及びアクセス:

 奈良県高市郡明日香村橘

 近鉄南大阪線(吉野線)「橿原神宮前」駅下車。バス停「橿原神宮駅東口」より奈良交通バス「岡寺前」行き(一部「明日香小学校前」行き)に乗車し「岡橋本」で下車(バス乗車時間は12〜14分)、南の方向へ徒歩約5分。
 「橿原神宮駅東口」発バス時刻は次の通り(曜日の指定のないものは平日、土、日、祝日とも同じ、*印は「飛鳥大仏」を経由しない便で、経由する便より乗車時間が約2分短い)。
 *7:12、7:47、9:02、10:25、11:45、13:04、*13:47、14:45、15:45、17:02(日祝は17:04)、*17:32(日祝は*17:33)、18:03(日祝は18:04)、18:32、19:02、*19:35(日祝は*19:34)、20:02、*20:33 (2000年11月現在)。
朱印
宗派:天台宗

本尊:聖徳太子像、如意輪観世音菩薩

開基:聖徳太子

縁起:

 現在橘寺のあるところは、寺が建立される以前は欽明天皇及びその第四皇子である用明天皇の離宮、橘宮があった場所といわれており、用明天皇の子、聖徳太子は敏達天皇元年(572年)にここで誕生したと伝えられている。

 推古天皇14年(606年)に、天皇の命により聖徳太子は勝鬘経
(しょうまんきょう)を講義したと伝えられ、その時、庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠から光が輝いたという。天皇は驚き、この地に寺を建てるように命じたとされ、聖徳太子は御殿を改造して寺を建て橘樹寺(たちばなのきてら)と命名(橘寺は通称)したと伝えられている。
境内図
 日本書紀に『天武天皇9年(681年)に尼房失火で十房焼く』の記載があり、橘寺は当時尼寺であったと考えられる。また、万葉集には『橘の寺の長屋にわが率宿(いね)し童女(うない)(はな)りは髪上げつらむか』の歌があるが、この歌は実にエッチっぽい。尼寺といい、この歌といい聖徳太子の持つイメージと結びつかない。

 ただ、聖徳太子は実在の人物ではなく、伝説上の人物にすぎないという説もあるのでこの寺の縁起についてはよくわからない面もある。

 橘寺はかっては大寺院だったらしいが、何回もの火災に遭っており、創建時のものは礎石以外何も残っていないという。現状の橘寺の規模は大寺院とはいえない。
西門
見所など:

 橘寺の境内に入るには「東門」と「西門」(左の写真)があるが、正門は東門らしい。ただ、参拝者、観光客の多くは西門から入り、西門から出ていくようなので西門があたかも正門のように見える。「東門」、「西門」共に特別大きな門ではない。

 西門を入ると直ぐ右手に東向きに建っている「本堂(太子堂)」が見える(直下の写真)。
本堂
 「本堂(太子堂)」は東向きに建てられているが、普通、寺の本堂は南向きが多い。ここは南に仏頭山があるため見通しがよくないからという説があるらしいが定かではない。

 現存の「本堂」は元治元年(1864年)に再建されたものといわれており、室町時代の作とされている「聖徳太子勝鬘経講讃像」が安置されている。
「聖徳太子勝鬘経講讃像」重要文化財に指定されている。

 「本堂」の南側に善悪二つの顔が背中合わせになった飛鳥時代の石造物「二面石」(直下二枚の写真)がある。この「二面石」は人の心のもち方を表したものとされている。
二面石悪面 二面石善面
 直上左の写真は「左悪面」と呼ばれ寺の外を、右の写真は「右善面」と呼ばれ太子堂(本堂)の方を向いている。

 顔といわれればそのようにも見えるが、かなり無理があるように思える。特に悪面の方は顔らしくないし、善面も人相がよいとはいえないのではないか。人間には二面があるということと、上述のエッチっぽい万葉の歌とが妙に重なっているように思われる。
蓮華塚
 「本堂」の前南側に低い石垣に囲まれた10m四方ほどの「蓮華塚」と呼ばれている場所がある(左の写真)。

 上述したように、聖徳太子が勝鬘経の講義を行ったとき蓮の華が降り積もったといわれているが、その時の華を埋めたのがこの場所とされている。

 また、大化改新の時、この場所を広さの単位である1畝
(せ)の基準としたといわれていることから、「畝割塚(うねわりずか)」とも呼ばれているという。
如意輪観世音菩薩像
 「本堂」の前を東門に向かって進むと左手(北側)に「観音堂」の建っているのが見える。

 「観音堂」には藤原時代の作とされている本尊の「如意輪観世音菩薩像」が安置されており(左の写真)、拝観することができる。穏やかな表情でふっくらとした感じの仏像である。
「如意輪観世音菩薩像」重要文化財に指定されている。

 「観音堂」の前を東門の方向へ一寸進むと「三光石」と「阿字池」がある。上述したように、聖徳太子が勝鬘経の講義を行った際、冠が日・月・星の光を放ったとされているが、ここではあたかも石が光を放ったかのようになっており、この辺がよくわからない。尤もこれは伝説であろうから、こんなものかもしれない。「阿字池」は梵字の『あ』を形取り聖徳太子が作ったと伝えられている小さな池であるが、今では水草の密生した汚い水たまりになってしまっている。
五重塔心礎
 「三光石」の前を少し東に進むと南側に「五重塔跡」がある。塔跡の中心には左の写真に見られるような大きな「塔心礎」がある。

 「塔心礎」には径約90cm、深さ約10cmの柱の入る穴、その穴の三方に半円形の添え柱穴が彫られており、かなり珍しい形をしている。

 かつて建っていた五重塔の高さは約38mあったと考えられており、かなり高い五重塔であったようである。
回廊跡
 「塔跡」の南側にかつての橘寺の「回廊跡」がある。この跡から見ると回廊はかなり大きかったようで、かつての橘寺の大きさが偲ばれる。

 「回廊跡」に隣接して南側に「聖倉殿(収蔵庫)」があり、ここには、平安時代中期の作とされている
「地蔵菩薩立像」、室町時代前期の作とされている「橘寺形石灯籠」など、数点の重要文化財を含む寺宝が数多く保管されている。「聖倉殿」は特定の期間を定め公開されているので、その際は是非、拝観見学しておきたい。

御詠歌:仏いで花ふるにはのありけるに遠きくにとは何おもうらん
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Yukiyoshi Morimoto