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新西国第八番
南向山 西方院
(なんこうざん さいほういん)
西方院所在地図 所在地及びアクセス:

 大阪府南河内郡太子町太子

 近鉄長野線「喜志」駅下車。駅東側に出て金剛バスの乗り場から「上ノ太子」行き、又は「太子まわり循環」又は「葉室まわり循環」のいずれかのバスに乗車し、バス停「太子前」で下車する。バス停の傍に西方院への参道(石段)がある。バス乗車時間は約10分(但し「葉室まわり循環」は時間がかかる)。
 バスの運行頻度は、8時〜18時の間について、1時間に2〜3便(但し、休日の8時台のみ1便)(2001年2月現在)。


宗派:浄土宗
朱印
本尊:阿弥陀如来、十一面観世音菩薩

開基:聖徳太子の三侍女

縁起:

 聖徳太子の乳母だった日益(ひます:蘇我馬子の娘)、月益(つきます:小野妹子の妹)、玉照(物部守屋の妹)の三人が聖徳太子の死後、出家し、それぞれ善信、禅蔵、恵善と称し(三人を総称して三尼公と呼ばれている)太子菩提のため太子廟の近くに寺を建てたのが創始とされ、創立は聖徳太子の死去した年、推古30年(622年)といわれている。

 創建時は叡福寺の塔頭の一つで法楽寺と称し、尼寺であったとされているが、やがて荒廃する。現存の寺は寛永16年(1639年)に蓮誉寿正尼(
れんよじゅしょうに)によって再興されたものといわれ、西方院の名称もこの時点でつけられたものという。
西方院遠望
見所など:

 太子前バス停の傍に小さな堂「隔夜堂」が建っており(左の写真で横断歩道に近接している建物)、その横の細い路を奥に進むと石段がある(左の写真中央に見える)。これが参道であり、石段を上りきったところに西方院がある。

 バス停傍の「隔夜堂」内には
阿弥陀如来の石仏が安置されており、大阪府の重要美術品に指定されている。また、「隔夜堂」横の参道入口に当たる場所には「聖徳太子御乳母三尼公御廟所西方院」と刻まれた石碑が立てられている。
山門
 石段を上がると直ぐ右手に「山門」が見える(左の写真)。

 「山門」は大きくないが、西方院の規模自体がこぢんまりしている関係から、よくバランスがとれている。

 境内は小さいだけに整備、清掃が行き届いており、非常にきれいである。

 「山門」前を塀に沿って南側に進むと墓地があり、その場所から寺の境内の多くの部分を見ることができる(直下の写真)。
境内
 写真右側の朱塗りの建物が「鐘楼」、中央に屋根の見える大きい建物が「本堂」、その手前に写っている塀の傍の小さい建物が「納骨堂」、塀の外で墓地の中にあり写真左側に写っているのが「三尼公廟所」である。

 「山門」をくぐると目前に「本堂」が見える(直下の写真)。「本堂」には本尊の阿弥陀如来像、それに三尼公の木像、聖徳太子二歳の時の木像などが祀られている。
本堂
 「阿弥陀如来像」は聖徳太子の作であり、三尼公が太子の死後創始した法楽寺に安置した仏像と伝えられているようである。

 ただ、この「阿弥陀如来像」が真に聖徳太子の作であるとすれば、約1400年も昔に造られたことになり、歴史的にみても国宝か重要文化財の指定があってしかるべきと思われる。聖徳太子の作とするのは単なる言い伝えであろう。
観音堂
 「山門」をくぐって直ぐ右手に「観音堂」が建てられている(左の写真)。

 「観音堂」には本尊の「十一面観世音菩薩像」が祀られている。この「十一面観世音菩薩像」は恵心僧都の作と伝えられているようである。

 「山門」をくぐって直ぐ左手に「鐘楼」が建てられている。「鐘楼」は鮮やかな朱色に塗られており、他の地味な建物群の中で若干うき上がったような異質な感じがする。
三尼公廟所 三尼公廟所近景
 上述したように「本堂」、「鐘楼」の南側に塀を隔てて墓地があるが、その墓地の中に「三尼公廟所」が建てられている(直上左の写真はその全景、右の写真は廟所の近景)。

 「三尼公廟所」には中央に比較的大きな石塔が、その両側に小さい石塔が立てられているが、中央の大きい塔に三人がまとめて葬られているものと思われる。

御詠歌:むらさきに雲のにほいて観世音在(おわ)しまします西方の空
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Yukiyoshi Morimoto