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仁和寺

所在地及びアクセス:

 京都市右京区御室大内33

 阪急京都線「大宮」駅下車。地上に出て京福電鉄「大宮」駅から嵐山線「嵐山」行きの電車に乗車し、「帷子ノ辻
(かたびらのつじ)」駅で京福電鉄北野線「北野白梅町」行きに乗り換え、「御室仁和寺」駅で下車する。北の方向へ徒歩約3分で仁和寺の二王門に着く。
 JR「京都」駅からは市バス[26]「宇多野・山越」行き、或いはJRバス「栂ノ尾(とがのお)」又は「周山」行きに乗車し「御室仁和寺」で下車、直ぐ。
 「四条河原町」からは市バス[59]「
金閣寺宇多野・山越」行き、又は[10]「三条京阪山越」行きに乗車し「御室仁和寺」で下車、直ぐ。

 上の地図でバルーン状のマーカーをクリックすると説明が出ます。

縁起:
朱印(1) 朱印(2)
 仁和寺は仁和2年(886年)に光孝天皇の勅願により創建に着手したが、天皇は翌年に死去、宇多天皇が遺志を引き継ぎ仁和3年に完工し、仁和4年(888年)に落慶供養が行われたと伝えられている。宇多天皇は昌泰2年(899年)に仁和寺で出家し法皇と称したとされているが、これが法皇の称号の最初であるといわれている。法皇は延喜4年(904年)仁和寺西南の場所に御室を設け、承平元年(931年)に没するまでここに住んだという。以後、皇子や上皇の入寺が続き、一時は法界を統括するまでになったらしい。

 その後、武家政権や禅宗が勢力を強めたことなどにより衰退し、応仁の乱(1467〜77年)により全ての伽藍を焼失し、復興も思うように行うことができなかったといわれている。その後、160年以上も経過した江戸時代、寛永11年(1634年)に、徳川幕府の援助により覚深法
(かくじんほつ)親王が再興に努め、現在の仁和寺の基礎を築いたとされている。

 このように皇子や皇孫が寺の門跡となったことから、仁和寺は御室御所と呼ばれるようになったという。現在、仁和寺は真言宗御室派の総本山である。

境内配置図:
境内配置図

見所など:
二王門
 仁和寺の境内南側にある「二王門」(左の写真)は仁和寺の正門にあたる。二王門という名称は左右に金剛力士を安置していることに由来しているという。

 「二王門」は徳川家光の寄進により寛永の再興時に建造されたといわれており、京都の三大門の一つとされ、重要文化財に指定されている。門は大きいだけではなく、非常に重厚な感じがする。数ある京都の寺院の門の中でも最も有名な門の一つとされているだけのことはある。
御殿入口の門
 「二王門」をくぐるとすぐ左手(西側)に「御殿」と言われている「旧御室御所」がある。左の写真は「御殿」の入口の門であるが、この門には『総本山仁和寺』の表示がり、仁和寺の本坊はこの奥にある。
御殿の大玄関
 上述の『総本山仁和寺』の表示のある門をくぐると、「旧御室御所」(御殿)の「大玄関」(左の写真)が見える。
白書院の部屋
 「大玄関」を入ると直ぐ北側に「白書院」がある。「白書院」にはいくつかの部屋があるが、左の写真はその内の一つの部屋の内部である。

 明治20年(1887年)に仁和寺御殿が焼失したため、ここが仮宸殿となっていたが3年後に宸殿が建てられると、白書院と呼ばれるようになった。襖絵は昭和12年(1937年)に福永晴帆によって松を主題にした景色が描かれた。
宸殿と南庭
 左の写真は「白書院」前の廊下から見た「宸殿」の南面と南面の前に広がっている「南庭」である。「南庭」には右近の橘と左近の桜をが配されている。写真では橘が左側に、桜が右側に写っている。
南庭
 左の写真は「宸殿」前の廊下から見た「南庭」である。写真左には左近の桜、中央やや左側奥に見えるのは「勅使門」、また、中央やや右側奥に見えるのが「二王門」である。

 「南庭」は白砂を敷きつめただけの庭であり、簡素であるが落ち着いた感じがする。
宸殿
 左の写真は「黒書院」から「霊明殿」に渡る廊下から見た「宸殿」の北面である。

 「宸殿」は江戸時代に仁和寺を再興したとき、京都御所から移築したとされているが、明治時代に焼失、現在の建物は大正2年(1913年)に建てられたものといわれている。
宸殿内の部屋
 「宸殿」は通常、閉鎖されておらず、廊下から内部を見学することが出来る。左の写真は「宸殿」内の部屋の一つである。

 「宸殿」の北側には池泉式庭園「北庭」(直下の写真)が拡がっている。江戸時代の寺院の池泉式庭園の様相を残すものとして貴重なものということから京都市名勝に指定されている。写真左側に見える建物は「霊明殿」(詳細後述)で、中央やや右寄りに屋根だけ見えている建物は「飛濤亭」(詳細後述)であり、その奥に「五重塔」(詳細後述)が見える。
北庭
黒書院の部屋
 「宸殿」から廊下を隔てて西側に「黒書院」がある。「黒書院」にはいくつかの部屋があるが、左の写真はその内の一つの部屋の内部である。

 明治20年(1887年)に仁和寺御殿が焼失、復旧のため旧安井門跡の寝殿の遺構を移して、明治42年(1909年)に「黒書院」として完成したものとされている。襖絵は昭和6年(1931年)に宇多天皇千年忌及び弘法大師千百年忌の記念事業として堂本印象によって描かれたものである。
霊明殿
 旧御室御所で最も奥まった場所に「霊明殿」(左の写真)が建てられている。ここは歴代門跡の位牌を安置している所とされているが、本尊として「木造薬師如来坐像」が安置されているという。

 「霊明殿」は写真でもわかるように、正面の障子が少し開けられており、内部を見ることができるが中に立ち入ることはできない。
薬師如来坐像の複製像
 「霊明殿」内に安置されている霊明殿の本尊「薬師如来坐像」は康和5年(1103年)に円勢と長円によって造られた仏像で、二重の厨子の奥深く秘匿され厳重な秘仏とされていたようである。昭和61年(1986年)に学術調査のため初めて開扉されたが、保存状態のよいのに驚いたという。現在も厳重な秘仏になっており、直接の拝観は不可能で公開されることはない。この仏像は香木の白檀を用いた本来の意味の檀像であり、彩色は最小限にとどめられており、高さ10cm余りの小さな像であるが彫刻は極めて精緻で一切の手抜きがないという。

 この「薬師如来坐像」は国宝に指定されている。

 「霊明殿」正面中央奥には、本尊「薬師如来坐像」の複製像(左の写真)がお前立ちとして安置されている。
飛濤亭
 旧御室御所内には著名な二つの茶室「飛濤亭」と「遼廓亭」が建てられている。

 左の写真は「宸殿」の北側廊下から見た「飛濤亭」である。「飛濤亭」、「遼廓亭」共に拝観するためには5名以上のグループで往復ハガキによる事前申し込みをしなければならない。なお拝観には特別拝観料が必要である。

 「飛濤亭」、「遼廓亭」共に重要文化財に指定されている。
中門
 「二王門」をくぐり上述した旧御室御所を左に見て奥(北側)に進むと、朱塗りの「中門」(左の写真)に着く。「二王門」に比べると規模も格段に小さく造りも簡素である。

 「中門」は重要文化財に指定されている
御室桜(1)
 「中門」をくぐると、直ぐ西側(金堂の方に向かって左側)に国の名勝に指定されている「御室桜」(左の写真)がある。ここの桜は樹高が低く根元から枝を張り、開花の時期が他所の桜に比べて遅いことで知られている
御室桜(2)
 左の写真も「御室桜」である。桜の木は約200本あり、江戸初期には既に現在の場所に植えられていたと言われており、江戸中期には観桜の名所として知られていたらしい。
御室桜(3)
 左の写真は「御室桜」の植わっている場所から東側を見たもので、写真奥に「五重塔」(詳細後述)が見える。

 桜の咲く時期には入園料が必要である。通常は拝観料が不要の寺院でも、桜や紅葉の季節には拝観料が必要なところが多いので、これは仁和寺だけのことではない。

 『わたしゃお多福御室の桜 はなはひくても人が好く』という歌があるらしいが、こんな駄洒落がお似合いの名勝か。
観音堂(1)
 「御室桜」の北側で「金堂」(詳細後述)に至る参道の西側に重要文化財に指定されている「観音堂」が建てられている。左の写真は「観音堂」を西南側から見たものである。

 「観音堂」の内部は通常、拝観できないが、特別拝観として公開されることがある。内部には本尊の千手観音像と脇侍二十八部衆、風神雷神像が安置されている。
観音堂(2)
 左の写真は上述と同じ「観音堂」を北西側から見たものである。写真手前の赤い花はツツジである。
五重塔
 「中門」を過ぎて「金堂」(詳細後述)に至るまでの参道の東側に「五重塔」(左の写真)が建っている。場所的には参道を挟んで西側に「観音堂」、東側に「五重塔」という位置関係にある。

 「五重塔」の高さは36m余りで、寛永21年(1644年)の造営とされている。一般的に言って五重塔の屋根の大きさは上層のものほど小さくなっているが、仁和寺の「五重塔」は各層の屋根の大きさに大差がなく、江戸時代の特徴を示しているという。

 「五重塔」は重要文化財に指定されている。
金堂(1)
 「二王門」から「中門」を経由して真北の方向に伸びている参道の北端、やや高い場所に「金堂」が建てられている。左の写真は「金堂」を正面から見たものである。

 「金堂」は慶長18年(1613年)に建てられた御所の紫宸殿を移築し、寛永の再建時に屋根を葺く材料を檜皮から寺院風の瓦にするなどの改修を加え、完成したといわれている。
金堂(2)
 左の写真は「金堂」をやや西側から見たものである。

 通常、「金堂」の内部は公開されていないが、時期によっては特別拝観として公開されることがある。金堂内陣には運節が寛永21年(1644年)に造ったといわれている本尊「阿弥陀三尊像」が安置されている。

 「金堂」は国宝に指定されている。
経堂
 「金堂」の西側に「経堂」(左の写真)が建てられている。この「経堂」は江戸時代初期の寛永〜正保年間(1644〜1648)の建立とされており禅宗様の建物である。

 「経堂」の内部は通常公開されていないようである。内部中央に八面体の輪蔵が設けられており、合計768個の経箱が備えられ、これに天海による一切経が収められているようである。

 「経堂」は重要文化財に指定されている。
鐘楼
 「金堂」の西側には「鐘楼」(左の写真)が建てられている。

 「鐘楼」は寛永の再興時に建てられたものとされているが、朱塗りの鮮やかさから、同時期に建てられたという他の建物に比べ新しいように見える。多分、改修されてから時日があまり経過していないのであろう。

 「鐘楼」は重要文化財に指定されている。
水掛不動堂
 「鐘楼」の西側に北に向かって参道がつけられている。この参道の北端に「水掛不動明王」が祀られている(左の写真)が建てられている。
水掛不動尊
 左の写真は「水掛不動堂」に祀られている「水掛不動明王」である。
この不動明王の由来について、説明の石碑には大略次のように書かれている。かつて京都堀川の戻り橋が大洪水で流れ、その復旧の時に橋の下から取り出されたのがこの不動明王であり、仁和寺に帰りたいとのお告げによりここに祀られた。この不動明王は特に諸願成就、幼児の難病平癒に霊験あらたかであるという。
御影堂
 「鐘楼」の西北側、「水掛不動」の西側に「御影堂」(左の写真)が建てられている。

 「御影堂」も「鐘楼」などと同じ時期、寛永の再興時に建てられたものとされ、桃山様式の建物で内には、弘法大師、開山宇多法皇、仁和寺第二世大御性親王の影像が安置されているようである。

 「御影堂」は重要文化財に指定されている。

 仁和寺には上述の建造物以外に数多くの国宝、重要文化財が所蔵されており、これらの多くは、「中門」と「二王門」の間、参道の東側木立の中にある「霊宝館」に保管されている。

 国宝に指定されている文化財の内、特に著名なもとして次のものが挙げられるのではなかろうか。
孔雀明王像
 絵画には北宋時代11世紀に中国で制作された「孔雀明王像」(左のコピー:仁和寺発行の「仁和寺の名宝」パンフレットより)がある。孔雀明王は蛇や毒虫を食べるという孔雀に災厄や病気を祓う仏の化身をみて信仰されてきた。ただ、この国宝「孔雀明王像」は霊宝館に展示されておらず、京都国立博物館に寄託されている。霊宝館で時に「孔雀明王像」の展示を見ることがあるが、展示されているものは複製品であろう。

 書蹟では空海が唐に留学していた時に、現地で書き写し持ち帰ったとされる経典「三十帖冊子」があり、空海(弘法大師)直筆の書として極めて貴重なものとされているが、これも京都国立博物館に寄託されており、霊宝館で見ることはできない。
阿弥陀如来坐像
 仏像では「阿弥陀如来座像及び両脇侍像」(左のコピーは阿弥陀如来坐像:仁和寺発行の「仁和寺」パンフレットより)が有名であり、霊宝館の奥側中央に安置されている。この「阿弥陀如来坐像」は仁和4年(888年)に仁和寺が完成したとき金堂に安置された本尊といわれており、その後の火災や応仁の乱にも被害を免れてきた。寛永の再興時にこの仏像がそれまでの本尊の座を、何故か新しい仏像に譲っている。

 国宝、重要文化財等の多くを所蔵している霊宝館は毎年、春と秋に一般に公開されているので、公開時には見学、拝観しておきたい。

最終更新:2011年5月27日
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