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栂尾山 高山寺
(とがのおさん こうざんじ)


所在地及びアクセス:

 京都市右京区梅ヶ畑栂尾町

 JR京都駅からJRバス「栂ノ尾(とがのお)」又は「周山」行きに乗車し、「栂ノ尾(とがのお)」で下車する。京都駅から栂ノ尾までバス乗車時間約50〜55分。
 「栂ノ尾」バス停のすぐ傍に高山寺への裏参道があり、バス停から高山寺まで徒歩数分以内。

 JRバス京都駅、栂ノ尾行き及び周山行きの発車時刻(8:00〜18:00のみ記載)は次の通り(2017年3月18日改正、2018年10月現在)
 時  平 日 土休日  注 
 8 00* 30   00* 30   * 8月14日〜16日
 及び12月31日〜1月3日
 運休 
 9 00 30   00 15* 30 45* 
10 00 30*  00 30* 
11  00 30  00 30 45* 
 12 00* 30  00* 30 
 13 00* 30*  00* 30* 
 14 00 30  00 30 45* 
 15 00* 30  00* 30 
 16 00* 30  00* 30 
 17 00* 30 00* 30 

縁起:
 
朱印
 高山寺は宝亀5年(774年)に光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院として開創され、神願寺都賀尾坊と称したと伝えられている。弘仁5年(814年)には度賀尾十無尽院に改称、また、平安時代初期には天台宗の寺院となり、度賀尾寺(とがのおじ)と改称されたといわれている。その後、一時荒廃したようであるが、平安時代末期には文覚によって再興されたという。

 建永元年(1206年)に後鳥羽上皇の院宣により、華厳宗復興の道場として明恵上人に与えられ、高山寺と称するようになったと伝えられている。

 承久元年(1219年)には金堂に本尊が安置され、参詣者も増えたようであるが、天文16年(1547年)には細川晴元の放火により、石水院以外は全焼したとされている。その後、復興に努め、旧観近くまで回復したのは寛永13年(1636年)だったといわれている。

境内諸堂配置:
境内諸堂配置図

見所など:
裏参道
 バス停の傍から高山寺の境内に通じる道、「裏参道」(左の写真)がついており、この「裏参道」を上がると「石水院」の横に出る。

 裏参道は道幅が狭く、急坂である。多人数が容易にすれ違うことのできない場所もあり、足が不自由な年配者には通行に手間取るが、栂ノ尾バス停や駐車場に近いためか、裏参道の方がよく利用されているようである。寺の案内、解説板も表参道(後述)よりもこちらの方が充実しているように思われる。
表参道と寺名碑
 「表参道」は栂ノ尾バス停、駐車場から国道162号線を約100m西南方向、即ち、都の市街地に向かう方向に進んだ場所につけられている。「表参道」(左の写真)は裏参道に比べ道幅はかなり広く、上り勾配も緩いため足の不自由な人でも歩きやすい。

 左の写真でもわかるように、表参道の入口に寺名碑がたてられている。

寺名碑
 左の写真は「寺名碑」である。これには山号寺号である『栂尾山高山寺』の文字が彫られている。

 紅葉の季節には表参道、裏参道共に参道の途中に入山料を徴収する場所が設けられており、境内に入るのは有料となる(紅葉の季節以外は入山料無料)。

 高山寺には普通大きな寺にあるような山門は表参道側、裏参道側共に見られない。

 高山寺境内は国史跡に指定されている。

 高山寺は森の中に堂宇などが点在しており、まさに山寺という感じの寺である。今でこそ国道が通っており、車で容易に訪れることができるが、かつては、鬱蒼とした山中にあり、厳粛さ、静寂さは今とは比較にならないものがあったと思われる。
表参道と金堂道の分岐
 表参道を境内奥に向かって進む(北進)と左の写真に見られるように参道が分岐している場所に着く。直進する道は金堂道と呼ばれ、金堂まで伸びている。分岐している所から右側に(写真で人物が写っている方向)進むと「石水院」に着く。
石水院への門
 裏参道からは坂道を上りきると「石水院」への入口(左の写真)に当たる小さな門に着く(左の写真)。高山寺で山門らしきものはこれだけである。左の写真で右端に写っている人物の通っているのが裏参道である。

 門には右側に『栂尾山高山寺』、左側に『石水院 国宝建造物』の表示がある。

 門をくぐって左に曲がると石水院拝観の受付があり、ここで拝観料(年中有料)を払って、右手の廊下を進むと「石水院」の中に入ることができる。
石水院外観
 左の写真は「石水院」の外観である。「石水院」は明恵上人が後鳥羽上皇から賜った学問所とされており、建てられたのは13世紀前半鎌倉前期の建築で、明恵上人時代の唯一の遺構といわれているが、寛永14年(1637年)に改造されたらしい。

 「石水院」はかつて金堂の東側にあったようで、明治21年(1888年)に現在の場所に移したものといわれている。移築に際し改造されたようで、以後、何回かの解体修理が行われている。

 「石水院」は国宝に指定されている。
石水院
 石水院拝観の受付を通り、石水院の方に向かう廊下を渡ると「石水院」の建物の入口(左の写真)に着く。そこから石水院の「廂の間」が見える。「廂の間」は一見して廊下のように見えるが、廊下ではない。「廂の間」の中ほどに「善財童子」(後述)の木像が置かれている。

 この「廂の間」は立ち入ることが出来ず、「石水院」の奥に向かって進むには外廻りにつけられた廊下を通らなければならない。
石水院の外廻り廊下
 左の写真は石水院の西面になり、前述した外廻り廊下と「蔀戸(しとみど)」を撮影したものである。外廻りの廊下は一般の参拝者が自由に通行できる通路になっている。

 左の写真からわかるように、石水院には一般の住居にあるような雨戸が見られず、雨戸に代わるものとして吊り上げられている「蔀戸(しとみど)」がある。いずれにしても、造作は簡素であり、菱格子戸、蟇股(かえるまた)で室内と外の隔壁は事実上無いに等しく、察するところ、スケスケの状態の住居で明恵上人は修行していたのであろう。
善財童子
 左の写真は上述した「善財童子」である。善財童子は華厳経に出てくる若者の姿をした菩薩の名である。

 明恵上人は善財童子を敬愛したといわれていることから、明恵上人の住居とされていた「廂の間」に善財童子を置いたのであろう。
鉄斎の額
 石水院の西面の「善財童子」の上部、欄間に「『石水院』と書かれた額」(左の写真)が掲げられている。この額は富岡鉄斎の書である。富岡鉄斎は明治時代の住職と親交があったようで、晩年を高山寺で過ごしたようである。
石水院の天井板
 左の写真は石水院の天井である。既述のように石水院は何回かの解体修理が行われているが、その際、古くなって使用に問題のある建材類は新しいものに更新される。石水院に使用されている建材類で古くから更新されずずっと使い続けられているのが、左の写真に写っている天井板であるといわれている。
石水院南面
 左の写真は石水院の南面である。写真右上隅に見られる額は後鳥羽上皇から賜ったもので、これについては詳細後述する。

 紅葉の季節にはこの南面から赤く彩られた素晴らしい景色を見ることができる。
石水院南面から見た紅葉風景
 紅葉の季節には高山寺の境内一帯が紅葉で彩られるが、上述したように石水院南面からは盛大な紅葉を見ることができる。左の写真は石水院南面から見た紅葉風景である。
石水院南面の額
 石水院の南面長押の上には『日出先照高山之寺』と書かれた額(左の写真)が掲げられている。この額は明恵上人が後鳥羽上皇から賜った勅額であり、重要文化財相当の価値があるとされている。しかしながら、高山寺側としては重要文化財に指定されるのを回避しているという話があるが、真偽の程はわからない。

 高山寺という寺の名称はこの勅額に因んだものとされている。
明恵上人樹上坐禅像(1)
 上記の石水院南面に掲げられている額の下をくぐって座敷を奥に進むと「明恵上人像」の絵(左の写真)が掛け軸として掲げられているのが見える。「明恵上人像」は鎌倉時代13世紀初めに明恵上人の弟子である恵日房成忍によって描かれたといわれているが作者については確かではない。

 松林の中、自身が創建した高山寺の山中の樹上で一人静かに坐禅し釈迦に随順する明恵上人の姿、心情が見事に描かれており、心打つものがある。

 「明恵上人像」のオリジナルは国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されており、ここ石水院に掲げられているのは模写品である。
明恵上人樹上坐禅像(2)
 左の写真は「明恵上人像」の絵の一部である。

 高山寺の開基となった明恵上人は承安3年(1173)に紀州(今の和歌山県有田川町)で生まれ寛喜4年(1232)に没した。神護寺の文覚上人について出家し、東大寺で華厳を学び勧修寺の興然から密教の伝授を受け、常に釈迦牟尼世尊に随順し、清純無私、真の仏弟子として修行に励んだとされている。明恵上人は釈迦の在世を慕いインド渡来を切望していたが、春日明神の神託により果たせなかったといわれている。

 明恵上人は自戒の人であり、生涯を女性と交わることなく過ごしたと伝えられている。ただ、明恵を慕う若い尼たちがおり、たびたび欲望にとりつかれたが、不思議な妨げにより過ちを犯すことがなかったという。

 明恵上人歌集には次の和歌の収載があり、自在な境地を伺うことができる。
 『あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月』 
鳥獣人物戯画(1)
 高山寺所蔵の国宝に指定されている絵画として上記「明恵上人像」のほかに「鳥獣人物戯画」(左の写真はその一部)がある。「鳥獣人物戯画」は甲乙丙丁の4巻からなる墨絵で、平安時代・鎌倉時代(12・13世紀)に平安時代後期の僧鳥羽僧正覚猷
(とばそうじょうかくゆう)の作によると伝えられているが確証はなく、4巻それぞれ作者は異なるとも考えられており、作者未詳である。

 「鳥獣人物戯画」4巻のうち、甲巻は擬人化した動物を描いており、4巻中で白眉とされている。左の写真は甲巻の一部である。
鳥獣人物戯画(2)
 左の写真も「鳥獣人物戯画」、甲巻の一部である。

 石水院では「鳥獣人物戯画」はガラスケースに入れて保管されており、ケースの外から見学するようになっているが、これは模写品である。オリジナルの国宝指定のものは、京都国立博物館と東京国立博物館に寄託されている。
日本最古の茶園(1)
 石水院へ入る門の横、開山堂の方に向かって北へ進む参道の西側には竹製の柵に囲まれた「茶畑」があり、そばには『日本最古之茶園』と書かれた石柱の標識(左の写真)が建てられている。

 鎌倉時代初期に栄西禅師が宋から茶種をもって帰国し、明恵上人に贈った。明恵上人はこれを栂尾山に植え、その後、宇治その他の土地に移し植えられたという。以来、栂尾は茶の発祥地とされ、鎌倉時代後期〜室町時代には日本第一の産地となり、毎年天皇にも献上されていたといわれている。
日本最古の茶園(2)
 左の写真は茶園内の茶畑である。

 中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外の茶を非茶と呼ばれていたという。今でも、5月の中旬には茶摘みが行われている。

 茶は僧侶の修行の妨げになる眠気を防止する作用があるとされ、寺では広く栽培されていたというが、真偽のほどは不明である。
法鼓台付近の紅葉
 石水院へ入る門を右手に見て北の方向に進むと参道西側には上述の茶園、東側には「法鼓台」が建てられているにが見える。参道から法鼓台を見ると紅葉の季節には見事な紅葉風景(左の写真)を見ることができる。
開山堂
 法鼓台横の参道を北に進むと東側に聖観音像があり、その東側に「開山堂」(左の写真)が建てられている。

 明恵上人が晩年を過ごした善堂院の跡地に建てられている。明恵上人が入寂したのもこの善堂院である。建物は室町時代に兵火に遭って焼失し、江戸時代に再建されたものといわれている。

 ここには重要文化財に指定されている「明恵上人坐像」が安置されている。
開山堂前から見た紅葉
 「開山堂」の前は一寸した広場になっており、この広場の南端から南側、法鼓台の方に向かって木立が広がっているが、秋の季節には左の写真のようにきれいに紅葉しているのを見ることができる。
明恵上人御廟(1)
 「開山堂」横の参道を奥に進むと、参道の傍、小高い場所に向かって石段がつけられており、その石段を上がると明恵上人の墓所、「明恵上人御廟」(左の写真)がある。

 墓域に立ち入ることはできないが、御廟覆屋の中には古い五輪塔が収められているという。左の写真中央やや左に石碑が見えるが、これには明恵上人の遺訓『阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)』と書かれており、これは人間日常の簡短で深奥なる教えであるとされている。
明恵上人御廟(2)
 左の写真は「明上人御廟」を正面から撮影したものである。左の写真左端に上部のみが見えている塔は宝筐印塔で高山寺型と呼ばれている古式の塔である。写真ではよくわからないが、宝筐印塔の右側には如法経塔があり、廟の近くには歴代の住持である土宜法龍、土宜覚了、小川義章、葉上照澄の墓がある。
仏足石
 「明恵上人御廟」に上がる石段を右に見て金堂の方向に細い参道を進むと「仏足石」(左の写真)が見える。「仏足石」は釈迦の足跡をかたどって礼拝の対象としたものである。仏足石は高山寺に限らず多くの寺院で見られるが、考えられないほどその足跡は大きく、実際の釈迦の足はこのように巨大なものだったとは思えないので、誇張されて表現されているのであろう。

 この「仏足石」は正面の開いた実に簡素な小さい覆屋に囲われているのみであり、この前を素通りして行く参拝者も多い。
仏足石参詣道標識
 「仏足石」の近くには『佛足石さんけい道』と刻まれた石碑(左の写真)が立てられており、信仰を集めていたことをうかがわせる。
金堂(1)
 境内の最も奥に「金堂」(左の写真)が建てられている。この場所にはかつて本堂が建てられていたようである。かつての本堂は承久元年(1219年)に建立、阿弥陀堂、羅漢堂、塔、鐘楼などがその周辺に建てられていたといわれている。

 かつての本堂は室町時代に焼失したため、寛永11年(1634年)に御室仁和寺から古御堂を移築したのが現在の「金堂」である。「金堂」には本尊「釈迦如来像」が安置されている。
金堂(2)
 左の写真は「金堂」を正面から見たものである。

 「金堂」は静寂な木立の間に建てられており、しかも周囲には金堂以外の堂于がなく、何となく裏寂しい感じがする。

 「金堂」は重要文化財に指定されている。
金堂道
 表参道から「金堂」まで「金堂道」と呼ばれている石段の道がつけられている。左の写真は「金堂道」の一部であり、写真中央やや左上、木立の間にかろうじて「金堂」の屋根が見える。

 「金堂道」を通ると表参道から、石水院、開山堂、明恵上人御廟などを経由拝観することなく直接「金堂」に着くことができる。

 高山寺には数多くの文化財が所蔵されているようであるが、建造物以外の国宝は事実上公開されていないようである。国宝に指定されている文化財の内、特に著名なものに、上述の建造物「石水院」、絵画「鳥獣人物戯画」及び「明恵上人像」があるが、絵画は京都国立博物館に寄託されており、一般に石水院で公開されているものは複製品である。このほかに国宝に指定されている書、絵画等があるが、これらは京都国立博物館に寄託されているようである。

最終更新日:2016年2月27日

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