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西本願寺

所在地及びアクセス

 京都市下京区堀川通花屋町下ル

 JR「京都」駅下車。北側の出口を出て、中央郵便局の前を通り塩小路通を西に向かって進み、堀川通(国道1号線)に出て右折し、堀川七条(七条堀川)交差点を越え、約250m北に進むと左手(西側)に西本願寺の門(御影堂門)が見える。
 または、塩小路通と西洞院通の交差点、下京区役所の角を北側に折れ、七条西洞院交差点を通り西洞院通を北進する。正面通との交差点を左折して西向きに直進し、総門を越え堀川通を渡ると西本願寺の御影堂門に着く。
 京都駅から徒歩10〜15分。

縁起


 親鸞の末娘の覚信尼が文永9年(1272年)に京都大谷に造った「大谷廟堂」が本願寺の起源であるとされている。大谷廟堂が「本願寺」と称するようになったのは覚信尼の孫覚如の時代であるといわれている。

 その後、比叡山と対立し、寛正6年(1465年)に本願寺は破壊されたため、文明10年(1478年)に京都山科に本願寺が再建されたようであるが、これも天文元年(1532年)に焼き払われたため、現在の大阪城付近の大坂石山に移り、石山本願寺が創られようである。

 11代顕如は石山本願寺を本拠として元亀元年(1570年)に織田信長と11年に及んだ合戦を開始したが敗れ、和歌山の鷺森、和泉貝塚、大坂天満と転々としたといわれている。その後、天正19年(1591年)に豊臣秀吉から現在の地を与えられ、翌年に御影堂が完成したとされている。

 (私見:上述の通り、本願寺は各地を転々としているのであるが、それらは全て争い事に起因しているように見える。それに、親鸞を宗祖とする寺でありながら比叡山と対立したり、何とも争い事の多い寺である。)

境内堂宇配置
西本願寺堂宇配置図

見所など
総門
 西本願寺の「総門」(左の写真)は境内の事実上の正門と思われる「御影堂門」の真東側に堀川通(国道1号線)を隔てて建てられている。写真でもわかるようにかなり簡素に見える造りである。

 左の写真は「御影堂門」を背にして撮影した「総門」で、写真の背景に見えるように、総門の東側の通りは仏壇屋が軒を連ねる門前町である。

 寺の敷地は境内堂宇配置図でも分かるように、ほぼ正方形で、境内の東西南北にそれぞれ門があるが、通常、参拝者や見学者は境内東側の堀川通に面した二つの門、「御影堂門」か「阿弥陀堂門」から境内に入る。
御影堂門
 上述したように境内東側には二つの門があるが、そのうちの一つが「御影堂門」(左の写真)である。

 「御影堂門」は「御影堂」のほぼ正面東側に位置しているが、門と「御影堂」の間に塀や銀杏の木があり、門を通して「御影堂」は見えにくい。「御影堂門」は大きい門であるが通常の寺院に見られるような形式のものであり、見た感じ地味である。
阿弥陀堂門
 境内東側の二つの門の内、もう一つは「阿弥陀堂門」(左の写真)である。「阿弥陀堂門」は「御影堂門」の北側にある。

 「御影堂門」に比べ、この「阿弥陀堂門」は写真でもわかるように金ピカの装飾が施されており、派手な感じがする。「阿弥陀堂門」は「阿弥陀堂」のほぼ正面東側に位置しており、門を通して「阿弥陀堂」を見ることができる。写真で「阿弥陀堂門」の奥に見えているのが「阿弥陀堂」である。
御影堂
 「御影堂門」をくぐり境内に入ると正面に巨大な建物「御影堂」(左の写真)が見える。

 「御影堂」は寛永13年(1636年)に建立され、その後寛政13年(1800年)の大修復を含め何回かの修復工事が行われている。直近では平成11年(1999年)から平成大修復工事に入り、工事に10年を費やし2009年に大修復が完了した。
御影堂正面近景
 「御影堂」は西本願寺最大の建造物で後述する本堂「阿弥陀堂」より大きい。

 西本願寺は自由に中に入って拝観、参拝できる建物は多くはないが、「御影堂」は自由に出入り可能で中に入り内陣前で参拝可能である。左の写真は「御影堂」の正面である。
御影堂廊下
 「御影堂」の正面の階段を上がると、左の写真に見られるように正面に広い廊下がある。これを横切り堂内に入る。

 建物の巨大さからも推測できるが、「御影堂」の外陣には約3000人を収容することができるという。
御影堂内陣
 左の写真は平成大修復工事の始まる前、平成11年(1999年)に撮影した「御影堂」の内陣である。内陣中央部には親鸞聖人の木像が安置されているという。

 賽銭箱は内陣前に置かれているのが普通であるが、「御影堂」、後述する「阿弥陀堂」何れも内陣から離れた柱に背の高い箱が取り付けられており、これが賽銭箱になっている。他ではあまり見られない形の賽銭箱である。

 「御影堂」は重要文化財に指定されている。
御影堂と阿弥陀堂の間の廊下
 「御影堂」と「阿弥陀堂」(後述)は渡り廊下で連結されている。左の写真はその「渡り廊下」である。この渡り廊下を歩くとキュキュという音が出るが、これは所謂、”鶯張り”として建てるときに設計されていたのであろうか。
阿弥陀堂
 「阿弥陀堂門」をくぐると正面やや右手に大きな建物、「阿弥陀堂(本堂)」(左の写真)が見える。上述したように「御影堂」とは渡り廊下で繋がっている。

 現存の建物は宝暦10年(1760年)に再建されたものといわれている。本尊は阿弥陀如来立像であるが一段高く造られた内陣の厨子の中に安置されており、通常は直接の拝観はできないようである。

 「阿弥陀堂」も自由に中に入って参拝することができる。その外陣も巨大であり、約1500人が座れると言われているが、「御影堂」に比べるとやや小ぶりである。

 「阿弥陀堂」は重要文化財に指定されている。

 一般的には本尊を祀っている本堂の方が大きいのが普通であるが、西本願寺は親鸞聖人の廟所が起源になっていることから、本堂の「阿弥陀堂」よりも「御影堂」の方が大きいのであろう。
本願寺銀杏の木
 左の写真は「御影堂」の前に植えられている銀杏の木「大銀杏」である。

 枝は低い位置から水平乃至は斜め上に伸びており、真っ直ぐ上に延びている枝は少ない。これは植栽時からこのような形になるように整形されているものと思われる。

 樹齢は不明であるが、「御影堂」の建立と同時期に植えられたものと推測されている。銀杏は火災に強いが、天明8年(1788年)や元治元年(1864年)の大火にも耐えてきたといわれている。

 この「大銀杏」は京都市指定天然記念物である。
書院
 「御影堂」のすぐ南側に新しい建物「龍虎殿」があり、その西側に「書院」が建てられている。

 左の写真は「書院」を南側から見たものであるが、塀に囲われていて内部を見ることもできないし、通常は公開もされていない。外からうかがい知る限り建物としては寺院らしくなく、どちらかというと武家屋敷風である。

 「書院」内には国宝に指定されている鴻の間、雁の間、菊の間、白書院、黒書院、北能舞台や、重要文化財に指定されている南能舞台があるが簡単には見学、拝観できない。
唐門
 「書院」の南側、北小路通に面して派手な装飾を施した「唐門」(左の写真)がある。

 「唐門」は伏見城から移築したものといわれている。いつ頃この場所に造られたものかは明らかではないようであるが、17世紀前半、1630年頃ではないかと考えられている。

 「唐門」には驚くほど数多くの動植物の彫刻が見られる。それらは精緻を極めており、極彩色である。

 この門があまりにも美しいことから、日が暮れることさえ忘れて見とれてしまうということで「日ぐらしの門」とも言われているらしい。
唐門彫刻(1)
 左の写真は「唐門」正面上部中央部分の彫刻である。写真下部中央の金具に菊の紋章が見えるが、この門がかつて勅使門に使われていたことによるものではないかと思われる。
唐門彫刻(2)
 左の写真は「唐門」の柱上部の彫刻である。牡丹のような花の彫刻と獅子と思われるような奇妙な動物の彫刻が見える。また、写真左上には菊の花のような彫刻も見ることができる。
唐門彫刻(3)
 左の写真に見られるように「唐門」の側面には見事な透かし彫りが施されている
唐門扉彫刻
 「唐門」の扉にも左の写真のような動物の彫刻が施されている。左の写真の動物は獅子のように見えるが、何れも現存の動物そのものの彫刻ではない。扉に使われている金具には写真左上部に見られるように菊の紋章が彫られている。

 「唐門」は昭和53〜55年(1978〜80年)に修理が行われたようで、この時に彩色等が施されたものと推測される。

 この「唐門」は国宝に指定されている。
飛雲閣(1)
 境内東南隅に「飛雲閣」(左の写真)が建てられている。「飛雲閣」は特定の期間を決めて催される特別拝観時以外は一般公開されていない。ただ、左の写真のように二層の大部分と三層は境内東南にある鐘楼の傍から塀越しに見ることができる。

 「飛雲閣」は秀吉の聚楽第から移築したと伝えられているようで、ここに建てられたのは17世紀らしいが明白ではなく、建造目的も含め謎の部分が多いという。

 建物の形状、屋根など複雑多様、変化に富んでおり、雑然とした感じがしないでもないが、これはこれで独特の美しさを見せている。
飛雲閣(2)
 左のコピーは西本願寺で販売されている絵ハガキより転写した「飛雲閣」である。

 左のコピーのような「飛雲閣」の全体像は上述したように特別拝観時以外見ることができない。特別公開期間でも建物の傍に近づくことはできないし、離れたところからの写真撮影すらも禁止で、多くの監視員が配置されている。かつて、公開期間中に一人の中年女性がそっと撮影したのを監視員に見られ注意されているのを目撃したことがある。撮影禁止の措置について、多くの人々は不満を表明していた。不満が出るのは当然であろう。何故、撮影禁止にしなければならないのか理解できない。

 「飛雲閣」は国宝に指定されている。

 「西本願寺」は世界遺産に登録されているが、「東本願寺」は登録されていない。これは「西本願寺」には歴史的に古い建物が多く、国宝に指定されている多くの建造物やその他の文化財(例えば親鸞聖人像、三十六人家集)を擁している。それに対し、「東本願寺」の建造物は歴史的に比較的新しい、というのがその理由らしい。

 「西本願寺」から受ける印象は寺院というより、昔の大名屋敷という感じになろうか。それにしても、文化財はできるだけ公開して多くの人々がその素晴らしさを甘受できるようにすることが、結果として文化財としての価値を高めることになるのではないかと愚考する。諸外国の例を見ても文化財は広く公開される時代になってきているのである。

2009年11月2日最終更新
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