ホーム > 京都の世界文化遺産一覧 > 銀閣寺 サイトマップ

慈照寺(銀閣寺)

所在地及びアクセス

 京都市左京区銀閣寺町
慈照寺所在地図
 JR京都駅(京都市バス「京都駅前」)から[100]系統「清水寺、祇園、銀閣寺」行きに乗車し「銀閣寺前」で下車。又は[5]系統「動物園、岩倉操車場」(同系統で銀閣寺道までの便もあり)行きに乗車し「銀閣寺道」で下車。又は[17]系統「河原町通、錦林車庫」行きに乗車し「銀閣寺道」で下車。以上三つの系統のうち、[100]及び[5]系統は便数が比較的多い。
 阪急京都線河原町駅(京都市バス「四条河原町」)から[32]系統「銀閣寺」行きに乗車し「銀閣寺前」で下車。又は[5]系統「
動物園、岩倉操車場」(同系統で銀閣寺道までの便もあり)行きに乗車し「銀閣寺道」で下車。又は[17]系統「錦林車庫」行きに乗車し「銀閣寺道」で下車。又は[203]系統「祇園・錦林車庫」行きに乗車し「銀閣寺道」で下車。以上四つの系統のうち、[5]系統は便数が比較的多い。
 京阪電車三条駅(京都市バス「三条京阪前」)から[5]系統「
動物園、岩倉操車場」(同系統で銀閣寺道までの便もあり)に乗車し「銀閣寺道」で下車。

 「銀閣寺道」バス停から北の方向に進み白川通今出川交差点を東の方向に曲がり(右折)、道なりに進むと「慈照寺(銀閣寺)」の総門に着く。「銀閣寺道」バス停から徒歩約10分。「銀閣寺前」バス停からはバス停の北側にある信号のある交差点を東に方向に曲がり(右折)、道なりに進むと「慈照寺(銀閣寺)」の総門に着く。「銀閣寺前」バス停から徒歩約5分。

縁起
朱印
 室町幕府8代将軍足利義政の時代、部下の対立や義政の妻日野富子の政治への口出し等で政局は混乱し、後継者争いから応仁の乱が起こったとされている。義政は政治に嫌気を感じたようで、政治の世界から逃れ静かな生活を送るため、応仁の乱で焼失した浄土寺の跡地に、文明14年(1482年)に東山殿を造営した。東山殿を築造するに当たり、義政は祖父である3代将軍義満の北山殿金閣に劣らぬ建築を意図し、相国寺の僧に相談したという。

 義政の没後、義政の法号慈照院に因み慈照寺と名付けられ夢窓疎石を開山とした、と伝えられている。その後、火災に遭い東山殿当時からの遺構は観音殿(銀閣)、東求堂及び庭園のみであるといわれている。

 この寺の正式名称は「慈照寺」であるが、通称名である「銀閣寺」の方が一般にはよく知られている。

総門から中門へ
総門
 銀閣寺宇多野線の道路を東の方向に進みむと、慈照寺(銀閣寺)の「総門」(左の写真)前に着く。

 「総門」の規模は想像していたものより小さい。
お札の拝観券
 「総門」をくぐると受付のような場所があり、ここで拝観料を支払うことになる。拝観券(左のコピー)は金閣寺と同様の『銀閣寺御守護』と書かれた「家内安全開運招福のお札」であり、その大きさは縦17.1cm、横6cmであり、金閣寺のお札に比べ一回り小さいが、持ち帰りだけを考えればこの程度の大きさの方が便利である。
銀閣寺垣
 受付のような場所から中門まで特徴のある「銀閣寺垣」の参道(左の写真)が続いている。

 「銀閣寺垣」は低い石垣、低い建仁寺垣、それに樫、椿などの常緑樹の高い生垣からなっているが、左右の造りが異なっている。
これがアンバランスな感じを与えているが、参道として趣があり印象的である。

銀閣(観音殿)
銀閣
 中門を入るとすぐ右手に「銀閣(観音殿)」(左の写真)が見える。

 観光客の中には、金箔を張られた金閣に対応して、銀閣は銀箔を張った建物であることを想像してここを訪れて来る人もいるようで、想像していたような建物ではないと言い合っている声が聞こえてくる。

 銀閣の名は江戸時代になって起こったといわれているが、銀箔が張られていた証拠はないという。黒漆塗りの建物を何故、銀閣と称したのか。銀閣、金閣は共に西芳寺の瑠璃殿を真似て造られたといわれており、派手な造りの舎利殿(金閣)に対し観音殿は地味であったことから、銀閣と呼ばれるようになったのであろう。
銀閣一層近景
 「銀閣」の一層(一階)は心空殿とよばれ書院風の造り(左の写真は一層の一部)に、二層(二階)は潮音閣とよばれ花頭窓を多く用いた禅宗仏殿造りになっているようである。
銀閣屋根上の鳳凰
 「銀閣」の屋根の上には東面した鳳凰(左の写真)が置かれている。この鳳凰は「銀閣」に祀られている観音菩薩を守るという意味があるという。

 「銀閣」は金閣と同じような様式の造りであるが、これは由来から見て当然であろう。
銀閣と庭園
 「銀閣」の東側には庭園が拡がっている。左の写真は庭園の錦鏡池対岸から望んだ「銀閣」であり、この場所は「銀閣」の撮影スポットになっている。

 観音殿が上棟されたのは長享3年(1489年)とされているが、これは足利義政が他界する1年前であり、義政は観音殿の完成を見ていないのではないかと思われる。
銀閣、向月台と銀砂灘
 左の写真に見られるように、「銀閣」のやや北寄りの東側に、白砂を敷きつめ表面に縞模様をつけた「銀沙灘(ぎんしゃだん)が広がっており、その隅、銀閣寄りのところに白砂を円錐状に盛り上げ、頂部を水平にした富士山状の「向月台」がある。これらは、銀閣が造られた当時からあったものではなく、江戸後期に造られたものであるといわれており、義政とは何の関係もないものらしい。銀沙灘、向月台が造られた意図はわからない。

 銀閣寺の生い立ちと関係がないといわれている銀沙灘と向月台が妙に印象的であり、何故か、目を引く。


 「銀閣」国宝に指定されている。

本堂と東求堂
本堂
 「銀沙灘」の北側に「本堂」(左の写真)が建っている。現存する「本堂」は江戸時代初期に再建されたものといわれており、本尊釈迦牟尼仏が安置されている。また、足利義政と妻日野富子の位牌も安置されているという。義政にしてみれば、稀代の悪妻といわれた富子と死後まで一緒に過ごすとは思ってもいなかったことであろう。考えようによっては気の毒な話である。
東求堂(1)
 「本堂」の東側に「東求堂(とうぐどう)(左の写真:ほぼ南側から撮影)が建っている。

 東求堂が完成したのが文明18年(1486年)であり、その後、何回か修復されているようで、昭和になってからも修復されているが、その際、東求堂のあった場所は現在の位置ではない可能性のあることがわかったといわれている。
東求堂(2)
 政治から逃げ出した義政が晩年、諸芸の達人を集め東山文化の集いを開き、茶道、華道、能などの伝統文化を生み出した場所がこの「東求堂」(左の写真:東南側から撮影)であるという。また、この中にある茶室は日本最古のもので、茶室の模範であるとされているようである。

 「東求堂」国宝に指定されている。
銀閣寺形手水鉢
 「本堂」と「東求堂」は短い廊下でつながっているが、その廊下のある場所に「銀閣寺形手水鉢」(左の写真)が置かれている。

 この手水鉢は通常見られるものとは異なり、写真でわかるようにかなり特異な形をしている。

庭園
洗月泉
 「銀閣」の東側から「東求堂」の南側にかけて、錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園が広がっている(上述の銀閣、東求堂の写真に庭園の一部が写っている)。

 庭園の片隅に「洗月泉」(左の写真)と呼ばれている小さな滝(落水)がある。この「洗月泉」のもつ謂われについてはわからない。
洗月泉(2)
 「洗月泉」の落水のある池の中に実に多数の硬貨が投げ入れられている場所(左の写真)がある。

 硬貨の投げ入れられた場所の中心に黒い石が置かれているが、この石の上に投げた硬貨が乗れば縁起がいいと言われているのではないかと推測される。

 この庭園は善阿弥の作とされており、国特別史跡・国特別名勝に指定されている。
お茶の井
 場所から見て史跡・名勝に指定された庭園に含まれるか否かよくわからないが、東求堂の東側やや高い位置に「お茶の井」(左の写真)とよばれる湧き水がある。この水は足利義政の茶湯に用いられたといわれている。

 お茶の井の水質はよく、現在もお茶の会に用いられているというが、
見た感じでは何となく薄汚れており、好んで飲みたい水とは思えない。

 お茶の井の右手には「漱蘚亭(そうせんてい)石組み」がある。この石組みは相阿弥の築いたものといわれており、西芳寺の竜渕水石組みと類似し、後世の茶室の源流とされてきたという。

展望所から見た銀閣寺

 境内東側にある高台に上ると展望所があるが、そこから銀閣寺全景(直下の写真)を見渡すことができる。
銀閣寺全景

 全景写真で左方に見えるのが「銀閣」、中央に「銀沙灘」が見え、その右方に「本堂」、本堂の手前に「東求堂」が見える。横長の屋根の見える建物が「書院」である。
展望所から見た銀閣
 展望所から見ると銀閣寺境内の規模はそう大きなものではないのがわかる。

 左の写真は展望所から見た「銀閣」である。
好みが分かれるところであろうが、私はこの位置から見下ろした「銀閣」のほうが下から見たそれよりも好きである。

2003年10月12日更新
京都の世界文化遺産一覧のページへ戻る このページの先頭へ戻る

Yukiyoshi Morimoto