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平等院


所在地及びアクセス


 京都府宇治市宇治蓮華116

 京阪電車宇治線「宇治」駅下車。駅前広場の南側にある宇治橋を渡り、直ぐ左折すると平等院参道の標識があるので、それに従い土産物屋の並んでいる参道を道なりに進むと平等院の表門に着く。
 京阪「宇治」駅から平等院まで徒歩約10分。

 他のアクセス法として、JR奈良線「宇治」駅で下車し、東の方向へ徒歩約10分で平等院に着くことができるが、平等院までの道程がやや分かり難いので、京阪電鉄宇治線を利用する方が便利である。

 平等院は世界文化遺産の宇治上神社に近いので、同じ日に両者の拝観、見学が可能である。

縁起
平等院の朱印
 平等院は9世紀後半に造られた源融
(みなもととおる)の別荘を長徳4年(998年)に藤原道長が譲り受け、後に、その子藤原頼通が受け継ぎ、宇治殿と称したことに端を発すると伝えられている。

 頼通は永承7年(1052年)に宇治殿を天台宗の寺院「平等院」としたといわれており、天喜元年(1053年)には阿弥陀堂が建造され、阿弥陀堂には木造阿弥陀如来座像が安置されたという。

 当時は非常に規模の大きな寺院だったらしいが、建武3年(1336年)に楠木正成によって建造物の大半が焼かれ、応仁の乱で更に衰退し、当時から残っているものは、阿弥陀堂(現在は「鳳凰堂」と呼ばれている)と鎌倉時代に再建された「観音堂」だけらしい。

平等院諸堂配置
境内略図
 左のコピー(平等院の拝観パンフレットより)は平等院の諸堂配置略図である。平等院は東向きの鳳凰堂を中心に各建物がその横と後方に配置されており、鳳凰堂の正面には石灯籠以外何も建てられていない。

見所など
表門
 宇治橋を渡り左折すると直ぐに平等院への参道が始まる。この参道を道なりに進むと、平等院の「表門」(左の写真)に着く。「表門」の造りは簡素である。

 表門の手前右側に受付があり、ここで拝観料(鳳凰堂内の拝観料は別途必要)を支払って表門をくぐり境内に入る。
鳳凰堂(1)
 「表門」をくぐり奥に進むと、阿字池の傍に建てられている「鳳凰堂」(左の写真)が見える。

 「鳳凰堂」は2012年9月から修理工事に入り2014年3月に一部を残して工事が完了し、4月から堂内の拝観が再開された。修理は平安時代に使われていたとされている丹土で柱などを塗り、瓦も光沢の少ないものを使い、中堂屋根上の鳳凰、翼廊楼閣上の露盤宝珠、扉の釘隠しなども創建時の金色になり、創建時の華やかな雰囲気によみがえったという。写真でもわかるように、堂全体が修理前に比べ明らかに鮮やかな赤色に彩られている。
鳳凰堂と阿字池
 かつて、人々は阿字池に映る「鳳凰堂」に西方浄土の阿弥陀仏の宮殿を見たという。尤も、鳳凰堂が池面に綺麗に映るためには、無風状態などかなり好条件に恵まれなければならない。

 左の写真(2006年11月撮影のもので2012年〜2014年の修理が行われる前の鳳凰堂)は「鳳凰堂」と阿字池に映った「鳳凰堂」である。かなり良好な条件下でも映った姿はこの程度である。

 1990年から8年間にわたって鳳凰堂と鳳凰堂を囲んでいる阿字池を中心とした庭園の発掘調査が行われた。その結果、鳳凰堂が現在の形になったとされている1100年頃は、中堂から伸びている両翼廊の端は池の中に突き出した形をしていたことがわかった。その当時は「鳳凰堂」はさながら池に浮かぶ宮殿という趣があったようである。

 直下の写真は、ほぼ正面に近い場所から見た「鳳凰堂」である。
鳳凰堂(2)
 「鳳凰堂」は平等院の本堂であり、10円硬貨の図柄に採用されているのでお馴染みである。

 現在、「鳳凰堂」と呼ばれている建物は、もとは「阿弥陀堂」と呼ばれていたとされているが、これが「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代からといわれている。

 「鳳凰堂」は国宝に指定されている。
鳳凰堂屋根上の鳳凰
 「鳳凰堂」の名称の由来については中堂、左右の翼廊、尾廊が羽を広げた架空の鳥「鳳凰」に似てるためという説と、中堂の屋根の上両端に付けられた「鳳凰」の像(左の写真)に因んでいるという説の二説があるらしい。名前の由来のようなものは、通常、いろいろあるのが普通であるが、前者が正しいのではないかと思われる。

 なお、現在屋根の上に付けられている「鳳凰」は「鳳凰堂」建立当初のものではなく、模造品である。

 鳳凰堂創建時の鳳凰像を科学調査し、その結果に基づき平安時代の姿を再現した復元模型が制作されている。この復元模型は現在(2014年7月)一般公開していないが、頭部の毛は五色に輝いているという。

 「鳳凰堂」建立当初の「鳳凰」は国宝に指定されている。
鳳凰堂中堂中央正面近景
 鳳凰堂前に広がる阿字池の対岸から「鳳凰堂」中堂中央正面の格子状障壁につけられた丸窓を通し本尊の「阿弥陀如来」の顔を拝観することができる(左の写真)。

 これは推測であるが、かつて、一般庶民は鳳凰堂の中に入って阿弥陀如来を直接拝観することを許されておらず、池の対岸からこの丸窓を通し阿弥陀如来を拝んだのではなかろうか。
鳳凰堂と枝垂れ桜
 春、桜の季節には鳳凰堂対岸に植えられている枝垂れ桜が咲き、桜の花と鳳凰堂中堂の対比に絵画的な趣がある(左の写真:写真は2003年4月撮影)。
室町椿(1)
 1990年から8年間にわたって行われた発掘調査により、平安時代の庭園は地下0.5〜1mのところに発見された。当時の阿字池は今よりずっと大きかったようであり、対岸や山々を取り入れた借景庭園だったといわれている。阿字池を中心とした現在の庭園は平安時代の遺構であり、当時の庭園は地下に埋没し、形が変わってしまっているらしい。

 阿字池の発掘調査中、平成9年(1997年)に池底の泥の中から椿の種子が出土し、これが奇跡的に発芽した。

 栽培を続けた結果、平成15年(2003年)にはじめて開花し(左の写真:2003年4月撮影)、4月に「室町椿」として鵬翔館のロビーで一般公開された。
室町椿(2)
 この「室町椿」(左の写真:2003年4月撮影)は600年以上を経て開花したわけで、かつての平等院で咲いていたであろう椿を見ることができると共に、植物史上でも重要な事柄であるといわれている。

 「室町椿」は花弁からみて中国種の信仰木としての樹木と日本のやぶ椿の交配であると想像されている。
鳳凰堂内の阿弥陀如来と天蓋
 「鳳凰堂」内には本尊の「木造阿弥陀如来坐像」及び「二重天蓋」(左のコピー:平等院発行のパンフレットより)、それに壁面には「雲中供養菩薩像」が付けられ安置されている。

 本尊「木造阿弥陀如来坐像」は天喜元年(1053年)、仏師定朝の作であり、これは定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像とされている。仏像だけで高さ約2.8m、これに高さ約1.8mの台座が加わり、しかも、更に大きな光背が付けられているので傍で拝観すると、はるかに見上げなければならない大きさである。

 2004年2月に本尊の「阿弥陀如来坐像」が「鳳凰堂」から搬出され、50年ぶりに修理が行われた。また、本尊の修理後に天蓋の修復も行われ、この平成の大修理は2007年まで続けられた。

 「阿弥陀如来坐像」及び本尊頭上の「天蓋」は共に国宝に指定されている。
 
雲中供養菩薩像
 「鳳凰堂」内の壁面には「雲中供養菩薩像」は全部で52体あるが、その内の半数が「鳳凰堂」内の壁面に付けられ安置されている。残りの半数の「雲中供養菩薩像」は「鵬翔館」内に展示されている。

 左のコピー(平等院鵬翔館内で販売されている絵はがきより)は52体の「雲中供養菩薩像」の内の1体で北25号と名付けられている。

 「雲中供養菩薩像」には補修されたものもあるらしいが、殆ど当初の形を保っているといわれている。52体はそれぞれ踊ったり、楽器を奏でたりしている姿をしているが、これは極楽浄土の様を表現しているという。

 52体の「雲中供養菩薩像」は1体を除き全て国宝に指定されている。

 「鳳凰堂」の壁面や柱に描かれている「壁画」は経年により、殆どの部分が剥落変色してしまっている。「扉絵」の方は近年模写されたもので、オリジナルのものは別に保存されているとのことである。「壁画」、「扉絵・還来迎図八面」は国宝に指定されている。

 「鳳翔館」内にも鳳凰堂にあるような「扉絵」が展示されているが、彩色が鮮やかであり、これはオリジナルではなくCGによって複製されたもののように推測される。
鐘楼
 「鳳翔館」に近接してその東側に「鐘楼」が建てられている(左の写真)。

 この「鐘楼」に吊っている「梵鐘」は著名な名品といわれているが、「鐘楼」は至って簡素である。尤も、吊られている「梵鐘」は複製品であり、オリジナルのものではない。

 
梵鐘
 平等院の「梵鐘」は神護寺、三井寺と共に日本三銘鐘の一つに数えられ、形の美しさで有名である。鐘楼には「梵鐘」(左の写真)が吊られているが、上述したようにこれは複製品であり当初のもの(オリジナル)ではない。

 オリジナルの「梵鐘」は「鳳翔館」に保存展示されており、国宝に指定されている。

 鐘楼に吊られている「梵鐘」はオリジナルのものと比較し、形状は全く同じに作られているとされている。
観音堂
 「鳳凰堂」の北側、境内の北隅近くに「観音堂」(左の写真)が建てられている。

 「観音堂」は鎌倉時代初期に再建されたものといわれており、堂内には藤原時代初期に造られたと考えられている「木造十一面観音立像」が安置されている。「観音堂」は通常閉められているが、時期によっては公開され内部を直接拝観することができるようである。

 「観音堂」及び「木造十一面観音立像」は重要文化財に指定されている。
扇の芝
 表門を入ってすぐ左手、「観音堂」の北側で境内の北隅に当たる所に「扇の芝」といわれる場所がある(左の写真)。

 治承4年(1180年)に平家追討の兵を挙げた源三位頼政は宇治川で平知盛の大軍に追撃され、傷ついた頼政は扇を開いて辞世の一首、『埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける』を残し、ここで自刃したと伝えられている。
扇の芝(2)
 「扇の芝」と呼ばれている場所は正に扇を拡げたような形状をしているが、そこに左の写真に見られるような一寸変わった形状で、『扇芝』と彫られた石が置かれている。真実は分からないであろうが、源頼政はこの石の置かれた位置で自刃したのであろうと想像したい。

 それにしても、扇の芝は何となく不気味な雰囲気が漂っている不思議な場所である。
最勝院
 「鳳凰堂」の西北側に「最勝院」が建てられている(左の写真)。「最勝院」は承応3年(1654年)に創始された平等院の塔頭である。
源頼政の墓
 「最勝院」の境内南側にある不動堂の脇に「源頼政の墓」がある(左の写真)。

 源頼政は「扇の芝」の説明でも述べたように、平智盛の軍の追撃を受け、負傷し自刃した。享年76歳だったという。その際、辞世を残しているが、歌人としても高名で、勅撰集にも優れた歌を多く残している。また、頼政は鵺(ぬえ:頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミという伝説上の怪獣)を射落とした人と言われており、世阿弥の名作である能「鵺」で鵺の霊が、源頼政に射落とされた身の悲劇を仕方話で物語っている。

最終更新:2014年7月24日
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