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塚原古墳群

(由緒はあるがその多くは破壊されてしまっている古墳群)
所在地及びアクセス:

 高槻市塚原一丁目、二丁目、三丁目、大和一丁目
塚原古墳群所在地図
 JR東海道線(JR京都線)「摂津富田」駅下車。駅に近接して北側にある高槻市営バス「JR富田駅」乗り場から「公団阿武山・日赤」、「日赤・公団阿武山」、「西塚原」行き(阿武野校前経由と宮田公民館前経由の2系統あるがいずれに乗車してもよい)のいずれかに乗車する。
 「公団阿武山・日赤」又は「日赤・公団阿武山」行きのバスに乗車した場合は「日赤病院」で下車する(行き先に「循環」表示のあるバスの方が表示のないバスに比べ乗車時間が若干長くなる)。
 坂道を南の方向に約200m下りると、広い通りに出るので西の方向に向かい(右折)道なりに進むと左前方にゴルフ練習場が見える交差点に着く。その付近から西側及び北側一帯が古墳群跡である。バス停から徒歩約10分。
 なお、「循環」表示の無い「日赤・公団阿武山」行きのバスではバス停「日赤病院南」で下車し、西の方向へ、また、「循環」表示のある「公団阿武山・日赤」行きのバスではバス停「塚原口」で下車し、西の方向へ道なりに進んでもよい。
 「西塚原」行きのバスに乗車した場合は「塚原」、「塚原2丁目」、又は終点の「西塚原」で下車する。下車する停留場は見学を希望する古墳の場所に基づいて決める。

 高槻市営バス「日赤・公団阿武山」行き、「公団阿武山・日赤」行き、「西塚原」行きの「JR富田駅」発車時刻(9:00〜18:00の間について)は下表の通りである(2009年4月1日改正、2010年3月現在)。
平    日 土 曜 日 日曜日・祝日
09 00(T) 05 15 25 33(T) 35 48 00 20(T) 15* 30 45* 00* 25(T) 15* 30 45*
10 01 15 22(T) 30 45* 00 15 25(T) 30* 45* 00 15 25(T) 30* 45*
11 00 15* 25(T) 30 45* 00 15* 25(T) 30* 45 00 15* 25(T) 30* 45
12 00* 15* 25(T) 30 45 00* 15* 25(T) 30 45* 00* 15* 25(T) 30 45*
13 00 15 25(T) 30* 45* 00* 15 25(T) 30* 45* 00* 15 25(T) 30* 45*
14 00 15* 25(T) 30* 45 00 15* 25(T) 30* 45 00 15* 25(T) 30* 45
15 00* 15 25(T) 30 45 55(T) 00* 15* 25(T) 30 42 54 00* 15* 25(T) 30 42 54
16 05 15 25(T) 30 43 57 06 15(T) 18 30 42 54 57(T) 06 15(T) 18 30 42 54 58(T)
17 00(T) 10 20 25(T) 30 40 50
55(T)
08 18 25(T) 28 38* 48 55(T)
58
08 18 25(T) 30 42 54 58(T)
 (T)印は「西塚原」行き。*印は「循環」表示あり「公団阿武山・日赤」行き。無印は「循環」表示無し「日赤・公団阿武山」又は「上の池滞留所」行き。

見所など:塚原古墳群概略

 「塚原古墳群」は大坂造幣局に招かれていた英国人技師ウイリアム・ゴーランドによって明治5年(1872年)に初めて世界に紹介された古墳群とされている。これが契機となり、我が国の古墳時代研究の先駆けになった古墳群とのことであり、由緒のあるものと考えられるが、後述するようにその多くは破壊されてしまった。
古墳群解説板付近
 左の写真はバス停「塚原二丁目」の近くにある高槻市教育委員会名の「塚原古墳群」説明板のある場所である。ただ、この場所の直近には古墳らしきものは見られない。
古墳群の石碑
 古墳の総数は百数十基を数え、分布状態により15群に分けられているようで、個々の古墳は大規模なものではなかったようであるが、かつては大阪府下でも指折りの古墳群だったといわれている。古墳の多くは横穴式石室をもつ直径7〜18mの円墳とされており、6世紀中頃から7世紀中頃にかけて造られたと考えられている。

 古墳群の被葬者は安威川(アイガワ:この地のすぐ西側を流れている川)流域一帯を支配していた豪族であるらしい。

 上記の古墳説明板近くの道端に昭和18年(1943年)に建てられたという「塚原八十塚」と彫られた石碑(左の写真)がある。「八十塚」というのは80基の古墳ということではなく、多数の古墳という意味で象徴的に用いられた数であろう。
古墳群付近の町並み
 百数十基あったといわれている古墳も宅地造成などのために、その多くは破壊された。平成20年現在、約40基が保存されているといわれているが、実際に視認できる古墳はそれほど多くはない。

 左の写真はかつて古墳があったと思われる付近の街並みである。

見所など:塚原古墳群@
阿武山ゴルフセンター内の古墳群
 バス停「塚原」や「塚原2丁目」の近くにあるゴルフ練習場(阿武山ゴルフセンター)の敷地の奥の方に数個の小山状の盛り土(左の写真)が見られる。この盛り土はA群古墳に属する墳丘の一部と推測される(古墳群を表す地図で
@の場所)。

 かつて、このゴルフ練習場の広告看板に「・・・古墳あり・・・」の字句が書かれていた事からみても、この盛り土は古墳の墳丘であるとの推測は当を得ているものと思われる。
阿武山ゴルフセンター内の法華経塚
 このゴルフ練習場建設に際し、幾つかの古墳を破壊したようで、練習場入り口の北側隅には「法華経塚」と書かれた塚原古墳群供養の石碑(左の写真)が建てられている。

見所など:塚原古墳群A
たんぽぽ児童遊園
 入口が道路に面し三方が住宅に囲まれた「たんぽぽ児童遊園」と命名されている小さな公園(左の写真)の奥の隅の地下に古墳の石室が保存されている。

 この古墳は昭和37年(1962年)に発掘調査が行われた後、埋め戻されたとされ、B群古墳「B33号墳」と命名されている(古墳群を表す地図でAの場所)。
B33号墳
 埋め戻されたという場所にはかなり大きな石(左の写真)が置かれているが、これは、石室の位置を示す標識と思われる。

 「B33号墳」の墳丘は径約18mで、周囲には濠がめぐらされていたという。形状は円墳で長さ約7mの南向き横穴式石室には5人が葬られていたと考えられているようであり、塚原古墳群の中では規模の大きい古墳であるという。

 周囲の状況から見て、この公園に近接している住宅は「B33号墳」の墳丘や周濠を崩して建設されたものと思われる。

見所など:塚原古墳群B
M3号墳(1)
 バス停「西塚原」から南側に坂道を少し下り東側に曲がる(左折する)と塚原第一公園があり、公園の南側に「M3号墳」(左の写真)が保存されている。左の写真は古墳の南側の道路から「M3号墳」を撮影したものである。

 「M3号墳」は古墳群を表す地図で
Bの場所にある。
M3号墳(2)
 左の写真は公園から見た(古墳北側から見た)「M3号墳」である。

 「M3号墳」には長さ約8m、幅1.5m、高さ2.2mの横穴式石室が現存しているという。
M3号墳(3)
 左の写真は「M3号墳」の横穴式石室の開口部である。
M3号墳開口部
 「M3号墳」の開口部を近くで見たのが左の写真である。何と開口部には無粋にもコンクリートの枠が付けられており、その上、開口部に金属製の網状の柵が取り付けられている。開口部の保存と内部に子供など人の入るを防ぐためかも知れないが、どう見ても不自然である。

 古墳の付近は現在、住宅が密集しているが元は住友化学の研究所のあった場所である。更に北側の山の方に向かって住宅地が開発されているが、この場所から北西側の山際に「D1号墳」や「H3号墳」等が発掘されているようであるが、特に保存されているような様子は認められない。

見所など:塚原古墳群C
E1E2号墳
 「M3号墳」のある塚原第一公園から東北の方向に進むと溝越し右手に低い小山状の2基の古墳が見える。これが塚原「E1号墳」と塚原「E2号墳」である(左の写真。古墳群を表す地図で
Cの場所)。

 左の写真で奥側が「E1号墳」、手前が「E2号墳」である。
E1号墳
 二基の古墳は大和南公園の西側隅に位置しており、墳丘が互いに接するように造られている。

 左は南側にある「E1号墳」を公園側から見た写真である。
E2号墳
 左は北側にある「E2号墳」を公園側から見た写真である。

 二基とも横穴式石室を持つ直径約16mの円墳とされているが、昭和43年(1971年)に発掘調査したときは既に破壊されていたという。
E2号墳墳丘北側
 左の写真は「E2号墳」北側であが、数個の大きな石が見える。この石はおそらく石室に使われていた石であろう。

 発掘調査で出た副葬品等から、二基とも3人以上の人々が順次埋葬された家族墓であるとされているようである。

見所など:塚原古墳群D
O1号墳遠望
 バス停「塚原」近くの信号のある交差点を北の方向に向かって坂を100mほど上がると右手に古墳が見える(左の写真)。

 この古墳は「O1
(オーイチ)号墳」と呼ばれており、マンションに隣接している公園の西南隅に保存されている(古墳群を表す地図でDの場所)。
O1号墳
 左の写真は公園から見た「O1号墳」の全景である。

 この古墳は昭和49年(1974年)に外形調査が行われ、横穴式の石室を持つ直径18mの円墳とされた。これは塚原古墳群の中では規模の大きい古墳という。
O1号墳中央陥没分
 直上の写真でもわかるが、左の写真で明らかなように古墳の中央部が陥没している。これは石室の石が一部抜き取られたことによるという。

 この「O1号墳」は出土品などから6世紀後半に造られた有力な家族の墓と考えられているようである。

 この古墳群は高槻市の「歴史の散歩路」にとり上げられている。

 (参考:高槻市教育委員会名の解説掲示板)

2010年3月8日最終更新
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