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鼻摺古墳

(天皇陵との説もあるらしい珍しい方形の古墳)

所在地及びアクセス:

 茨木市耳原(みのはら)3丁目10

 JR東海道線(JR京都線)「茨木」駅下車。駅北側の阪急バス1番のりばから[86]、[87]系統「茨木サニータウン」行き、[84]系統「大岩」行き、[81]系統「忍頂寺」行きの何れかのバスに乗車し「中河原」で下車する。約50m南に向かって戻り、信号のある交差点を左折する(東の方向に進む)。約400m進むと茨木川に架かっている幣久良
(へくら)橋があるのでそれを渡り、更に東の方向に約200m進むと信号のある交差点があるので、北側へ曲がり(左折する)、約200m進むと右手に「鼻摺古墳」が見える。

 バス停「中河原」を通る阪急バスの「JR茨木」発時刻は9:00〜17:00の間について次の通りである(2010年7月現在)。
平  日 土 曜 日 日曜・祝日
09 05\ 11 31 52\ 56 04\ 11 26 41 52\ 56 11 26 37\ 41 56
10 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
11 11 26 36* 41 52\ 56 11 26 34* 41 52\ 56 11 26 34* 41 52\ 56
12 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
13 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
14 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
15 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
16 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56 11 26 41 52\ 56
無印:「茨木サニータウン」(山手台七丁目経由を含む)行き、\印:「忍頂寺」行き、*印:「大岩」行き。

 阪急京都線「茨木市」駅前からも上記同様の系統のバスが出ている。バス停「中河原」を通る阪急バスの「阪急茨木」発時刻は9:00〜17:00の間について次の通りである(2010年7月現在)。
平 日 土 曜 日 日曜・祝日
09 01 21 43\ 16 42\ 02 28\ 32
10 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
11 02 27* 32 43\ 01 24* 31 42\ 01 24* 31 42\
12 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
13 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
14 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
15 02 32 43\ 01 31 42\ 01 31 42\
16 02 31 42\ 01 31 42\ 57 01 31 42\
無印:「茨木サニータウン」(山手台七丁目経由を含む)行き、\印:「忍頂寺」行き、*印:「大岩」行き。

見所など(周辺の住宅開発以前):

 「鼻摺
(はなずり)古墳」は「耳原(みのはら)方形墳」とも呼ばれ、この地方では珍しいとされている方形の古墳である。

 本年(2010年)の当初以前の古墳の状況は以下の4葉の写真及び記事の通りであるが、本年(2010年)当初から古墳の周辺が宅地開発工事に入ったため、後述するように鼻摺古墳自体の様相にも変化をきたしている。
かつての古墳全景(1)
 左の写真は2006年初夏の鼻摺古墳全景で、古墳の南東側から見たものである。2001年の頃は古墳墳丘上に立ち入ることが出来たが、この時点では周囲にフェンスが設けられ、古墳内に立ち入ることは出来なかった。

 写真でもわかるように当時の古墳はかなり大きな樹木で覆われており、古墳としての体裁はそれなりに整っていた。
かつての古墳全景(2)
 左の写真は2003年初冬の鼻摺古墳全景で古墳の南側から見たものである。この写真からも古墳はかなり大きな木で覆われていたのがわかる。古墳としての存在を周囲に誇示していた感がある。
史蹟標識石碑
 左の写真は2003年初冬の写真であるが、古墳周囲に張られた金網フェンスの内側に古墳の解説掲示板と史蹟の表示石柱が立てられていた。この石柱はフェンスが設置されていなかった2001年の時点には見られなかった。
墳丘上の祠
 左の写真は2000年初春に撮影したものであるが、墳丘上には写真に見られるように、コンクリート柱の上にのった小さい祠が見られた。この祠には古墳の主を祀っているものと思われるが、詳しいことは何もわからない。

 ただ、祠の中は汚れていて、私が見た時点では、かなり長い間誰も世話をしていないように思われた。

 この写真を撮影した時点では、古墳周辺に金網のフェンスが張られて居らず、自由に墳丘上に上がることが出来たが、上述したように2003年初冬にはフェンスが張られており、墳丘上に上がることは出来なくなった。

見所など(周辺の住宅開発以後):

 2010年7月時点での鼻摺古墳の状況は次の通りである。
2010年7月の古墳(東側)
 左の写真は東側から見た古墳の全景である。周囲には工事中の障壁が置かれている。
2010年7月の古墳(南側)
 左の写真は南側から見た古墳の全景である。工事中の標識が掲げられており、古墳墳丘に茂っていた樹木は全て伐採されている。かつて持っていた古墳としての体裁は失われてしまったが、墳丘は残されており、古墳自体は破壊されていないようなのが救いである。
2010年7月の古墳近景
 左の写真は古墳南側から近接して撮影したものである。この部分は工事用の障壁は置かれていないが、写真でもわかるようにフェンスは張られている。このフェンスは工事用のものではなく、工事終了後も古墳内に立ち入るのを制限するための保存用フェンスと思われる。

 フェンスの内側で墳丘とフェンスの間の場所は、かつて周濠のあった場所であるがここは整地されており、古墳としての雰囲気が減殺されてしまったように感じられる。
史蹟標識石柱
 古墳保存のためのフェンスの内側で墳丘の裾部分に、史蹟標識の石柱(左の写真)が認められる。この石柱は以前からあったものと同じ石柱と思われるが、この場所が以前に建てられていた場所と同じかどうかはわからない。

 いずれにしても、標識が古墳の傍に残されているということ、古墳保存のためのフェンスが張り巡らされていることから、古墳自体は破壊されることなく保存されるものと考えられる。ただ、ここが公園になるということも言われているようで、保存の仕方によっては古墳の尊厳がなくなってしまうような状態になる恐れがある
墳丘上の祠
 墳丘上に置かれていた小さな祠は、以前からあまり保全されていなかったようであるが、現在(2010年7月)は左の写真のように殆ど破壊された状態になっている。今後、この祠は補修されてこの位置にとどまることになるのであろうか。

 この古墳は古くから土地の人々に関心を持たれていたようであり、1960年に調査が行われたが、それ以前に大がかりな盗掘があったらしく、調査時に出土品は殆ど見られなかったとのことである。

 古墳の被葬者については履中天皇ともいわれているが、一方、仁徳天皇あるいは反正天皇という説もあるらしい。しかし、常識的に考え、天皇陵といえばもっと規模の大きいものであってもよさそうで、上記何れの被葬者説も説得力に欠けるように思われる。

 この付近はかつて「毛受野
(もずの)」と呼ばれていたようで、これが堺の「百舌鳥(もず)」と似ていることから、被葬者について上述のような説が生まれたのであろうと考えられる。

 (参考:茨木市教育委員会名の解説掲示板)

最終更新:2010年7月16日
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