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高槻城二の丸跡

〜発掘調査〜

発掘調査について:

 高槻城が本格的な城として整備されたのは和田惟政やキリシタン大名として著名な高山右近が城主になった16世紀後半であったといわれている。城主の御殿があったとされている高槻城二の丸跡の遺構を知るため、二の丸があったとされる現在の城跡公園野球場が発掘調査の対象になり、平成22年(2010年)5月25日から調査が開始された。

 発掘調査の結果が平成22年7月24日に一般公開されたので、その見聞記を以下に記載した。この発掘調査は更に継続して行われるようである。

発掘現場へのアクセス:

 阪急電車京都線「高槻市駅」駅下車。駅南側に出て阪急の高架に添って大阪の方向に数10m歩き、次いで左折する。人通りの多いわりに狭い道を南の方向に進みむと北大手交差点に出る。交差点を渡り200m程進むと右手に「高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)」が見える。
 更に南の方向に100m程進むと道が左にカーブしているがカーブの手前右側に野見神社を見て、狭い道を南の方向に進むと野見神社に近接して南側にある城跡公園野球場に着く。

発掘調査が行われた場所等:
発掘溝等配置略図
 左図は発掘調査の行われた城跡公園野球場を中心とした地図であり、発掘溝の大略の位置を示したものである。内堀の幅と長さ、発掘溝の大きさ等もイメージとして記載したもので、正確な縮尺に基づいていない。

発掘調査の結果など:

発掘溝@
南側から見た発掘溝@全景
 左の写真は発掘溝@を南側から見た全景である。現地公開資料によれば、発掘溝@の南北の長さは32m、東西の幅は5.5mと報告されている。

 写真でもわかるように発掘溝の南端には数多くの柱穴が検出されている。
発掘溝@の南端柱穴の見られる場所
 左は発掘溝@の南端で柱穴が検出された場所の写真である。

 この柱穴は14世紀頃室町時代のものとされ、更にこの下層から平安時代の遺構が見つかっているという。このあたりには各時代の集落があったようである。
発掘溝@溝1部分
 柱穴が発掘された箇所に近接して北側に溝(左の写真の溝1)が検出されている。この溝1は戦国時代の高槻城の遺構と考えられており、幅7m弱、深さ約2mとの報告がある。
北側から見た発掘溝@全景
 左の写真は発掘溝@を北側から見た全景である。

 左の写真で発掘溝奥側(南側)が上述した柱穴が確認された場所であり、手前側(発掘溝の北端になる)に内堀が発掘された。この内堀は江戸時代のものとされている。

 発掘調査現地公開資料によると内堀の幅(南北)は13m以上、深さは2m以上とされている。

 
発掘溝@の北端部内堀付近
 左の写真は発掘溝@の北端に認められた内堀に近接してその南側に認められた不明門(あかずのもん)の石垣基底部の発掘結果である。写真でa〜eの石垣基底部5箇所について以下に詳細な写真を示す。
裏込め石(栗石)
 左の写真はaの部分である。

 比較的小さい石がびっしりと敷詰められた状況が見てとれるが、これは石垣の裏込めの栗石とされている。
根固め石
 左の写真はbの部分であり、写真で数個のかなり大きな石が見えるが、これらは石垣の根固め石とされている。根固め石は本丸の石垣に使われているのと同じ産地の花崗岩であるという。

 高槻城は明治7年(1874年)に壊されて石垣に使われていた石は鉄道建設に使用されたらしいが、根固め石は残されていたようである。
不明門の基礎
 左の写真はcの部分である。

 写真で不明門(あかずのもん)と書かれた標識が見えるが、発掘により前述したように不明門の石垣基底部が確認され、これにより二の丸不明門の正確な位置が始めて分かったと報告されている。

 不明門は高槻城絵図(17世紀後半)に記載されており、江戸期の高槻城二の丸にあった門である。
護岸設備
 左の写真はdの部分である。

 写真中央部に横に置かれている木は横木で、他に10本ぐらいの護岸の杭が見える。これらは護岸施設である。
発掘された石仏
 左の写真はeの部分であり、写真の石は石仏である。この石仏は根固め石の傍で発掘されており、根固め石として使用されていたものと思われる。当時はこのような石仏が根固め石などに用いられることがしばしばあったようである。

発掘溝A


 発掘溝Aには3個の発掘溝があるので、それぞれを区別するため(ア)、(イ)、(ウ)の枝番をつけた。
発掘溝A(ア)全景
 発掘溝Aの東西の長さは16m、南北の幅は5mと現地公開資料に記載されているが、発掘溝AはL型に掘られているので、この規模はどのように計測されたものか正しくはわからないが、これは多分発掘溝A(イ)の大きさを計測したものと推測される。

 左の写真は発掘溝A(ア)を東側から見た全景である。

 この発掘溝に関して現地公開資料の中でも特別のコメントはないようであるが、後述する溝2がこの発掘溝につながっているものと推測される。
発掘溝A(イ)の全景
 左の写真は発掘溝A(イ)を東側から見た全景である。

 ここでは導水施設と溝2が発掘されている。
発掘溝A(イ)で発掘された溝2
 左の写真は発掘溝A(イ)で検出された溝2を中心に西側から見たものである。

 溝2は戦国時代、高山右近期のものであるとされている。現地公開資料によると幅19m以上、深さ1.5m以上の規模で東西方向に長さ27m以上延びていたとされているが、溝というよりも規模の大きい堀といった方が妥当かも知れない。
発掘溝A(イ)の導水施設
 発掘溝A(イ)の西南側に導水施設(左の写真)が発掘された。現地公開資料によれば、その長さは約7mで、その終端部分は瓦質管でくるんだ状態になっている。
導水施設
 左の写真は上記の導水施設を近写したもので、導水施設は節を抜いた竹を木製の継ぎ手で繋いだもので出来ている。
発掘溝A(ゥ)全景
 左の写真は発掘溝A(ウ)を北側から見た全景である。

 この発掘溝には戦国時代、高山右近が築いたと思われる溝2が検出されている。この溝は発掘溝A(イ)で検出された溝2と一体のものであると考えられているようで、こうなれば溝2の南北幅が19m以上であるということも理解できる。

 今回の調査により戦国時代、高山右近が築いたとされる溝(堀)が検出され、その溝2の南側に当時の城の主郭があったものと推定されている。元和3年(1617年)の江戸幕府による高槻城の修築時に溝1、溝2共に埋められたものと考えられている。この埋め立てられた場所に江戸時代の高槻城の二の丸がおかれ、北側に不明門(あかずのもん)が造られ、今回の調査で門の基礎が確認さたという。

新規収載:2010年8月19日
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