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隠れキリシタンと遺物(1)

[大阪府茨木市千提寺地区]

茨木市の隠れキリシタン 

 キリシタン大名、高山右近がキリスト教禁教令にふれ追放されてからは、キリスト教はこの地から消滅したかに見えた。しかし、大正8年(1919年)に今の茨木市千提寺地区でキリシタン遺物が発見されてから、隠れキリシタンの存在が明らかになった。

 茨木市千提寺地区はJR京都線茨木駅から北の方向へ約11km離れた所に位置する山間の昔からの家並が点在する集落である。今ではバスも通り道路も整備されているが、キリシタン禁教令が出された当時は、正に人里離れた山間僻地だったと推測される。山間僻地であるため、もともとこの地に住んでいた住人が禁教令に違反していても、それが明るみに出なかったのか。それとも、キリスト教信者が禁教令による処刑を恐れ、この僻地に逃げ込み、ずっと息を潜めて生活していたのだろうか。

千提寺地区へのアクセス

 自家用車やタクシーを利用せず、公共交通機関で千提寺地区を訪れるには、阪急茨木又はJR茨木から阪急バスを利用する。阪急バス[81]又は[181]「忍頂寺経由余野」行きに乗車し、「千提寺口」で下車する。バス乗車時間は阪急茨木から千提寺口まで約50分。

 阪急茨木及びJR茨木から忍頂寺行きのバス発車時刻は7時から18時までの間について下表の通り(2018年10月現在)。
         
阪急茨木(Aのりば)発  JR茨木(Hのりば)発
平    日 土曜日・休日 平   日  土曜日・休日 
 7 24(千提寺口止) 24(忍頂寺止)  34(千提寺口止)  34(忍頂寺止) 
 8 10  51(千提寺口止) 40   20  50 
 9 52 52 01(千提寺口止)  − 
10 52 52 01  01 
11 52 01  01 
12 52 52 01  − 
13 01  01 
14 52 52 −  − 
15 52 01  01 
16 51 52 01  − 
17 51 51 01  01 
18  51  51  01  01 
キリシタン遺物史料館付近地図

茨木市立キリシタン遺物史料館
キリシタン遺物史料館への道
 バスを降りると停留所の南側にバスの通る道と分岐して斜め左側に緩い上り坂の道が見える(左の写真)。この道がキリシタン遺物史料館へ向かう道である。

 バス停から約200m進むと、上に掲載した地図にあるように、道が分岐している場所に出るが、史料館に行くには地図に記入した矢印の方向にあるように左側の上りの坂道を進む。
遺物が最初に発見された家の標識
 バス停から徒歩約15分でキリシタン遺物史料館へ向かう坂道(階段)の下に着く。この場所に「キリシタン遺物史料館ご案内」と書かれた案内掲示板がある。

 一寸見には見逃してしまうが、案内掲示板の傍に、左の写真のような石標が立てられている。それには『北摂キリシタン遺物発見最初の家』と彫られている。これは、キリシタン遺物がこの地区で初めて発見されたのが、この石標の傍にある石垣の上に建てられている東氏宅(東家)であることを表している。

 「キリシタン遺物史料館」は案内掲示板の傍の坂を上ったところに建てられている。
キリシタン遺物史料館全景
 左の写真は正面から見た「キリシタン遺物史料館」である。

 下左側の写真は史料館の前に立てられている館名が彫られた石碑であり、下右側の画像はキリシタン遺物史料館に備え付けられているスタンプの印影である。
史料館の名称石碑 史料館のスタンプ

 史料館に保管されているキリシタン遺物の数は多いとは言えないが、世界遺産に認定されてもおかしくないような貴重な遺物も保管、展示されている。これらの遺物からかつてこの地にひっそり息をひそめ生活していたクリスチャンの篤い信仰ぶりを偲ぶには十分であろう。 

キリシタン遺物史料館内の展示品

 展示品には実物の遺物も展示されているが、複製や写真で展示されているものも多く、このあたりが一寸物足りないものがある。この土地で発見されたものは全てこの史料館で実物展示し、公開してほしいと思うのは私一人だけであろうか。
キリシタン禁制の立札
 左の写真は遺物の一つで当時禁制だったキリシタンに関係する人を摘発するための褒賞金制度を定めた「制札」である。

  現状では「定」及び「日向」の字が読める程度であり、その内容は見た目では判読することは出来ないが、当時の時代背景の雰囲気は伝わってくる。ただ、「日向」の字が他の字に比べ明瞭であり、違和感がある。後から書き加えたのか・・・という疑問が残る。
立札の内容
 左の写真は上記「制札」の内容を示したものである。島原・天草の乱を機会に禁制のキリシタン関係者の摘発に褒賞金制度を適用し、その金額等を公告した。

 「制札」によれば、ばてれん(カトリック司祭)の訴人には銀500枚、いるまん(修道士)の訴人には銀300枚の懸賞金を報償すると記されている。

 それにしても、このような「制札」がこの地にあった、ということは当時このような辺鄙な土地にまでもキリシタン狩りの手が伸びていたのであろう。
あけずの櫃
 キリシタン信仰の対象としていた遺物はこの地区から多く発見されているが、中でも史料館と道を隔てた場所にある東家からは貴重な遺物が多数発見されている。

 左の写真は「あけずの櫃」とよばれている箱(サイズ:82cm×10.5cm×10.5cm)で中にはキリシタン関係の信仰対象の品々が納められており、東家のカマドの上の屋根裏に隠されていた。この「あけずの櫃」は大正9年(1920年)に発見されたが、これを発見し、箱を開けるためには粘り強い説得が必要であったという。

 「あけずの櫃」の中のキリシタン信仰遺物は家人にも明かされず、ただ、その家の長男にのみ内容が伝えられていたといわれている。

 「あけずの櫃」の存在と、不気味な感じ、それに櫃の扱いなど、とんでもなく暗いものを感じるのである。キリスト教信者はその筋の役人の目を盗んで密かに暮らしていた光景が目に浮かぶ。これまでして信教を守らせた背景は一体何だったのだろうか。
聖フランシスコ・ザビエル像
  左の写真は「聖フランシスコ・ザビエル像」(たて61cm、よこ48.7cm)で、東家で保存されていた「あけずの櫃」の中から発見された。和紙に1622年のザビエル列聖以後西洋画の技術を学んだ日本人画家によって描かれたものと考えられている。

 この像は「あけずの櫃」の中から発見された遺物の内でも最も有名なもので、歴史の教科書でも必ずと言っていいほど掲載されているのを見ることが出来る。

 この原本は現在、神戸市立博物館に所蔵されており、重要文化財に指定されている。茨木市立キリシタン遺物史料館に展示されているものは複製品(写真)である。
マリア十五玄義図
 左の写真は「マリア十五玄義図」(たて81.9cm、よこ66.77cm)で、これも「あけずの櫃」の中から発見されたキリシタン信仰の遺物である。

 絵画の中央下部左にイエズス会の創立者であるイグナチウス・ロヨラ、右にフランシスコ・ザビエルが描かれている。絵画は損傷を受けており、特に上部の損傷が目につく。

 原本は年に1回、2週間程度展示されているようであるが、通常の展示は複製品である。
木製キリスト磔刑像
 左の写真は「キリスト磔刑木像」(像高21.5cm、両手間19.7cm)であり、上述の遺物と同様、東家に保存されていた「あけずの櫃」の中にあった筒の中から腕を外された状態で発見された(後述)。

 見て分かるとおり、十字架に磔となったキリストの様子を表現している。この木像は元になった像が想定されているようで、その複製としてヨーロッパで製作されたものと考えられている。
青銅製の筒
 左の写真は「キリスト磔刑木像」が納められていた青銅製のである。「キリスト磔刑木像」の腕が外された状態でこの筒の中に納められていたという。この筒は蓋と身を差し込む構造になっている。この筒は上記の「キリスト磔刑木像」の傍に展示されている。

 「あけずの櫃」の中には上述した遺物の他に、マリア彫像、天使賛仰図、メダイ、吉利支丹抄物などが納められていたという。それにしても、「あけずの櫃」の容積からみてこれだけのものが収納されていたことに驚く。

愛と光の家

 「キリシタン遺物史料館」の案内掲示板が立てられている前を東の方に向かうと直ぐかなりの急坂を下る道になる。道なりに約200m下り坂を進むと右手に「愛と光の家」が見える(本サイト掲載地図参照)。
愛と光の家
 左の写真は「愛と光の家」の玄関口である。撮影した日は工事中であり、家の全貌はわからなかった。

 この家はカトリック黙想の家で修道の場であり、キリシタンの遺物は保存されていないようで一般には公開されていないとのことである。
高山右近像
 「愛と光の家」の入り口石段を上がった右側に「高山右近」の像が置かれている(左の写真)。

キリシタン墓碑

 「愛と光の家」の前のやや細い道を東側に数十メートル進むと、左手に天満宮へ上がる石段が見える。その石段を見て少し奥に進むと「寺山」(通称)に向かう道がある(本サイト掲載地図参照)。「寺山」を通り、更に南側に進むと新名神高速道路があるがその下を通ると通称「クルス山」がある(本サイト地図にではクルス山は記載省略)。

 「寺山」への道の最初のかかりは、まるで畑の畦道のような感じの道であるが、山の中には入れば、獣道のような道になる。
寺山にあるキリシタン墓碑
 左の写真は「寺山」にある「キリシタン墓碑」である。「寺山」は山といえるほど高いものではなく、一寸した高台のような場所であるが、その比較的平らな所に左の写真に見れれるような家形の覆いで囲われた「墓碑」が置かれている。

 この墓碑は大正8年(1919年)に発見されたが、これがキリシタン遺跡発見の端緒となったと言われている。この墓碑が発見されるまでは、この付近がキリシタンに関係があるという証拠はなかったという。

 この写真は新名神高速道路が建設される前に撮影されたもので、高速道路が開通した現在、ここにはレプリカが置かれており、本物はキリシタン遺物史料館で保管展示されている。
キリシタン墓碑近景
 左の写真は「墓碑」を近くで見たものである。「墓碑」のそばに置かれた説明によれば、そのサイズは高さは63.5cm、中央部分の幅は38cm、中央部分の厚さは18cm余りであり、光背形で材質は花崗岩、表面上部に『二支十字章』、その下に『上野マリヤ』、右側に『慶長八年』、左側に『正月十日』の字が彫られていたという。

 写真でもわかるように、上部の『十字章』は見えるが、その他の文字は見えなくなっている。これは経日による風化で文字が見えなくなったものと思われる。
キリシタン墓碑上部
 左の写真は「墓碑」上部の「十字章」が彫られている部分である。ここに彫られている十字章は上述したとおり「二支十字章」である。「二支十字章」は十字の上に横一が書かれた「干」又は「千」のように見える十字章である。

 「クルス山」は上述の「寺山」の更に東南側にあり、ここには2基のキリシタン墓碑が置かれていたが、新名神高速道路建設の際に取り除かれ、墓碑2基とも「寺山」で発見された墓碑と一緒にキリシタン遺物史料館に移され保管展示されている。「クルス山」の墓碑のあった跡には表示板のみ置かれている。

 キリシタン遺物史料館に保管されているこれら墓碑が、元の場所に戻されるのか否か、戻されるとすれば何時になるのか。この問題については全く不知である。

 (参考:茨木市教育委員会発行の「茨木市立キリシタン遺物史料館」パンフレット)

最終更新:2018年10月19日
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