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隠れキリシタンと遺物(1)

[大阪府茨木市千提寺地区]

茨木市の隠れキリシタン 

 キリシタン大名、高山右近がキリスト教禁教令にふれ追放されてからは、キリスト教はこの地から消滅したかに見えた。しかし、大正8年(1919年)に今の茨木市千提寺地区でキリシタン遺物が発見されてから、隠れキリシタンの存在が明らかになった。

 茨木市千提寺地区はJR京都線茨木駅から北の方向へ約11km離れた所に位置する山間の昔からの家並が点在する集落である。今ではバスも通り道路も整備されているが、キリシタン禁教令が出された当時は、正に人里離れた山間僻地だったと推測される。山間僻地であるため、もともとこの地に住んでいた住人が禁教令に違反していても、それが明るみに出なかったのか。それとも、キリスト教信者が禁教令による処刑を恐れ、この僻地に逃げ込み、ずっと息を潜めて生活していたのだろうか。

千提寺地区へのアクセス

 自家用車やタクシーを利用せず、公共交通機関で千提寺地区を訪れるには、阪急茨木市駅又はJR茨木駅前から阪急バスを利用する。阪急バス「忍頂寺」行きに乗車し、「千提寺口」で下車する。バス乗車時間は阪急茨木市駅から千提寺口まで46分。

 阪急茨木市駅及びJR茨木駅前から忍頂寺行きのバス発車時刻は7時から18時までの間について下表の通り(2008年11月現在)。
阪急茨木市駅発 JR茨木駅前発
平 日 土曜日 日・祝日 平 日 土曜日 日・祝日
 7 21 24  21  31 42(千提寺口止) 33 30
 8 07  55 01 55 13 17 10 22
 9 43 42 28 05 52 04 52 37
10 43 42 42 52 52 52
11 43 42 42 52 52 52
12 43 42 42 52 52 52
13 43 42 42 52 52 52
14 43 42 42 52 52 52
15 43 42 42 52 52 52
16 42 42 42 52 52 52
17 28 58 20 58 42 38 30 52
千提寺地区のキリシタン遺跡関係地図

「茨木市立キリシタン遺物史料館」
バス停から史料館への道
 バスを降りると停留所の南側にバスの通る道と分岐して斜め左側に緩い上り坂の道が見える。左の写真で車が見えているこの道がキリシタン遺物史料館へ向かう道である。

 バス停には史料館への道筋を示す標識があるが、道筋が理解しにくい表示なっているので、それに紛らわされない方がいい。

 バス停から200mあまり進むと、上に掲載した地図にあるように、道が三方向に分かれている場所に出るが、史料館に行くには左側の上りの坂道を進む。中央の道は下り坂になっており道幅も広いが、この道を進むと史料館へは遠回りになる。
史料館への道標
 道が三方向に分かれている場所で正しい方向に進んでいれば、後は史料館まで一本道である。道程の途中には所々に左の写真のような史料館への道標がある。この道標が目につけば正しい道を選んだことになる。
キリシタン遺物史料館の解説掲示板
 バス停から徒歩約15分でキリシタン遺物史料館の下に着く。この場所に「キリシタン遺物史料館ご案内」(左の写真)と書かれた掲示板がある。掲示板の図は極めて大略的に書かれているので、参考程度に見た方がいいようである。
キリシタン遺物発見の家標石
 一寸見には見逃してしまうが、上記掲示板の傍に、左の写真のような石標が立てられている。それには『北摂キリシタン遺物発見最初の家』と彫られている。これは、キリシタン遺物がこの地区で初めて発見されたのが、この石標の傍にある石垣の上に建てられている東氏宅であることを表している。

 「キリシタン遺物史料館」は上記掲示板の傍の坂を上ったところに建てられている。

 直下左の写真は正面から見た「キリシタン遺物史料館」である。
キリシタン遺物史料館 史料館のスタンプ

 史料館に保管されているキリシタン遺物の数は多いとは言えないが、かつてこの地にひっそり息をひそめ生活していたクリスチャンの篤い信仰ぶりを偲ぶには十分であろう。

 史料には実物の展示もあるが、複製や写真で展示されているものもあり、このあたりが一寸物足りないものがある。この土地で発見されたものは全てこの史料館で実物展示し、公開してほしいものである。
キリシタン禁制札
 左の写真は遺物の一つ「キリシタン禁制の立札」である。

 現状では書かれている内容を読むことはできないが、当時の時代背景の雰囲気は伝わってくる。それにしても、このような禁制立札がこの地にあった、というのであれば当時このような辺鄙な土地にまでもキリシタン狩りの手が伸びていたのであろう。

 史料館には「マリア十五玄義図」、「ロレータ聖母浮彫画像」、「聖フランシスコ・ザビエル画像」(これは複製品)、「キリスト磔刑木像」など保管、公開されているが、遺物の中で、最も私の興味を引いたのは「マリア十五玄義図」や「聖フランシスコ・ザビエル画像」が入れていたという「あけずの櫃」(直下の写真)と名付けられている木箱である。かなり損傷しているが、見た感じが妙に不気味である。この櫃の中には信仰に使われた品々が入れられ、家人にも明かされず、ただ、その家の長男にのみその存在が伝えられていたという。
あけずの櫃
 「あけずの櫃」の存在と、不気味な感じ、それに櫃の扱いなど、とんでもなく暗い家を感じるのである。その筋の役人の目を盗んで密かに暮らしていた光景が目に浮かぶ。これまでして信教を守らせた背景は一体何だったのだろうか。

「愛と光の家」から「クルス山」

 「キリシタン遺物史料館」の掲示板が立てられている前を東の方に向かうと直ぐかなりの急坂を下る道になる。道なりに約200m下り坂を進むと右手に「愛と光の家」が見える(地図参照)。
愛と光の家
 左の写真は「愛と光の家」の玄関口である。撮影した日は工事中であり、家の全貌はわからなかった。

 説明によれば、この家はカトリック黙想の家で修道の場であり、キリシタンの遺物は保存されていないようである。

 入り口石段を上がった右側に高山右近の像が置かれている。
聖母マリア像
 「愛と光の家」の玄関格子戸の内側奥に「聖母マリア像」(左の写真)が置かれているのが見える。

 「愛と光の家」の前のやや細い道を東側に数十メートル進むと、左手に天満宮へ上がる石段が見える。その石段を見て少し奥に進むと「クルス山」に向かう道がある(地図参照)。なお、「クルス山」という名称は通称名である。

 大正8年(1919年)のキリシタン遺跡発見の端緒となったのは、「クルス山」で発見された墓碑だったとされている。
クルス山への標識
 「クルス山」へ向かう案内標識の所在については地図にも記載したが、左の写真に見られるような小さな標識で、注意しないと見落としてしまう。この標識は多分、見学者のために土地の人が親切心で作ったものであろう。

 「クルス山」への道は最初のかかりはまるで畑の畦道のような感じの道であるが、山の中には入れば、獣道のような道になる。
クルス山の墓碑
 「クルス山」は山といえるほど高いものではなく、一寸した高台のような場所であるが、その比較的平らな所に左の写真に見れれるような家形の覆いで囲われた「墓碑」が置かれている。

 この墓碑が発見されるまでは、この付近がキリシタンに関係があるという証拠はなかったという。

 ただ、現在の墓碑は最初発見された場所にそのまま置かれているのだろか。墓碑が最初発見された場所にはその旨明記された石碑が立てられていた、という話もあるが、現在そのような石碑はこの墓碑の近くに見られないので、どうなったのだろうか。
クルス山の墓碑近景
 左の写真は「墓碑」を近くで見たものである。石碑のそばに置かれた説明によれば、墓碑のサイズは高さは63cm余り、中央部分の幅は38cm、中央部分の厚さは18cm余りであり、光背形で材質は花崗岩、表面上部に『二支十字章』、その下に『上野マリヤ』、右側に『慶長八年』、左側に『正月十日』の字が彫られていたという。

 写真でもわかるように、上部の『十字章』は見えるが、その他の文字は見えなくなっている。これは経日による風化で文字が見えなくなったものと思われる。
クルス山の墓碑上部
 左の写真は「墓碑」上部の「十字章」が彫られている部分である。これで見る限り、十字の横と縦の辺の長さが等しいようである。これと同じような形の十字章は茨木市下音羽地区のかつて隠れキリシタン寺だった高雲寺にあるキリシタン墓碑にも見ることができる。

 下音羽地区のキリシタン遺物の詳細については隠れキリシタンと遺物(2)のページを参照してください。

 (参考:茨木市教育委員会発行の「茨木市立キリシタン遺物史料館」パンフレット。

最終更新:2008年11月21日
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