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キリシタン大名、高槻城それに野見神社

アクセス:
関連個所の地図
 阪急京都線「高槻市駅」下車。駅南側に出て阪急の高架に添って大阪の方向に数10m歩き、次いで左折する。人通りの多いわりに狭い道を南の方向に進みむと北大手交差点に出る。交差点を渡り200m程進むと右手に「高槻カトリック教会(高山右近記念聖堂)」が見える。
 更に南の方向に100m程進むと道が左にカーブしているがカーブの手前右側に「野見神社」がある。
 カーブの左側には商工会議所があり、それを過ぎたあたり丁字路を右折する(南の方向に進む)。左手に学校を見ながら南の方向に進むと「城跡公園」に着く。
見学個所など:

 キリシタン大名として有名である高山右近が城主であった高槻城は現在見られないが、城内町にかつて高槻城があったとされ、槻の木高校のある位置が本丸のあったところとされている。その東側の城跡は高槻城跡公園になっている。
高槻城跡の石碑
 槻の木高校の敷地の東側に隣接して、左の写真に見られるように「高槻城跡」と彫られた石碑が建てられている。なお、高槻城跡大阪府史跡に指定されている。
高槻城本丸御門の基礎石
 上述の石碑の南側に左の写真に見られるような石組がある。この石は高槻城の天守台や本丸御門の基礎石であるという。

 昭和50年に本丸石垣の基礎部分を発掘したが、今でも遺構が地中に埋もれているらしい。

 史実によれば、永禄12年(1569年)に和田惟政(これまさ)が高槻城主になったが、元亀2年(1571年)に白井河原の合戦(「西国街道沿いの史跡探訪」のサイト参照)で戦死し、惟政の子、惟長が城主となった。その後、元亀4年(1573年)には和田惟政の家臣であった高山飛騨守、右近父子は和田惟長を滅ぼし、天正元年(1573年)に右近が高槻城主になったとされている。
高山右近像
 高槻城跡公園の片隅小高い場所に高山右近の像が建てられている(左の写真)。

 像の高山右近は手に十字架を持っており、着衣も含め武士、城主というよりも、キリスト教信者という雰囲気が強い。


 城跡公園に建てる像として、かつての高槻城主が選ばれるのはわかるとしても、何故、和田惟政や永井直清でなく高山右近になったのであろうか。確かに一般的な知名度では高山右近が抜群ではあるが・・・。

 高山右近は永禄6年(1563年)に洗礼をうけ「ジュウスト」の洗礼名をもつキリスト教徒であり、熱心に布教に努め、天正9年(1581年)にはイタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて復活祭を催したという。

 キリスト教徒である高山右近が何故、かつての上司であった和田惟政の子、惟長を倒すようなことをしたのか。単純な考えかもしれないが、当時の社会情勢を考慮したとしても、キリスト教の教えと、人を滅ぼしてまで城を乗っ取った右近の行為とは重ならないのである。
高山右近天守教会堂跡
 高槻市商工会議所(アクセスの項及び地図参照)の南側に「高山右近天主教会堂跡」(左の写真)と彫られた石柱が建てられている。

 現在の商工会議所のあるこの場所に、かつて高山右近の教会があったとされている。
カソリック高槻教会
 「高山右近天主教会堂跡」から北側へ徒歩2〜3分の場所に「カトリック高槻教会」(左の写真)が建っている。この教会は高山右近記念聖堂とも呼ばれているようである。
教会にある高山右近像
 教会の門を入って直ぐ左手にイタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニによって彫られた大理石の高山右近像(左の写真)がある。これはローマの高名な教会関係者から寄贈されたものといわれている。

 何れにしても右近の貧民に対して払った行いは、多くの人の心を打ち、結果、キリスト教信者は領民の8割にも及んだらしい。


 右近は当時の一般住民の心をつかむ術を知っていたことは間違いない。そのためには何としても城主の地位が必要だったのだろう。城主の和田惟長を倒さなければならなかった必然性はその辺にあると思われる。
野見神社
 商工会議所の西側、道路を隔てて野見神社(左の写真)がある(アクセスの項及び地図参照)。

 この神社の創始は宇多天皇(887〜897年)の代とされている。その後、享禄、天文年間(1528〜1554年)の頃には祭礼も盛大に行われるようになり、歴代の高槻城主の信仰も篤かったという。

 高槻城主の和田惟政も篤く信仰していたようであるが、その後、城主となった高山右近は神社を取り壊してしまった。

 宗教が原因で戦争が起こることもあるので、
神社を取り壊してしまった右近の行為は、当時としては致し方がなかったかも知れない。しかしながら、豊臣秀吉のバテレン追放令や徳川家康の禁教令が悪令であったとするならば、右近の狭量さについても同じ様な評価を下すべきであろう。


 後に、右近はキリスト教信者であることから、領地が没収され、ついにはフィリッピンに追放され、マニラで死去した。

 高山右近は真摯なクリスチャンだったかどうかは別にして、優しい心根の人であったのは事実であろう。海外の宣教師からの布教の要請を断りきれず、深みにはまっていったものと思われる。武士として、一旦引き受けたことは身を捨てても後へは引けなかったのではなかろうか。
野見神社拝殿
 元和5年(1619年)に当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に慶安2年(1649年)には永井直清が城主になり、神社の例祭も盛大に行われるようになったようである。

 左の写真は現時点(2004年11月)の野見神社拝殿であるが、写真でもわかるように、最近建て替えられ、見た目にも新しい。
永井神社
 高槻城主となった永井家は220年間13代にわたって続いたとされており、野見神社は長年に亘り永井家の庇護を受けることになったと考えられる。

 野見神社拝殿の東側境内に永井神社(左の写真)がある。この永井神社の由緒などはわからないが、おそらく永井家の祖先を祀っているものと思われる。野見神社と永井家の関係から考えれば野見神社の中に永井神社があるのは理解できる。更に、永井神社の東側に「永井先公遺愛碑」と彫られた石碑が建てられているが、これも上述の関係に基づくものであろう。
但し、上述の考え方は私の独自の見解であるので間違っているかも知れない。
永井神社前の蟹
 左の写真は永井神社の前に置かれているものであるが、一見して蟹の造形とわかる。何故、このものが永井神社の前に置かれているのかわからないが、この蟹の造形はユーモラスである。

 (参考:大阪府教育委員会、高槻市教育委員会名の「高槻城跡」解説板。野見神社の由緒。茨木市教育委員会発行の「茨木市立キリシタン遺物史料館」パンフレット)

2004年11月7日更新
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Yukiyoshi Morimoto