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島根県津和野町「永明寺」

 島根県津和野町には数々の史跡があり、観光スポットとして日本でも有数の土地であろう。国史跡に指定されている西周旧居、国重要文化財に指定されている森鴎外旧宅など、見るべきものが多い。

 しかしながら、観光バスツアーでは奇妙なことに、これら史跡や文化財の見学を省略することはあっても、堀割に飼われているまるまると太った鯉を見るコースが必ずと言っていいほど組み込まれているのである。これがため、
津和野町を観光した人の多くは「津和野には太った鯉以外何にもないところで、面白くなかった」という実に誤った感想をもらす。

 見るべき観光スポットは非常に多いためか、観光バスツアーでのコースに含まれていることが少ないのが永明寺(ようめいじ)である。由緒ある寺、「永明寺(ようめいじ)」にもっと注目すべきであろう。
参道
 町並みの西側を走っているJRの線路を越えると永明寺の参道(左の写真は秋の参道)になるが、その距離は長くはない。

 永明寺は応永27年(1420年)に津和野城主吉見頼弘によって創建され、月因性初禅師を開山とした。

 島根県最古の禅寺といわれているが、近畿地方の寺と比べれば、永明寺の創建、開山はかなり新しい。とは言っても、江戸時代には石見地方一帯の禅寺を統括していたとされており、由緒ある寺院である。
境内
 山門をくぐり境内に入ると、すぐ広場になる(左の写真)。

 それなりの名のある寺では門を入ると庭園が広がっているのが普通であるが、
ここのように境内に入ってすぐに単なる広場があるような寺は田舎の名もない寺でしばしば見られるとしても、由緒ある寺では珍しい。これは、この永明寺が各種催し物の開催場所に使われてきた名残であろう。
本堂
 永明寺は度重なる火災で何回か焼失しいるようで、もっとも古い建物は安永8年(1779年)に建てられた本堂(左の写真)といわれている。

 写真でもわかるように本堂の屋根は単層茅葺きであるが、
このような造りの本堂は珍しく、常識的な目からは寺院の本堂には見えない。

 永明寺の境内には是非参拝しておきたい墓がある。
森林太郎の墓
 山門を入った左側の若干高い位置に墓が並んだ場所があり、その奥まったところに医者であり日本の近代文学を代表する文豪、森鴎外(森林太郎)の墓がある(左の写真)。

 墓石には墓の字体としてあまり馴染みのない独特の字で「森林太郎墓」と刻まれている。

 森鴎外(森林太郎)は生まれてから11才で上京するまでここ津和野に住んでいた。

 本堂奥の石段を上がったところに悲運の武将、坂崎出羽守の墓がある(下の写真)。
坂崎出羽守の墓
 坂崎出羽守は関ヶ原の合戦の戦功により、慶長6年(1601年)津和野藩の領主となり、16年間にわたって藩のためにつくし、多くの偉業を残したという。

 後、大阪夏の陣で偉功を立てたが、有名な千姫事件で徳川家康の怒りにふれ、領地没収、本人は切腹という悲運の最期をとげた。


 墓はかつての城主のものとは思えないほど質素で貧相である。何故このような目立たない小さな墓にしたのか。これには、徳川幕府からの無言の圧力があったのかもしれない。

 墓の前に立つと坂崎出羽守の無念さが伝わってくるように感じられてならない。


 墓石には「坂井出羽守」と刻まれているが、当時徳川幕府に遠慮したためという説と、一時期坂井と名乗っていたことがあるためという説がある。墓の規模から考え、前者の説が正しいように思われる。

 永明寺は津和野町指定の文化財であるが、ここには国宝は勿論、国指定の重要文化財は所蔵されていない。しかしながら、この寺を拝観することにより、それ以上の歴史の重みを感じ取ることができる。
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Yukiyoshi Morimoto