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台南「赤嵌楼及び延平郡王祠」

台南のガジュマルの木 台南:

 かつて台湾南部はオランダに占領されており、台南はその拠点であった。当時、台湾北部はスペインに占領されていたが、オランダがスペインを台湾から追いだし台湾を支配する。

 オランダの植民地支配は、中国本土から渡ってきた鄭成功によりオランダ人が撃退された結果、1661年に終結する。その後、鄭成功は38歳の若さで死去し、政治は清朝が司ることになる。

 1885年に台湾の首府が台北に移るが、1661年から1885年までの224年の間、台南が台湾の首府であり、政治、文化の中心であった。台南は歴史のある古都であり、それだけに観光スポットも多いようである。

 台南は台北とは異なり、熱帯性気候に属する土地で、
景観も台北とはかなり違っており、街の雰囲気は真に南国である。

赤嵌楼:
赤嵌楼  もとは台湾南部を占領していたオランダ人によって建てられた城で、当時、プロデンシャ城(紅毛楼)と呼ばれ、植民地行政の中心になっていたところである。

  鄭成功がオランダ人を駆逐した後、ここは承天府という名に変わり、政治の中心となった。

 その後、1862年には地震により建物は全壊したが、1879年には「文昌閣」、「海神廟」が建てられたようである。従って、現存の建物はプロデンシャ城や承天府の時代のものではない。

 建物の柱はその名の通り赤い色をしているが、色はあせてきている。建物の周辺には椰子の木が茂っており、南国の雰囲気に満ちている。
城跡
 赤嵌楼の基台は台湾南部がオランダに占領されていた時代のプロデンシャ城(紅毛楼)のものらしいが、その他に当時のものとしては城壁が残されている(左の写真)。

 城壁は赤レンガでできているが、レンガの素材は石灰、砂糖、餅米で出来ているとかで、非常に固い。このレンガの製法はこの地方で古くから伝えられている伝統的な方法であるらしい。
鄭成功像
 赤嵌楼の敷地の中に、鄭成功の像が建てられている(左の写真)。

 鄭成功は上述したとおり,台湾南部を占領していたオランダ人を追い出した英雄として崇められているようで、このような像が建てられたという。

  赤嵌楼の建物の壁には直下の写真のような窓が付けられている。窓枠の形はともかくとして、枠に取り付けられている桟は竹のように見えるが、実際は竹を模したものである。
赤嵌楼の窓
 このように、竹を模した桟が付けられた窓枠は赤嵌楼に限らず、他にも数多く見られるという。

 青竹には独特の臭いがあり、アロマセラピーとしての効果があると思われる。青竹を通して入ってくる風は気分を落ち着かせるのであろう。

 ただ、青竹はすぐに枯れてしまうため、窓に取り付けても竹の臭いが持続しない。

 臭いのない枯れた竹が窓に付いているよりも、竹の臭いがなくても青竹を思わせるものを付けた方が気分的にいいのであろうと思われる。

延平郡王祠:
延平郡王祠裏入口  台湾を占領していたオランダ人を追い出し、台湾を漢民族の土地とした鄭成功の功績をたたえ、鄭成功が1662年に38歳で死去したその年に、民衆によって廟が建てられ、鄭成功が祀られた。当時は「開山王廟」と名付けられていたという。

 1875年には新しく福州式建築の祠が建てられた。日本が台湾を統治していた時代には開山神社と改称した時期もあったようであるが、終戦後、中華民国政府によって以前の祠が取り壊され、新しい様式の建物に建て替えられたという。
延平郡王祠
 この建て替えのため、現在の延平郡王祠は古蹟としての認定を受けることが出来ないらしい。

 左の写真は正殿であり、ここに鄭成功が祀られている。

  後殿には鄭成功の一族が祀られている。鄭成功の母親は日本人であることはよく知られており、彼は日本で生まれ、7歳まで日本で育ったといわれている。
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Yukiyoshi Morimoto