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東京「隅田川七福神めぐり」

 世に言う「七福神詣」は日本全国各地に多くあるが、東京都の隅田川東岸にある「隅田川七福神めぐり」は江戸時代から続いているもので、七福神詣の元祖とされている。

 観光的な見地からすれば、ディズニーランドなど観光資源の多い東京では、B級以下であろう。ただ、七福神詣の元祖と言われていること、かつて風流人達が遊んだ向島にあること、などから、妙に興味を引くのである。

 現在の墨田区で、隅田川中流東岸を「墨東(ぼくとう)」と言うが、この呼び名は江戸時代に林述斎によってつけられたという。

 墨東といえば永井荷風作の小説「墨東綺譚」がある。玉ノ井の娼婦お雪と作者自身と思われる男性との交渉を描いたものである。玉ノ井とは現在の東向島5丁目、東武伊勢崎線東向島駅(かつては玉ノ井駅と呼ばれていた)の近くにあった私娼街のことである。


 また、三囲神社や弘福寺のあるあたりの町名を「向島」というが、「向島花街」という言葉があるとおり、この付近にはそれらしい雰囲気に満ちた家並みが見られる。

 「玉ノ井」と「向島花街」の中間付近、東武曳舟駅の西側、水戸街道を越えたあたりに「鳩の街」といわれていた有名な紅燈街(遊郭)があった。今でも鳩の街商店街という名の商店街があり、「鳩の街」の名前が残っている。


 こういうことに興味のある人は、墨東のこの付近をつぶさに探訪することをお勧めする。当時の名残の何かが発見できるのでは?

 こうしてみると、墨東地区はどうみても色っぽい(Hっぽいといった方が分かり易い?)土地であるということに異論はないであろう。色っぽさと七福神詣とはどう繋がっているのか。


 江戸の人々は墨東で遊びを楽しんでいたと言われている。風流人の一人であった佐原鞠塢(さわらきくう)が今から約200年前に墨東の地に庶民的な庭園「百花園」を開いた。現在、百花園は名勝史跡に指定されている(下は百花園の入園券)。

 たまたま佐原鞠塢は福禄寿像を所持していたことに端を発し、彼の友人である、太田蜀山人、谷文晁らが七福神あそびを思いついた。彼らは付近の寺社を探し、六福神を見つけだしたが、寿老人だけが見つからなかったようである。

 近くにある白鬚神社の祭神は「白鬚」といっているから、白い鬚を生やした老人に違いない。ということになり、白鬚大明神を寿老人ということにしてしまったらしい。


 隅田川七福神詣は風流人と言われていた人たちの遊びに源を発するのであり、寿老人の例にもあるように、その生い立ちにはいい加減なところもあったようである。

 正月になると初詣に、この七福神詣に訪れる人が結構多い。

三囲(みめぐり)神社
 東武浅草駅から電車に乗り、一駅先の「業平橋」で下車する。西北の方向に、途中水戸街道を横断して約600m歩くと「三囲神社」に着く。文和年間(1352-56年)に創建された墨東の古刹で、恵比寿と大黒の二神が祀られている。

弘福寺
 三囲神社から北に向かって約300m歩くと「弘福寺」がある。宇治の黄檗山万福寺の末寺で、延宝2年(1673年)に鉄牛和尚によって創建された。ここには布袋尊が祀られている。

長命寺
 弘福寺の北側に隣接して「長命寺」がある。元和元年(1615年)頃の創建とされている。ここには琵琶湖竹生島の分身とされている弁財天が祀られている。余談であるが、門前にある「山本や」は江戸時代から続いている有名な桜餅屋であり、正岡子規が東大時代一時下宿していたこともあるらしい。

百花園
 長命寺からほぼ北東の方向に約1km離れた所にある。文化元年(1804年)に骨董屋で儲けた佐原鞠塢が開いた。上述した通り、ここは隅田川七福神詣発祥の地である。

白鬚(しらひげ)神社
 百花園からほぼ西に向かって約200m歩いたところにある。天暦5年(951年)に慈恵大師が近江の国の白鬚大明神の分霊を祀ったのが創始とされる。白鬚大明神を寿老人としたのは上述の通りである。

多聞寺
 白鬚神社からほぼ北に向かって約1.5kmの所にある。慶長11年(1606年)年に建立された。本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられている。
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Yukiyoshi Morimoto