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沖縄「首里城公園」

首里城へのアクセス  沖縄、那覇市の東部にある首里城は14世紀末に創建されたといわれている琉球独特の城である。

 首里城を中心として琉球王国が成立したのは1429年であり、1879年沖縄県の誕生により首里城の明け渡しまでの間、琉球王国が続いていたとされている。

 大正14年(1925年)及び昭和8年(1933年)には首里城の正殿及び歓会門、守礼門などが国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)太平洋戦争末期にアメリカ軍の激しい攻撃により、首里城は破壊され、ほぼ消滅してしまった。

 戦後、わずかに残った遺構の上に、アメリカ統治時代の昭和32年(1957年)に園比屋武御獄石門が復元されたのをはじめとして、以後、復元作業が続けられ、平成元年(1989年)から正殿の復元に着手、平成4年(1992年)にはほぼ復元が完了し公園として公開されることになった。なお、現在(2002年)でも一部復元作業が行われているようである。
守礼門
 「守礼門」(左の写真)は城外にある門の一つであるが、この門が首里城への事実上の入口になっている。

 創建されたのは尚清王時代の16世紀中頃とされており、復元は昭和33年(1958年)に行われたようである。

 門は四本の柱で支えられ扁額が掲げられている。これは三間牌楼形式と呼ばれ、中国でよく見られる形状の建物である。
守礼門の扁額
 門の掲げられている扁額には『守礼之邦』と書かれている(左の写真)が、これは『琉球は礼節を重んじる国である』の意味であるという。

 「守礼門」は二千円紙幣のデザインに採用されており、一般によく知られている。
園比屋武御獄石門
 「守礼門」をくぐり奥に進むと左手に「園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん)(左の写真)が見える。

 この石門は尚真王時代の1519年に創建されたものといわれ、太平洋戦争で破壊されたが、昭和32年(1957年)に復元、その後、昭和61年(1986年)に解体修理されたのが現状の門である。

 石門は祈願所、即ち神社でいえば拝殿であり、国王が行幸の際安全をこの石門前で祈願したという。本殿にあたる建物はなく、奥にある森がそれにあたるとされている。

 この「園比屋武御獄石門」は『琉球王国のグスク及び関連遺跡群』の一つとしてユネスコ世界遺産に登録(2000年12月)されている。
歓会門
 「園比屋武御獄石門」の前の道路を横切り、奥に向かって進と「歓会門(かんかいもん)(左の写真)に着く。

 「歓会門」は首里城の城郭内に入る正門である。この門は尚真王時代(1477〜1526年)に創建されたものといわれ、太平洋戦争で破壊されたが、昭和49年(1974年)に復元された。

 アーチ式の門の上には木造の櫓が付けられている。門の幅は3m程度であり
正門とされているわりには狭いような感じがするが、防御ということから考えれば妥当かもしれない。
龍樋
 「歓会門」をくぐり右手の方向にある石段を上ると、次の門に着くまでの途中右側に「龍樋(りゅうひ)(左の写真)がある。

 「龍樋」の名称は龍の口から湧き水が流れ出ていることから名付けられたようである。

 龍の頭の部分は石に彫られたもので、1523年に中国からもたらされたものといわれているが、太平洋戦争で一部破壊されたため戦後に修復されたという。
瑞泉門
 「龍樋」を右手に見て石段を上ると「瑞泉門(ずいせんもん)(左の写真)に着く。

 「瑞泉」という名前は門の近くにある「龍樋」に因んで付けられたといわれており、瑞泉には立派なめでたい泉という意味があるという。
漏刻門
 「瑞泉門」をくぐり、更に石段を上ると「瑞泉門」と見た目に同じような感じの門「漏刻門(ろうこくもん)(左の写真)がある。

 「漏刻」というのは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことからこの名が付いたという。

 15世紀の創建であり、老朽化のため昭和初期に撤去されていたが、平成4年(1992年)に復元されたようである。

 国王に敬意を表すため、高官でもこの場所で駕籠を下りたことから、「かご居
せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれている。
広福門
 「漏刻門」をくぐると広場になり、右手に「広福門(こうふくもん)(左の写真)が見える。「広福門」はこれまでくぐってきた門とはかなり趣を異にしている。

 「広福」というのは福を行き渡らせるという意味であるという。

 正面に向かって左側が士族の財産をめぐる争いを調停する大与座、右側が神社仏閣を管理する寺社座がおかれていたといわれている。

 創建年代は不明とされ、明治末期には撤去されたようであるが、平成4年(1992年)に復元された。

 現在、「広福門」はこれより奥の有料区域への入場券発売場所になっている。
首里森御獄
 「広福門」の内側は「下之御庭(しちやぬうなー)」と呼ばれる広場になっている。この広場の隅に「首里森御獄(すいむいうたき)(左の写真)がある。

 ここは礼拝所であり、琉球開闢神話によれば、神が造った聖地であるとされており、首里城内で最も格式の高い拝所の一つとされている。

 石積内の植物はガジュマルやクロップである。この御獄は平成9年(1997年)に復元された。
奉神門
 「広福門」をくぐると、正殿のある御庭(うなー)に入る最後の門、「奉神門(ほうしんもん)(左の写真)が見える。

 門に向かって左側は薬、茶、タバコなどを扱った納殿、右側は城内の儀式などに使われた君誇という部屋になっていたという。

 三つの入口の内、中央は国王や賓客など身分の高い人の専用の通路で一般の役人は左右の門から出入りしていたといわれている。

 「奉神門」は平成4年(1992年)に復元された。
御庭と正殿
 「奉神門」をくぐると、正面に「御庭(うなー)が拡がっており、その正面奥に「正殿」が見える(左の写真)。

 「御庭」は東西約40m、南北約44mの広場で赤と白の敷き瓦が敷きつめられており、種々な式典の会場に使われていたといわれている。縞模様の敷き瓦は儀式の際、役人が位の順に並ぶ目印の役割をはたしていたという。
正殿正面の唐破風妻壁
 「正殿」の正面、唐破風の妻壁中央には火焔宝珠、両脇には金龍と瑞雲の彫刻、中央上部には龍頭が飾られている(左のコピー:首里城公園管理センター発行のパンフレットより)。

 現存の「正殿」は1712年頃に再建された「正殿」をモデルとし、平成4年(1992年)に復元されたものであり、琉球王国最大の木造建築物で三階建てである。

 復元に際し、正殿の遺構を保護するため約70cmの盛り土をして現存の「正殿」を建てたようである。
番所
 「正殿」に向かって右側に「南殿(なんでん)」、更にその右側に「番所(ばんどころ)(左の写真)がある。

 「南殿」は催行事や薩摩藩の役人の接待所などに用いられ、「番所」は登城してきた人々の取り次ぎを行っていた場所といわれている。

 現在、「番所」は「正殿」内の見学コースの入口として、また「南殿」及び「番所」は王朝時代の美術工芸品などの展示場所になっている。
北殿
 「正殿」に向かって左側には「北殿(ほくでん)(左の写真)がある。

 かつて、ここは重要案件の審議など政務の中枢として機能していたと共に、中国から皇帝の使者が訪れたときの接待所としても使われていたという。

 現在、「北殿」は展示場、映像コーナー、売店などになっている。
正殿一階御差床
 左の写真は「正殿」の一階にある「御差床(うさすか)である。「御差床」とは儀式や政治の際に国王が座る玉座のことである。写真でもわかるように背後の障子の裏側には二階に通じる階段が見えるが、これは国王が通る階段である。

 「御差床」の両脇には金龍と五色の雲が描かれた朱柱がある。左の写真で左端にこの朱柱が見える。
二階御差床
 左の写真は二階の「御差床(うさすか)である。一階の「御差床」には椅子が置かれていなかったが、ここには黄金の装飾が施された椅子が置かれている。この「御差床」は国王の玉座として、ここで種々な儀礼、祝宴が行われたという。

 かつては「御差床」の上部には中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも架かっていたという。現在、架かっている『中山世土』もその一つであるが、勿論オリジナルのものではなく古記録をもとに復元したものといわれている。


 正殿の内部は一部金ピカの部分があるにしても、床、壁面、天井など大部分は朱塗りで赤一色といってもいい。国王や側近はこのような環境の中で毎日過ごしていたのだろうか。精神的にいい環境だったようには思えない。
右掖門
 現在、「御庭」からの出口になっているのがこの「右掖門(うえきもん)(左の写真)であるが、かつては、国王の親族や女官の生活の場であった本殿裏側のエリアへ通じる門として機能していたといわれている。首里城にいくつかある裏門の一つである。

 この門は15世紀頃の創建といわれており、他の建築物と同様、太平洋戦争で破壊されてしまったが、発掘調査で遺構が確認され、この遺構の上に新たに石を積んで平成12年(2000年)に復元された。
久慶門
 この「久慶門(きゅうけいもん)(左の写真)は現在、城郭内見学順路の出口になっている。

 「歓会門」が正門であったのに対し、「久慶門」は首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれている。

 現存の門は昭和58年(1983年)に復元されたものである。

 「首里城」は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコ世界遺産に登録されているが、世界遺産の対象となったのは遺構部分のみであり、復元された部分は除外されている。

 建築物は復元されて間もないため綺麗であるが、それだけに遺跡群という感じからは程遠く、名称の通り正に公園である。首里城のPRでは世界遺産という言葉が再々出てくるようであるが、建造物はユネスコ世界遺産ではないのでそのつもりで割り引く必要がある。

 ただ、正殿をはじめとして随所に琉球王朝の栄華が感じとれるように復元されているので十分に時間をかけて見学したい。
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Yukiyoshi Morimoto