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滋賀県東近江市「惟喬親王と木地師の里」
 ここには温泉もなければ飲み屋もない。観光地というにはあまりにもマイナーであり、観光スポット紹介のタイトルにはそぐわないかもしれないが、謂われのある土地好きの人には見逃せない興味深いものがある。

 この地は東近江市になっているが、町村合併前は永源寺町であった。永源寺町にはその名の通り、紅葉で有名な永源寺があり、寺を訪れる観光客は多いが、更に山の中にある君ヶ畑まで足を延ばす人は殆どいない。

 この地は左の写真にあるように、日本で普通に見られる典型的な山間の集落である。

 第55代文徳天皇の第一皇子である惟喬親王は次の皇位を継ぐ筈であったが、時の摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王が第56代清和天皇に即位した。

 皇位継承に敗れた惟喬親王は失意の内、わずかの家臣をつれ、貞観元年(859年)15才の時、都を逃れ小松畑と呼ばれていたこの山中に幽棲したといわれている。

 皇位の継承は長男であることよりも、時の権力関係に大きく左右されたようである。失意の惟喬親王は、何故この地を隠棲の場所に選んだのであろうか。

 惟喬親王はこの地に金龍寺を建て、これを住居とした。以来、里人は小松畑を君ヶ畑と呼ぶようになり、金龍寺を「高松御所」と呼んだ(左の写真:入り口に高松御所の名額がかかっている)。

 金龍寺は寺というよりも若干大きな民家という体裁であり、地位を捨てたとはいえ皇位継承の資格のある皇子の住まいとしては随分質素なように思われる。当時はこのような形になるのが当然の姿だったのだろうか。

 惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案発明したと伝えられている。轆轤を使い、木材を原料とし、こま、椀、盆、こけしなど回転対称軸(正しい表現かどうかは分からない)を持つ物を作る人を「木地師」というが、以来、この地が良質の木材の産出することも相まって「木地師発祥の地」と言われるようになった。

 惟喬親王は日本木地師の元祖とされ、この地から多くの木地師が日本全国に散らばっていったという。全国各地の木地師縁の家の多くは、今も君ヶ畑を本籍地としている。

 木地師に関する文献や数々の遺品が、資料館をはじめ、木地師の子孫の家々に保存されている。

 法華経の巻物の回転から、それまで世に無かった椀のような木地作りを初めて考えついたとすれば、惟喬親王は今でいう発想の転換ができ、応用する能力に抜群に優れた人だったと言える。実際は、木をくりぬいて椀などは既に作られていたところに、惟喬親王は、考えついた轆轤を導入して、仕上がりを良くし、製造効率をあげることに成功したのが実の姿ではないかと思われる。

 何れにしても惟喬親王は、専門職としての木地師の地位を確立したと考えてもよく、その功績には計り知れないものがあろう。


 金龍寺高松御所から一寸離れた場所に、杉の大木に囲まれて惟喬親王を祭神とする器地祖神社がある。神社としての規模は大きくはないが荘厳さはある(上の写真:神社本殿)。

 金龍寺高松御所のすぐ近くに惟喬親王の墓所がある(左の写真)。墳丘は盛り土がしてあるが、墓所自体は大きなものではない。正面の石製の扉には皇室の紋章である菊花が刻まれている。

 惟喬親王は、一時、鈴鹿山系の御池岳頂上付近に草庵を建て、住んでいたことがある。その時、
「深山辺の池の汀に松たちて都にも似ぬ住居とぞおもう」なる歌を詠んでいる。

 この歌にあるように、親王は都への思いを募らせていたようで、平凡な人間くさい一面を見せており、親しみがわいてくる。

 今でも惟喬親王は土地の人々の尊敬を集めており、「木地祖神高松御所奉賛会」なる組織もある。
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Yukiyoshi Morimoto